≪33≫ もう一つの暴走
水没した森林地帯の、少し開けた場所。
ベースキャンプから少し急ぎ足で、南側に探索領域を広げ、ルシェラたちはそこを見つけた。
「どうだ、ビオラ?」
「向こうに聴く態勢があればギリギリ届くかなってところですね。
どこかのお城の通信室が拾ってくれれば……」
ルシェラが溶岩を固めて足場を作り、そこにビオラが魔方陣を描いていく。
多重に円を重ね、紋様のような術式を織り込んだ魔方陣は、遙か彼方の人と言葉を交わすための遠話術式だ。
魔方陣の外周上には、変異体から採取した触媒を置き、燃料としている。
……魔境に満ちる力を利用して、人が魔法を行使するのは不可能だが、一度変異体が取り込んでエネルギーとして蓄えたものなら、利用できるのだ。
普通なら魔境では術師が魔力をほぼ回復できず、長期の行動が制限されるという問題もあるのだが、ビオラは変異体を食らうことで魔力を回復していた。
陣の中心にビオラが跪き、杖の石突きで溶岩石を打つ。
そのたびにインクで描かれた魔方陣が、燐光を放った。
魔境は、人の魔法如きでは及びも付かぬ膨大なエネルギーが渦巻く場所。遠話の魔法も不安定で、なるべく異変地帯の外縁に近づき、大規模な術式を組むことでどうにか通信を試みている。
繋がる保証は無かった。
硬い石を打つ高い音が、滔々と流るる水の音を払うかのように響き渡る。幾度も幾度も。
そして。
「……繋がりました!」
「これを聞いてる人! すみません、こちらは勅使です!
術式割符を確認してください。要求、3,8,1,6,4,4!」
『なっ……!? りょ、了解した!』
ビオラが言うなり、ルシェラは魔方陣の向こうに向かって叫んだ。
指定されたとおりの符牒を述べると、緊迫した様子の返事がある。
さらに待つこと、数分。
『そなたか、竜の子よ!』
「殿下? 皇太子殿下ですね!?」
魔方陣の向こうから聞こえた声は、カイン・アルニア……先日ルシェラが顔を合わせた、かの皇太子のものだった。
ルシェラの呼び出しを取り次いだのだ。
カインが今どこに居るかルシェラは知らないが、カインは最寄りの遠話施設に急行し、その声を中継させている。大抵の城や砦には、長距離遠話のための儀式場が常設されていて、中継に中継を重ねれば国の反対側に居る者とも会話ができる仕組みなのだ。
『そなたが魔境の中に消えたときは何事かと思うたが……』
「これは私がした事ではありません。
暴走する竜命錫を待ち受けるべく、わたしたちがやってきたところ、未知の力により周囲が魔境化したのです」
ルシェラは都合が良い説明をした。
元々はルシェラとカファルが勝手に侵略的な魔境を作ろうとしていたのだが、この状況ならその事実は省略して構わないだろう。
『……やはり、そなたの所業ではなかったか』
「『やはり』?」
唸るようなカインの返事は、ルシェラにとって意外なものだった。
『よいか、竜の子よ。
これは帝国の者でも、ほんの一部しか知らぬ国家の秘事。
だが今は人族世界を揺るがす大事を慮り、そなたへの信頼を以てこれを明かすのだ』
「はい、承知しました」
カインは恩着せがましくもったいぶる。
ルシェラは『いいから本題に入れ』と言いたかったが、ここで余計なことを言う方が時間を食うと判断した。
深呼吸でもするような、間があった。
『我が帝国の保有する、水の竜命錫「無尽なる淵門」が暴走した』
「えっ……!?」
『いや、とうに暴走していた、と言うべきだな。
隠蔽されておったのだ。おそらくは東部防衛軍の一部と、あのマヌエル・ウィーバーだけが知っていた。私が事態を把握したのも昨日になってからだ』
カインの言葉は、ルシェラが呆然とするのに十分だった。
竜命錫の暴走など、滅多にないこと。……決して暴走させてはならぬのだ。竜命錫を扱う者らは、細心の注意を払っているはず。まして竜命錫を散々使って戦争してきたマルトガルズなら、その限界をも心得ているはずだ。
驚く一方で、そうと聞けば腑に落ちる部分もあった。
「殿下、よもや……
『無尽なる淵門』が暴走したのは、戦場に奇妙な魔物が現れたのと同時期では?」
『……時期としては、そうなるな』
「あれは、マルトガルズの竜命錫の力だったってのか?」
思わず、といった様子で、話を聞いていたティムが声を上げた。
グファーレとマルトガルズが衝突する戦場では、人型をした水の怪物が無数に現れ、暴れていた。ルシェラを除くパーティーメンバーは、その対処に当たっていたのだ。
戦場の怪物は、話を聞く限り、魔物と言うよりも何かの魔法のように感じられた。
それが竜命錫の力だったと言うならルシェラも納得できる……何故、このタイミングで暴走が起こったのかという疑問を別とすれば。
「今のお話で、わたしの置かれた状況に関しても推測できました。
