≪25≫ 渦嵐の暴威
「『慧眼の渦嵐』は帝都を出た後、周辺広範囲に異常な環境変化を発生させつつ東へ向かっています。
つまり進路上にキャンプを張って、そこで丸一日じっとしてれば、勝手に中心部が近づいてきてくれる……
かも知れない」
「いや、無理だろ」
「無理ですね」
世界が砕けて壊れていた。
吹き付ける嵐は、雨垂れの一粒一粒に力がこもり、防具無しでは怪我をするほどの凄まじい圧力だった。カファルが傘のように広げた翼の下で、四人はそれをやり過ごしていた。
虚空より生まれ出ずる海流が、重力すら無視して逆巻き、浮島と呼べるほどの大きさの岩塊を流している。空中に運河があって、そこを船が航行しているかのような眺めだった。ここでは海と川と陸と空の境目が全て曖昧だった。
分厚い雲に遮られ、太陽の光などまったく届かないというのに、ひっきりなしにそこかしこで稲光が閃くために視界は良好だった。
この場所は本来、何も無い不毛の荒野だったはずだ。
だが、『慧眼の渦嵐』が景色を塗り替えていた。
大地は削れ、横溢する海嘯の水底に沈み、水流は天地の区別さえつけずに流れ狂う。
遠くは雨に煙って見通せない。だが、途方もなく巨大な水竜巻が存在することはなんとなく見て取れた。
“黄金の兜”の面々とカファルは、異変が起こっている領域の外縁、辛うじてまともな形の陸地が残っている場所から、それを眺めていた。
「どうなってんだよ、こりゃ」
「ドラゴンの狩り場に似ています。
ママと一緒にシルニル海の方へ行ったときに、こういう光景を見ました」
「魔境の景色……か」
「こんなもんを竜命錫が即席で作ったってのか」
この異常事態は、暴走する竜命錫によって発生したものだった。
しかも暴走し始めた当初の、単なる破壊的大嵐とは桁が違う。
もはやこれは環境改変だ。
「きをつけて!」
嘶くような声をカファルが上げた。
絶えず旋回する無数の海流の一つが、今まさにその矛先をこちらに向けていたのだ。
迫り来る海流を迎え撃ち、カファルがファイアブレスを吐いた。
炎と水の流れが真っ向からぶつかり合って相殺する。塩辛い香りの水蒸気が辺り一面に立ちこめた。
カファルの肺活量が保つ間は、少なくとも拮抗し、防ぎきれる。その間に四人は退いていた。それを追うようにカファルも羽ばたき、飛び退いた。
ブレスによる防御が途絶えると、宙を流れる海流は、さっきまで四人と一頭が居た陸地を叩き潰した。大地は抉られ、海嘯の底に沈んでいく。
「……なあ、ドラゴンさん。
今のは余裕だったか? それとも……」
「ひとつだけなら」
ウェインに聞かれてカファルは、硬い表情で(ルシェラは既に、カファル本体の表情も細かく分かる)答えた。
「ぜんぶはできない。
せかいのちから、わたしよりつよい」
端的すぎるカファルの説明でも、絶望的な状況を理解するには十分だった。
レッドドラゴンであるカファルは世界の力を呼び起こし、日照りや乾きをもたらすこともできる。ルシェラもその真似事ができる。
だが、それは暴走した『慧眼の渦嵐』による大嵐を止めるに至らないのだと、カファルは言ったのだ。
「一回はルシェラだけで止めかけたのに、今はモノホンのドラゴンでも無理なのかよ」
「明らかに出力が増大していますね」
ビオラはツールベルトに、砂時計のような計測器をいくつもぶら下げて、その数値を確認していた。
そのうち一つが内側から爆ぜ砕けた。
「観測値からの推測ですが……
一昨日までの『慧眼の渦嵐』はあくまで竜命錫としての出力規模を保っていたんですよ。
暴走しないよう抑止して……言うなれば『手加減』して人に使われていた時と同じ出力で暴れていたんです」
「だからルシェラだけで対応できたってのか」
「ええ。ですが今は違います。
暴走しきった竜命錫がどこまでやれるのか分かりません」
人竜戦争から千年。それはつまり、人が竜命錫を使うようになって千年余りということだが、人は決して、竜命錫の全てを理解しているわけではない。
