≪23≫ 愛の在処
その夜、マルトガルズ皇宮では二つの事件が起こった。
一つ目は夜中に起き出した皇帝が朝食の準備を命じたことだが、これは些事であり日常茶飯事であり、特筆に値しない。
二つ目は、宰相公邸にて。
「竜命錫の行方はまだ分からんのか!」
「も、申し訳ありません!
観測班とは未だに連絡が付かず……」
「それはもう聞いた!
まさか指をくわえて観測班の応答を待っているのではなかろうな?
態勢が崩れたのであれば、早急に次善の策を用意せよ。それが役目であろう!」
「は、はいっ!」
報告にやってきた参謀を、マヌエルはどやしつけていた。
竜命錫を巡る戦いが起きているのは、帝都の遙か南東である。だが、だからと言って、国家の行く末を左右する戦いが起こっているのに、マヌエルが呑気に寝ているわけにいかない。彼は自室にてじっと待機していた。
マヌエルにとってはどちらが勝ってもいいわけだが、どちらが勝つかによって次の手は変わる。それを即座に打たねばならないのだ。
だが、事態はマヌエルの予想を超えた。
周辺諸侯が編成した竜命錫奪取部隊とは別で、マヌエルは状況把握のための手勢を派遣していたのだが、それと連絡が取れなくなっていた。
『水の巨人』という、謎めいた遠話を最後に。
状況的に、竜命錫が再度暴走した……という推測はできるが、それ以外は全く不明だ。
とにかくまずは、現地で状況を把握している者と連絡を取るべきだろう。
事態がマヌエルの予想を超えたのは、ここからだった。
「緊急事態です! ご報告申し上げます!」
普通なら伝令兵など直接マヌエルの所に来ないのだが、それが礼も作法もすっ飛ばして駆け込んできたのだ。
それだけでマヌエルはもう、自分に直接判断を仰ぐしかないような異常すぎる事態が発生し、伝令兵が寄越されたのだろうと理解していた。
「言伝を述べよ」
「戦闘発生地点より何かが飛び立ち、帝都に向かって超高速で飛行接近しております!
未だに正体不明ですが、速度からの推測によりますと、遅くとも数分以内には帝都に到着します!」
「何だと!?」
マヌエルも、丁度その場に居合わせた者らも、驚愕する。
観測班との連絡が途絶えたのは、せいぜい十分前くらいだ。
だと言うのに、遠く離れた旧王国領から帝都まで飛んでくるという。その速度だけ考えても『何か』は尋常ではない。転移魔法陣の乗り継ぎにも勝る恐るべき速度だった。
もし、それが敵性存在であったとしたら、脅威だ。
「なれば、ひとまずは防御の備えを……」
取るよう、命ずるより前に。
一瞬、雷が落ちたかのように窓から眩い光が差し込んだかと思うと、轟音と共に壁と天井が吹き飛んでいた。
「ぎゃあああ!」
伝令兵が情けない悲鳴を上げる。
マヌエルは呑気に叫んで怖がったりせず、即座に近くの椅子の陰に身を隠していた。
マヌエルが立ち上がったとき、部屋の中には瓦礫が散乱していた。
まるで星が落ちてきたかのように、何かが壁も天井もぶち壊して、マヌエルの居る部屋に降ってきたのだ。
「な、なんだこれは……」
そして、マヌエルは見た。
千年樹を丸ごと一本使ったテーブルをかち割って、部屋の真ん中に頭から突っ伏している、何かを。
それは言うなれば、ドラゴンと人の合いの子とでも言うべき外見だった。あるいは、悪魔であろうか。
概ね人のような形をしているが、身長は三メートルを超えるだろう。美しい藍色のウロコが、身体のあちこちにデタラメに生えていて、腕や脚は甲殻を纏い、長くしなる尾と歪な形の翼を備えていた。
竜もどきは、壊れたゴーレムのようにぎこちない所作で身を起こす。
頭部は、半分ほどが鋭く角張ってアギトを備えたドラゴンのような外見で、残りの半分が人間の男だった。
異形である。
だが、その顔には見覚えがあった。マヌエルは他人の名前と顔を覚えるのが得意で、その半分だけの顔で、彼が誰なのか分かってしまった。
「貴様は……」
「あ、あ……う?