わたしの周囲に存在している、水の魔境も、地脈回路を通じて暴走の影響を受けたと考えれば、説明は付きます」
『私もそれを疑っていた。
もう半分は、そなたが何ぞしでかした可能性を疑ったが』
かの竜命錫は東の戦場にあったわけだから、目の前の戦場にはもちろん影響を及ぼせるし、竜命錫は地脈回路を通して国中に力を伝播させられるのだから、この場所も竜命錫の手の上と言える道理だ。
魔境の発生を観測し、竜命錫の暴走を知ったカインも、同じ結論に至っていたようだ。
『だが何故、暴走する竜命錫がそなたを狙うのだ?』
「それは分かりません。殿下は何か、お心当たりが?」
『いや、何も』
そしてそれ以上は、まだ謎だ。
未開の密林を進むかのように、謎を超えた先には別の謎があるだけだった。
ルシェラはひとまず、これ以上謎を追いかけても今は無意味だと判断した。
まずは目の前の問題に対処するべきだ。
「と、とにかく、わたしからお願いしたいのは退治人の派遣です。
我々は魔境の調査と攻略を行い、竜命錫を迎え撃つ準備をしております。
変異体とも戦えるような精鋭退治人にご助力いただければ、大変ありがたいです」
危険を冒してベースキャンプから遠く離れたのは、助けを求めるため。
ルシェラたちだけでは、変異体を狩りきれぬ。だがマルトガルズは在野の冒険者が少なく、ほとんどは退治人として公に召し抱えられている。
変異体と戦えるような猛者は、そこにしか居ないのだ。
『ふむ……最大限努力しよう』
カインの慎重な答えを聞いて、ルシェラはほぞを噛んだ。
――難しいか。
無理、という意味だ。
一線を越えていると、カインは考えたのだろう。ルシェラが『慧眼の渦嵐』を回収するのは彼も望むところだが、あまりにあからさまにセトゥレウに肩入れするような動きを見せれば、カインの足下が揺らぐ。
まして竜命錫が暴走している状態で、戦場の環境を維持するためには、優秀な退治人を動員したいところだろう。
「『無尽なる淵門』の暴走を抑える算段は、ございますか」
『友好国から水の竜命錫を喚び、沈静化させる。
今すぐにとはいかぬが、宰相めが手配していたようだ』
「……なるほど」
北に目をやれば、戦わずマルトガルズに降伏することで、国体と竜命錫だけは守った小国が存在する。そこから駆り出すのだろう。
同時にそれは、ルシェラがこの場を逃せば、マルトガルズ側に『慧眼の渦嵐』を回収する手札が増えるという事でもある。それをカインが制御できる保証は無いのだ。
『そちらから定期的に遠話を繋げるか?』
「遠話のためにはベースキャンプを離れ、魔境の外縁にある程度近づく必要があります。
度々そうしていては、変異体を狩り集めるという目標が達成できません。
おそらく状況が改善されるより、『慧眼の渦嵐』の到達が早いかと」
『ぬう……そうか。
なれば南の空を注視せよ。
こちらから連絡の用があれば、魔法的な狼煙や信号弾を放たせる』
「はい、よろしくお願いします」
『健闘を祈るぞ』
そして、魔方陣の光は消えて、水のせせらぎと疲労感が残った。
皆、しばし揃って沈黙する。
「苦労してここまで来たっつうのに、援軍は望み薄か」
「ならばせめて……例の大水蛇を倒しておきたいですね。
あれがおそらく魔境の中心的存在で、桁違いの竜気を秘めています。
数が期待できない以上、大物を回収しないと」
しょげてもいられない。必要なのは次善の策だ。
難しくとも、それを成さねばならぬ。
「ベースキャンプにおびき寄せれば戦えると思うんです。
環境の構築が進んでるから、敵の奇妙な加護も抑え込めるかも知れない」
「しかし、奴さん、深い谷川の底で毛布被って震えてる頃だぜ。
どうやっておびき出すんだ?」
「そこは……わたしの力でどうにか、水中で活動できる状態になって……」
「……ん?」
辺りの水面が波立って、すぐにそれは大きなうねりとなって打ち寄せ、燃え尽きた触媒を洗い流した。
水没した木々をかき分け、へし折り、大波が近づいてくる。
ただの波ではなく、巨大な何かの潜む波が。
そして卵が孵るように、波が弾けた。
舞い散る飛沫の中に、群青色の鱗が映える。
その巨影の頭部はドラゴンに似ているが、もはや冒涜的に歪んでいた。焼き潰された傷跡をデタラメに埋め合わせたかのように、出来損ないの鱗から成る硬質な腫瘍で覆われていたからだ。
鱗や甲殻、あるいは皮質の下からは、骨が突き出していた。乱雑に発達して伸びた骨が整合性無くいくつも突き出している。まるで戦場に突き立った、廃兵の剣の如く。
「喜べルシェラ。良いニュースが一つあるぜ」
「わあ、なんでしょう。想像も付きません」
「ダイビングはしなくても済みそうだ」
腫瘍に覆われてデコボコになった頭部の奥。残った片目に、憤怒と狂気を燃やして。
かの大水蛇が水面から鎌首もたげ、ルシェラを見下ろしていた。







