≪34≫ 水上チェイス
ルシェラが鋭く天を指さすと、光の尾を引いて火の玉が打ち上がり、炎の蛇が空中で絡み合うような爆発を起こした。
「それで気づいてくれるか!?」
「ママなら絶対に!」
カファルを呼ぶための『狼煙』だった。
だが仮にカファルが、即座に事態に気づいて飛んでくるとしても、幾ばくかの時間が掛かる。
その間、手負いの大水蛇は、黙って待っていてはくれないだろう。
『イ゛……ギギギ……』
大水蛇は歪んだ口から、あぶくと一緒に、喉を軋ませるような唸り声を出した。
呼吸をするのさえ苦しそうだ。本来であれば十回死ぬくらいの傷をカファルに負わされたのだろうが、大水蛇は人知を超えた力によって生かされている。デタラメに過剰再生した体組織が、大水蛇を異形の命としていた。
『……【ドコダ】……』
だがその歪んだ唸り声にすら、ルシェラは意味を読み取った。
ドラゴン語と同じような、心の言葉。胸を締め付けるような響き。
大水蛇の言葉とは、もはや思えぬ。この魔境の主、変異体を操るモノ、即ちそれは……マルトガルズの竜命錫か。
「おい、逃げるぞ!」
考え込んだのは一瞬だったはずだが、そんな情緒すら大水蛇は許さない。
どこだと問いながら答えすら聞かず、乱杭の牙を剥きだして突進してきた。
巨大な魔物はしばしば、大質量を武器とした体当たり攻撃を行う。
単純だが、それ故にこそ対処は至難。超人的冒険者たちは当然、真正の超越者たるルシェラさえ、これを正面から受け止めるのは得策ではない。
水上を滑走するような突進に対し、ティムたち三人はさっと狙いを散らして別方向に飛び離れ、回避する。
それと同時にルシェラが回避する方向は……下だ。
ずぶり、と瞬時に水中へ滑り込んだルシェラは、突進を仕掛けてくる大水蛇の腹の下で擦れ違う。
大水蛇の腹甲は、硬化した腫瘍に覆われていた。
いびつな腹甲をルシェラは素早く観察する。どこに穴が空いて、塞いだ結果か。
ルシェラの力ではカファルのように丸焼きにはできない。狙うは一点。一瞬。
弓を引き絞るように腕を引き、ルシェラは手刀を固めた。その手は赤熱し、水蒸気と化した水が泡として湧き上がる。
そして一撃、突いた。
炎を操る力を、手先に一点集中。
大水蛇の体組織を触れる傍から炭化させて切り裂き、貫く。
そこは一度、カファルが爪で貫いた場所だった。
『ア゛ア゛ア゛ア゛!!』
大水蛇が名状しがたき悲鳴を上げ、水を打って痙攣するように大きく跳ね上がった。
突進の勢いそのままに暴れ狂いながら猛進し、巨木を一本へし折って、水の中で結び目を作るかのようにグネグネ悶絶した。
だが直後、何かに引きずり起こされるように、大水蛇は頭を上げる。
その口内に、そして周囲に、渦巻く潮流をルシェラは見た。
「ブレスが来ます!」
水面から天に向けて垂直になぎ払う刃が、数えて十条。大水蛇の頭部両脇の虚空から、五発ずつ。水面を切り分ける水撃が飛んだ。
攻撃の瞬間、ウェインが一歩前に出て囮となる。怪盗スタイルのマントを翻し、攻撃を誘った。彼はマントの裏面にちょっとした仕掛けをしている。催眠術のような作用で敵の意識を釘付けにし、自分に攻撃を引きつけるのだ。
水撃一条、歩くように軽く飛び越え、二条、身を沈め、三条、滑り込んでくぐり、四条、錐揉みに回転しながら右へ身を投げて跳躍。水撃が彼の頬をかすめて僅かに表皮を削り、血をにじませた。
残りの水撃は他三名を狙っていたようだが、ウェインに気を逸らされたせいで狙いが甘い。
熟練の冒険者たちにとっては見てから避けられる攻撃だ。
だが直後、大水蛇の口から、本命のブレスが放たれる!
