≪29≫ 捜すもの
まだ夜明けには遠い時間。
人間たちは即席の土製建築で眠り、カファルはその前で丸くなり、ルシェラはカファルの喉を枕にしていた。
ルシェラは、意識の水底をヤスリで削られるような感覚を覚え、跳ね起きた。
燃えさかる溶岩によって、ぼうっと照らされている中、ルシェラは土の小屋に駆け込んだ。
「みんな! 起き…………」
そしてその時には、仲間たちは三人とも、既に寝袋を飛び出して武器を手にしていた。
ただ事ならぬ響きであるルシェラの足音を聞いて目を覚ましていたようだ。
モニカも仏頂面で起きだしている。土の小屋の窓からは、カファルの大きな顔がこちらを覗き込んでいた。
「……起きるのが早い」
「どうかしたか?」
流石に鎧を着たままではなく、アンダーの鎖帷子姿で寝ていたらしいティムは、手早く鎧を身につけようとしている最中だった。
「何が起こるのか、私にもちょっとよく分からないんですけど……」
寸の間、ルシェラは言葉を探し、正確さよりも早さが重要だという結論に達した。
「……水が来ます」
「どういうこった?」
「そうとしか言いようがなくて……」
ドラゴンとしての感覚だと、ルシェラはなんとなく分かっていた。
それだけに他人には伝えがたい。
迫り来るものがある。それは水である。それは致命的である。
……本能的に、そこまでは理解した。
それは『慧眼の渦嵐』だろうか?
違う、という気がした。あれはまだ遠い。
それにルシェラは西の空でなく、もっと近くから水のニオイを感じたのだ。深く……足下かどこかから……
「おい、見ろ」
土小屋の窓から外を見ていたウェインが、大地の裂け目を指さした。
この辺りには、クレバスのように深く大地を削った川が、何本も流れている。
昼間に覗き込んだときは、遠い裂け目の底に川が見えて、ウェインはそこから魚を釣るために長い長い釣り糸を垂らしていた。
それがどうだ。
裂け目の口いっぱいまで水かさが増して、じわりと染み出しはじめているではないか。
「この状況で水勢が増してる?」
奇妙だった。
水は滾々と湧き出て広がり、溶岩の流れる溝とぶつかり、水蒸気を立てている。
火と水は相殺する。物理的にも、概念的にも。
今カファルは、この地で『火』の力を掻き起こしているのだ。むしろ『水』が枯れぬよう気遣う必要があるほどで、ここで異常な増水が起こるのは、おかしい。
だが、現に水かさは増している。
流れる溶岩は冷えて固まり、なおも余り在るほどの水に沈んでいく。
つま先に違和感。
水が触れる。
小屋の中にまで水が入り込んだ、と思った次の瞬間には、どっと、ルシェラの足首の高さまで水が流れ込んできた。
「まずい、登れ!」
ティムが言うと同時、全員が『リビング』にある土の机に飛び乗った。モニカはビオラが抱えていた。
ビオラは杖を振るい、建物の形を瞬時に変える。
天井に穴が空き、土の机はそこに向かって、まっすぐせり上がって土の塔になった。
眼下で土の小屋は水没していく。
「荷物は?」
「『ポーチ』はある!」
「残りは……仕方ないか」
『ポーチ』というのは冒険者的な表現だった。
最低限、自分の仕事をこなすための、無くしたら致命的な装備やアイテムは持っているという意味だ。一人前の冒険者は、寝るときも絶対なくさない位置に『ポーチ』を持っている。最悪の場合捨てて身軽になるべきアイテムと、『ポーチ』は区別して持っているのが普通だった。
身につけ切れなかったティムの鎧パーツも、天へと伸びていく机の上に置かれていた。