竜命錫の暴走にすら対処できる、人竜戦争期のような超越的技術基盤は、現代の人族には既に無い。『よし、それじゃ限界性能を見てみよう』と、おいそれと暴走させるわけにはいかないのだ。
その対処法も、不明である。
「……竜命錫ってよ、割と小物な『慧眼の渦嵐』すら、ドラゴン十頭使って作ってんだよな。確か」
「もはや伝説と言うべきほどの過去の出来事ですが……そう伝わっています」
「十頭分……」
十頭のドラゴンと対峙する。
その困難を思い、皆が言葉を失った。
「それに対抗するだけのドラゴンか、あるいは竜命錫を集めれば、どうにかなる……のかな」
「そりゃ、そんな無茶ができるならどうにかなるだろうがよ」
ものすごく単純な計算をするなら、仮に相手が十頭のドラゴンだとしても、こっちにもドラゴンが十頭居れば戦えるだろう。
だがそれは事実上不可能だ。彼らは人と関わることこそあれど、群れが人の国・人の社会と関わることは厳に戒めている。竜命錫の扱いなんていう極めてデリケートな案件には絶対に首を突っ込めないだろう。
――所詮、これは人の世界の危機に過ぎない。ならドラゴンたちは助けてくれない。
では、人の側はどうか。
人の手にある、ドラゴンに近しい力。……竜命錫に対するは竜命錫。
――進行方向の戦場には、多くの竜命錫が存在する。その力を結集できるなら、止められるだろうけれど……
竜命錫の力を結集すれば、この暴走も止められるだろう。
だがそれはドラゴンたちを助けに呼ぶのと、さて、どちらが難しいか。
マルトガルズにこれを回収させてはまずい。
ではグファーレ側が回収に乗り出すとしたら、その間は防御が手薄になること、マルトガルズ側に乗り込んでいかなければならないことなど、とにかく状況が難しい。
あるいは両軍が協力したり、紳士協定を結んで一時的にでも停戦できないだろうか。
……それこそ至難だ。マルトガルズとグファーレが何年間戦っているというのか。
今更協力するのは難しいだろう。何か、余程の事態が起こらない限りは。
「おい、来るぞ!」
「げっ」
天地を貫くような嵐に気を取られているうち、地を這う海嘯が迫っていた。
ルシェラの靴の先に波が当たったか、と思った次の瞬間、大柄なティムすら頭まで飲み込むほどに水位が上がった。
波を蹴立ててカファルが羽ばたき、舞い上がる。
それと同時、ウェインは即座に反応していた。跳躍し、カファルのたてがみにしがみ付き、反対の手でビオラの手を掴む。
重装のティムは、いかに超人的能力を持つといえど出遅れた。流されかけた彼は、ルシェラの起こした波で打ち上げられ、カファルの爪が鎧を引っかけて掴んだ。
「ナイスキャッチ」
カファルが力強く翼を打ち振るうたび、熱気が波打ち、降りしきる雨を水煙に変える。
渦巻く二重螺旋の水路を空中に作り、その上を滑走してルシェラはカファルに追従した。
「引き上げだな。
偵察としては上々、無策に突っ込める状態じゃない」
「了解」
ティムの決定に、皆も異議無し。
相手は魔物でもダンジョンでもなく、竜命錫によって呼び起こされた、この世界の力。
相手は嵐である。波濤である。真っ正面から力で立ち向かうのは、風車に決闘を挑んだ道化騎士のような所業。入水自殺も同然だった。
カファルは大きく旋回し、渦巻く嵐を尻目に、その風を翼に受けて飛翔。
暴走の勢力圏を離脱していく。
「あれは……」
その時ルシェラは、ほんの一瞬。
幾重にも水流渦巻き、豪雨に煙る向こうに、悲しい光を見たような気がした。
目に焼き付くような藍色の輝き。
視覚的には美しいはずなのに胸が締め付けられて、首でも絞められているように息苦しくなる、そんな輝きが。
「何か見えたか?」
「……いいえ」
気のせいだっただろうかと疑うほどの一瞬。
目覚めれば薄れる夢の記憶のように、その感覚はすぐに曖昧になる。
どうしてそんな風に感じたか、ルシェラ自身にも分からなくて。
だと言うのに、古傷が疼くかのように、いつまでも震え響くものがルシェラの中にあった。