大水蛇の身体より体積がありそうな、極大質量の水撃が、遙か彼方までぶち抜いた。直線上の木々は消し飛び、それを免れた木々さえ、余波の大波を頭まで被る。
血を吐き、命を振り絞り、魂を削るような渾身のブレス攻撃だった。
そして嵐が過ぎ去って、大水蛇は息も絶え絶え、頭を垂れる。
ブレスの軌道上にはもはや何も無し。
水面が波打つばかりだ。
否。
水面にあぶくが立った。
ルシェラとウェインを収めた巨大な泡が水中から浮上し、水面で弾けて二人を吐き出した。
「サンキュ」
ブレスがウェインを狙った瞬間、ルシェラはウェインに飛びついて、共に水中に身を潜めたのだ。
「流石ルシェラちゃん!
水棲の魔物でも普通は標的が水中か水上かで対処を変えます。同時には対応できないという……」
「言ってる場合か、逃げるぞ!」
四人は水上を走り出す。
大水蛇は、長い身体を引きずるように、その背中を追い始めた。
『……ァ…………アァ……!』
大水蛇は、かすれて消えそうな狂乱の叫びを上げる。
乱杭の牙の隙間から血反吐がこぼれていた。体内で自壊と異常再生を繰り返しているのだ。本来あるべき命の限界をとうに超えているのは明らかだった。
その、死にかけているような有様とは裏腹に、泳ぎは力強く俊敏だった。
「くそったれ! 足を止めたら死ぬぞ!」
四人は早馬の速度で水上を駆け、逃げた。水没した木々が飛ぶような速度で流れ去っていく。
一歩踏み出す度に爆発的な飛沫が立ち、推進力を生み出して矢のように跳躍する。
ルシェラの力によるものだ。先程までも仲間たちが水面を歩けるようサポートしていたが、その強度を上げて、疾駆できるようにした。
ただ、バランスを誤れば転倒する。サポートしてはいるが、走るのはあくまでも仲間たち自身なのだ。
「とわっ!」
足をもつれさせたビオラが、前方に滑り込むように身を投げ出した。
フォローの判断も即座!
ルシェラは踵から激流を放ち、猛加速。ビオラが着水するより前に、彼女の下に滑り込んで受け止めた。
「リーダー、一発!」
「引き受けた!」
ティムは鋭く方向転換し、大鉈のような剣を抜きながら大水蛇を迎え撃つ。
突進してくる大水蛇の巨大な頭部。腫瘍にまみれた、破城鎚のような頭部の頭突き攻撃。こんなものを食らえば王都の城門だって無傷では済むまい。
だが、ティムは鎧の肩を怒らせて、水面を踏みしめ剣を構えた。
「どらぁあ!!」
そして激突!
衝撃が大波となって、ティムと大水蛇を中心に広がった。
双方弾かれる。ティムだけではない、大水蛇の方もだ。脳震盪でも起こしたようにフラフラとのけぞって、大水蛇は水面に倒れた。
いかに超人的冒険者と言えど普通なら確実に死ぬような一撃だ。
ティムが生き延びた理由は、本人曰く『都市予算級の値段』だという強力な鎧。そして、その鎧の力を限界以上に引き出すティムの技によるものだろう。
練達の戦士であるティムの生体魔力回路は、身体能力強化に極限まで最適化されており、今からどう鍛えてもビオラのような魔術師にはなれない。
その代わり、鎧すら己の肉体の延長であるかのように、肉体と共鳴させ命の脈動を宿せる。『練技』と呼ばれる技術だ。
最高の鎧と最高の冒険者。そして練技【金剛不壊】。
強大な変異体の一撃を、卑小な人の身で受け止め、なおティムは生き延びる。
これこそセトゥレウに只一人の、ギルド認定ランク8、救国級冒険者の実力である!
「助かりました……!