「おわっ!?」
その土の塔も、揺らいだ。
水の流れが生まれ始めているのだ。土の塔は基部を削られつつあった。
荒ぶる自然の猛威を前にして、たかが魔法で人間が作り出した即席建造物など、脆い。
小さな塔がへし折れた瞬間。
そこから転げ落ちた人々を、カファルが手のひらで受け止めた。
渦巻く流れの中でも、カファルの巨体は重く足を踏ん張っている。彼女の身体は水蒸気を立てていた。
「固めるよ、ママ!」
『分かったわ!』
ルシェラは『火』を呼んだ。
あふれた水を突き破って、地面から炎が噴き出す。
溶岩はすぐに水で冷え固まり、小山のようになっていく。
水かさが増えるのを追い抜いて、灰色の溶岩石の山は、高くなっていった。
* * *
夜が明けた頃、辺りはすっかり水没していた。
木々が腰まで水につかって、頭を突き出している。
水かさの増加は止まったが、冒険者たちは小舟のような無人島の上。
半ば呆然と水面を眺めるばかりだ。
「竜命錫の到着予想って、どうなってたっけ」
「暴走に巻き込まれるのが九日後。中心部との接触が十日後の予想でした」
「そしたら早すぎるよな」
空は晴れていた。
晴れた空を、皆が見上げた。
雨粒一滴落ちてこない。ルシェラたちが見た暴走の在り方と、明らかに異なる。
「やっぱり……『慧眼の渦嵐』のせいじゃ、ないと思います。
あれとは水の流れる感じが全然違う。まるで別の暴走が起こってるみたいな……」
水面に視線を戻し、ルシェラはぽつりと言った。
ルシェラのような『生まれたて』のドラゴンに、分かることは少ない。
水の流れ方に目をこらし、人ならぬ感覚を研ぎ澄ませ、ルシェラは必死で情報を読み取ろうとしていた。
意識の底をざらつかせるような違和感……
自然だが自然ではない。
何かによって動かされている。とても大きなものによって。
秩序無き放埒な力。おそらく暴走だ。だが、何が、何故、暴走しているのか?
「原因究明は第二目標だ。
……いや、第三目標だな。
第一が生存、第二が竜命錫対策」
「これだけ流れが強ければ、『慧眼の渦嵐』の暴走にも耐えられそう、だけど……」
一旦は静かになっていた水面が、ルシェラの見ている前で、波打った。
何事かと首をかしげる暇も無く、水底の峡谷から巨大なものが、水面目がけて駆け上がってきた。
そして、爆発的な水しぶきが上がった。
「何だこいつ!?」
巨影が、鎌首をもたげた。
ルシェラたちがここへ来たときにも見かけた、大水蛇だ。
カファルに怯えて水底へ逃げ去ったはずの大水蛇が顔を出し、小さな溶岩島を見下ろしていた。
艶やかな鱗に覆われた頭部はドラゴンにも似ていて、おそらく淡水に適応したシーサーペントの近縁種だろうとは判断できる。
だが具体的にどんな種族かは分からない。と言うのも、今や明らかに異常な変異を遂げた『変異体』と化していたからだ。
鱗をめくって突き出した骨が外骨格と化し、白い兜のようになっていた。
そして、羽衣のようなヒレが何枚もたなびいていて、その一枚一枚の上に、数珠のような形に圧縮された水の流れがあった。
『ドコダ……ドコダ……』
「喋っ……!?」
さらに。
大水蛇は喋った。
ドラゴンに近い言葉で。濁流のうなりのような声で。
ルシェラは少なくとも、曖昧な言葉の大意を理解できた。
『……カエセ……』
正気とも思えぬ、定まらぬ目で見下ろしてくる大水蛇。
その喉の奥に、潮流が。
爆炎!
大水蛇が致命的なブレスを吐き出す寸前、カファルの吐いた火の玉が、その爆発が、大水蛇を弾き飛ばす!
