≪32≫ 隔絶
「この際だから言うが、それはメイドの仕事じゃないか?」
「…………最っ低!」
エフレイン・クラウベルは既婚者である。
……『既婚者だった』と過去形で語るべきかも知れないが、まだ書類上は既婚者であった。
お互いによく堪えたのであろうが、妻であるベリンダとの生活は9ヶ月余りで破綻し、その後のエフレインは結婚前と変わらぬ生活に戻った。
「あなたときたら、いつもそうだわ!
好みの布柄すら私には教えてくれない!」
「いつの話をしてるんだ!
だいたい、あれは君の部屋のテーブルクロスの話だろ!
どうして俺が決めるんだ?」
「決めてほしかったのよ!」
マルトガルズ帝国には、『栄誉ある婚姻』プログラムなるものが存在する。
これは大変下世話な言い方をするなら、国営お見合い制度だ。
狙いとしては主に、平民出身の官を国家の心臓部たる上流階級に組み込んでいくためのものだった。子の世代、孫の世代に、より強靱な帝国を作るために。心臓そのものを大きくするために。
エフレインも対象となり、父にして母なる国の決定をエフレインは受け入れた。
「こないだ身体を壊したときも、あなたはすぐに居なくなってしまったわ」
「な、何の話だよ!?
……俺にはこなすべき仕事があった。ベッドで寝てる時間が惜しいんだ」
「私がついていようかって言ったのに!」
「合理的に考えてくれ!
神聖魔法による治療があれば、即座に戦線復帰できるだろ!
それに、君に感染すかも知れなかった」
「ひどい! ひどすぎ!」
ベリンダは貴族でこそないが、良家の子女と表現するに差し支えない、御用商人の娘だった。
歩き方の教育すら受けて育ったのだろうと、エフレインは思った。
だが彼女の精神性に関しては、多くの問題を感じた。美容だの教養だのよりも、まずは性根をどうにかするべきだったろうと。
彼女はまるで、他人に依存することを楽しんでいるようにさえ見えた。なるほど、銀の匙を咥えて生まれてきた者は、こういうものかと思った。
「結局あなたには、私なんか必要無いんだわ!」
「そうさ、君にだって本来俺は必要ない! 自立、独立できるんだ!
だからこそ夫婦というチームになれる! そして大きな力を生み出すんだ!」
「もういい! 知らない!」
やがてエフレインは内心でベリンダを軽蔑するようになった。一方で彼女に疎んじられていることも感じた。
彼女が何を求めているかなんて分からなかったし、彼女に何かを求めようとも思わなかった。
エフレインにとって彼女はただの負担であり、支え合うパートナーたり得なかった。
まして、子を成す事などもはや考えられなかった。
それが幸福だとは思えない。エフレインにとっても、ベリンダにとっても、もちろん、帝国にとっても。
「……ああ、そうだ!
ミスリル鉱業権闘争の調査報告は急いだ方がいいな。
今週のうちに済ませるか……」
ベリンダにとってエフレインは、つまらない男だった。
エフレインにとってベリンダは、幼稚で自己中心的な女だった。
そして二人の関係は終わった。
* * *
轟々。
囂々。
奔流がうなり、うねり、渦巻いて、波の響きが魂を震わせる。
夢と現、記憶と幻覚の区別もつかなくなっていく中で、エフレインは歩き続けていた。
自分の身体がどんな状態なのかさえ分からず、感覚も無い。
だが、進まねばならぬという脅迫観念的な意識を抱いていて、結果としてエフレインは進んでいた。
もはや己の人生に関わりが無いものとして忘れていたベリンダを、ここ数日、エフレインは思い出していた。
……ルシェラとカファルの姿を見て、あの女を思い出した。
奇妙な話だ。ベリンダと彼女らは、何もかも違うというのに。
きっかけもまた、奇妙で些細だった。
カファルがルシェラを着替えさせるのを見た。まるで幼子にそうするように、しなくてもいい世話をしていた。
無駄なことをしているのに、二人とも幸せそうに見えて、それが、まるで天地をひっくり返すような衝撃だった。
エフレインの知らない世界だった。理解が及ばなかった。
ただ、何故だか、ベリンダであれば彼女らの気持ちを理解できたのかも知れないと思った。
その時エフレインは、自分が自分の人生に対して、取り返しの付かない過ちを犯していたのではないかという予感に囚われた。
何かを手に入れるために戦ってきたはずだけれど、狂った羅針盤を持って旅立った船は、海の藻屑と消えるだけだ。
「あ……ああ……
痛い……寒い……」
エフレインの身体はもはや、痛みも寒さも感じないはずなのに、意識の狭間からそんな言葉がこぼれた。
豪雪地帯の建物の屋根みたいに、重く冷たいものが、エフレインにのしかかっていた。
死に憩うことすら、もはやエフレインには許されない。折れて壊れても、まだまだ潰れ続けるのだろう。
だから這いずるように進んでいる。逃げ続けている。
「助けて……くれ……」
その生涯においても稀なことに、エフレインは助けを求める言葉を吐いた。
言葉は嵐の中で引き裂かれて微塵に消えた。
助けを求めたところで、誰がそれを聞くというのか。
エフレインにはもう分からない。
誰の名を呼べば良いかも分からない。エフレインを見守る偉大な者は、もう居ない。全ては虚妄であった。
だが。
向かう先には何かがある。
己を待つ何かが。
足を踏み出すことさえも辛いというのに。
希望に手を引かれるのではなく、絶望に背中を押され、エフレインは進んだ。
東へ、東へと。