無事ですかリーダー!?」
「平気だ、いいから行くぞ!」
四人は逃走を再開。そして大水蛇も即座に追走を再開。
敵は痛手を負ったようにも見えたが、何かに引きずられるように全速力で向かってくるのだ。
「道中の変異体はだいたい倒してたよな?」
「一匹を除いてな!」
ルシェラたちは遠話のため、ベースキャンプから離れて魔境の外縁近くを目指したのだが、ついでに出会った変異体をことごとく仕留めて回収してきた。
『でかすぎるから帰りに始末して持って帰ろう』、という話になった一匹を除いて。
「……お出ましだぜ」
行く手の木陰から、のっそりと姿を現す巨体があった。
頭と背中に合わせて六対の発雷角を持つカバだ。
雷牙河馬という魔物のような気もするが、やはり異常に変異強化されている。原種にはあんな角は無いし、ここまで大きくもないし、こんなマッチョでもない。
群れの仲間を食い尽くし、その力を奪った変異体だろう。
虚ろに睨み付ける視線は、ルシェラに対する食欲と、邪魔な他三名に対する殺意に満ちていた。
おそらく対処可能な相手だ。
……挟み撃ちでなければ。
「どうすんだ!?」
「手はあります!」
ルシェラは収納ポーチに手を突っ込んで、小さく堅いものを抜き出す。
艶めく紅蓮の欠片。カファルの鱗だ。
鱗を握りこんだルシェラの手の中で、炎が溢れる。
ルシェラは己の炎でカファルの鱗を融かしているのだ。
手のひらが痛い。ルシェラですら火傷しそうな熱だった。
そしてルシェラはカバの魔物に躍りかかり、手の中のものを投げつける。
赤熱する溶岩のようなペーストを!
『フゴオオオ!』
灼熱の物体を頭に引っかけられ、カバの魔物は咆吼する。
肉が焼ける香ばしいニオイが立った。
悶え苦しみ、水の中を転がるが、その身を炎は執拗に焼き食らう。
「今です、避けて!」
ルシェラの合図で四人は、一斉に左右に飛び分かれた。
四人を追っていた大水蛇は……直進!
回避した四人は眼中にないかの如く猛進し、乱杭の牙を剥きだして、カバの魔物に激突! 食らいつく!
大水蛇と巨大なカバが、もつれ合いながら木々をなぎ倒した。
パニック状態のカバが放った電撃が、断続的に、目映くデタラメに輝いた。
「……あれだけ大きな変異体なら竜気の塊も同然。
そこに本物のドラゴンの鱗まで合わせれば、変異体は本能的に食いつきます」
「なるほど……」
たとえば金貨が転がるのを見たら、愚か者は命懸けの戦いの最中でも、それに飛びつくだろう。
竜気を食らい、力を得ることは、変異体の本能だ。
この魔境の変異体も、その本能に従って行動しているように見える。
ならば、どうしても食いつきたくなるよう膳立てしてやれば、獲物の優先順位を変えるとルシェラは見たのだ。
二体の変異体は、組み合い、絡み合い、噛み付き合う。
だが力の差は歴然。
大水蛇は電撃をゼロ距離で浴びながらも、強靱な顎門でカバの頭蓋を噛み砕き、囓り取った。
その瞬間、大水蛇の口が爆発し、下顎が吹き飛んだ。
「あげるとは言ってないよ」
溶解したカファルの鱗に秘められた力を、ルシェラが解放し、爆発させたのだ。
獲物を食らい損ねた大水蛇が、幽鬼のように鎌首もたげる。
吹き飛んだはずの下顎は、しかし、急速に再生していた。顎の代わりとなる骨が、血を吹きながら生えてきて、肉が盛り上がる。骨格標本のような顎に、脈動する肉塊がへばりついた有様は、まるでゾンビだった。
もはやうなり声も出ぬ口から、鞴のような吐息を漏らしながら、大水蛇はルシェラを見据える。
カバの変異体を仕留めたことで、次に狙うべきはルシェラだと定めたようだ。
その頭を、炎の暴圧が殴りつける!
天より下る流星の如きブレスだった。再生したばかりの肉が炭化し、骨まで焦がして割り砕く。
閃光で横っ面を張り飛ばされた大水蛇は、もんどり打って倒れ、水中でグルグル転げ回った。
熱風が吹き始めた。
大いなる羽ばたきが水面を波立たせる。
水面を水蒸気に変えながら、深紅の巨影が落ちてきて、大水蛇とルシェラの間に割って入った。