大水蛇は焼け焦げた鱗をまき散らしながらのけぞり、後頭部から水面に突っ込んで大波を立てる。
向かってくる波はルシェラが指を突きつけると、溶岩島に被さってくる部分のみがぱっと消えた。
一撃を受けた大水蛇は、だが死んでいない。
水中で受け身を取って一回転すると、矢のように泳ぎ、猛進。
カファルのブレスが水面を切り裂く。
だが流水は、僅かながらもブレスの威力を弱めた。大水蛇は頭蓋外骨格を焼かれ、骨灰に変えられながらも、ただひたすらに猛進。
そして巨躯を鞭のようにしならせてカファルに飛びかかるや、カファルを二巻きした。
『ルオオオオオオオ!!』
「ママ!」
バランスを崩して水中に倒れ込んだカファルの、長い首めがけて大水蛇は噛みつこうとする。
だがカファルも強靱な前肢で、大水蛇を掴み返した。
鱗を破砕。爪がズブリとめり込む。
そのまま両者は水上で転げ回った。
至近距離からブレスを打ち合い、炎と水が爆発し、辺りには水蒸気が立ちこめる。
――ただの劣種竜に、こんな力が!?
ルシェラは目を見張り、驚愕する。
ドラゴンと真っ向から戦って勝負になるなら、あの大水蛇はドラゴンと同等の力を持っているという事になる。あり得ない話だった。
「こいつっ!」
足下の溶岩石をルシェラが撫でると、それは再度赤熱。
引きずり出した溶岩が剣を模る。それは流体が辛うじて剣の形をしているだけで、夏の日差しに晒されたアイスみたいにドロドロと、ルシェラの手の上に赤熱する溶岩が流れ落ちていた。
そしてルシェラは水上を疾走。
一直線の波紋を残して、波を蹴立て、組み討つ二頭の巨獣目がけて跳躍した。
飛沫が散って、ルシェラは宙を蹴る。
まるでそこに壁があるかのように、ルシェラは宙に水の痕跡を残して三角飛びをした。二度三度四度、斜めに蹴り上がり、高さを稼ぐ。
カファルと大水蛇が格闘する、その頭上にルシェラは身体を投げ出し、舞った。
入り乱れて激しく戦う二頭の動きをよく見て、狙い澄まし、そして……身体をひねって一閃!
まるでカメレオンの舌だ。
流体の溶岩剣が、鋭く伸びた。
太さを長さに変えて長大な刺突剣となる。狙いは、大水蛇の左目!
『ジャアアアア!!』
身の毛もよだつような叫びが上がった。
香ばしい匂いを立てながら大水蛇が身をよじる。頭を内側から兜焼きにしてやろうというルシェラの目論見通りには行かなかったが、片目を焼き潰されて大水蛇がひるんだ。
即座、カファルが大水蛇を引き剥がす。
鱗を裂いて食い込んだ爪が、火を噴く。
そして、子どもが玩具を振り回すように、大水蛇を抱え上げた。
早贄状態のまま、大水蛇が燃え上がった。
火だるまの大水蛇は、全身から(口だけではない、全身からだ)水撃のブレスをデタラメに噴出して、暴れ狂う。だがカファルはさらに爪に力を込め、己を燃やした。
もがく、燃える、もがく、燃える。
大水蛇は明らかに異常な力を持っているが、それだけではなく、元から体重だけはカファルと張り合えそうなほどなのだ。その巨体が発揮する力は凄まじい。
左右に身体を振り回し、遂に、カファルの爪から大水蛇がすっぽ抜ける。
その体重に比例した大波を立て、水面に叩き付けられた大水蛇は、滑るような速度で水底の裂け目へ逃げていった。ボコボコと吹き上がる泡だけを残して。
追えない、とルシェラは判断した。水中で十全に戦えるのはルシェラだけだ。カファルと互角の相手に、ルシェラ単独では太刀打ちできないだろう。
「取り逃がしたか……」
「あれだけやって死なねえのかよ」
見ていることしかできなかった者たちは、ただただ水底を睨む。
「せかいが、あのまものを、まもってる」
カファルが、戸惑った様子で呟く。
「ここは、わたしたちがしってる、せかいじゃない。
まるで、べつのせかい」
端的な人間語による、カファルの感想。
炎を司るレッドドラゴンの言葉だというのに、それは皆の心胆を寒からしめた。