ここ、は、どこ……だ……」
蹌踉とした口調で呟いて、竜もどきは周囲を見回す。
その目が己を射止めたとき、流石のマヌエルもぎょっとした。
マヌエルを見て笑ったのだ。それは。まともに動くのは顔の半分、人間である部分だけなので、笑顔は引き攣って歪になっていた。
「あ、あはぁ……宰相閣下……
良かった……では、俺は成し遂げた、のだな……」
子どものように朗らかに、その男……エフレインは、笑った。
「エフレイン・クラウベル……か?」
「は、はい、その通りです。
ああ……驚かせてしまいまして、申し訳ありません……
制御が思いのほか……難しく……まるで身体が私ではない、ような……」
エフレインは、気をつけの姿勢を取ろうとしたように見えた。
そしてそれができず、足をもつれさせて倒れ込む。
その瞬間、彼の周囲に水が渦巻いた。
ほんの一瞬の竜巻だった。
エフレインの周囲の床は、同心円状に深く抉られ、近くで腰を抜かしていた伝令兵が血煙となって果てた。
マヌエルはもちろん伝令兵の命より、その血が壁の絵に付いてしまったことを気にしていた。早く修復の手配をしなければ取り返しが付かないことになる。
「何が起こったのだ、その姿は……」
「私にも……よく分からなかったのですが、分かってきました……大丈夫なんだ。
そう、心配しなくていい。ここに全てがある。行く先は一緒なんだ。ふふふ……」
マヌエルは慎重に声を掛けた。
エフレインは独り言のようにブツブツと返事をして、何か独りで得心したようで、熱に浮かされたかのように朦朧とした笑みを浮かべていた。
それから彼は、やにわに跪くような態勢になり、右腕を差し出した。
「『慧眼の渦嵐』、私が回収し、ここにこうしてお持ちしました。
お納めください」
マヌエルは流石に、唖然とした。
どうしてそんな事態になったのか、どうやってここまで来たのかという疑問もあったが、それ以上にエフレイン自体が奇妙な状態だ。
「いや、しかしだ。
これをどうやって、お前の腕から引き剥がせばいい?」
「はい?」
エフレインの右腕は今やドラゴンのように、鱗と甲殻で形成されていた。
その先端の、人間ならば手であるべき部分には、腕と一体化した藍色の錫杖があった。
まるで竜命錫を握り込んだまま、腕と手が溶解し、癒着してしまったかのような姿だ。
エフレインは、自分の手を見て、首をかしげる。
「あれ、変だな。いつの間にこうなって……
あ、ああ、違う、いいんだ。これで。こうあるべきなんだ……」
「腕を切ればいいのか?」
「は、はあ……何故です?
構いませんが、何のために?」
よく分からぬ事を言って、それからエフレインは、やにわに頭を抱えた。
「う……あァ……」
うめいたかと思うと、彼は突然崩れ落ち、その巨体を胎児のように丸めて震え始めた。
苦しんでいるような仕草だが、それが何故かは不明。
一つマヌエルにも分かるのは、エフレインが外見だけではなく精神にも異常を来しているという事だ。
「……封印部隊を呼べ」
恐怖に凍り付いていた参謀に、マヌエルは命ずる。
マルトガルズは多くの国々を征服してきた。それは、数多くの竜命錫と対面し、それを打ち破ってきたということである。
必要に迫られて、味方の竜命錫無しでも一時しのぎの竜命錫対策くらいはできるよう、経験を蓄積して研究を積んできた。その成果が『封印部隊』だ。
東のグファーレ戦線から今すぐ竜命錫使いを呼び戻し、この場で『慧眼の渦嵐』を沈静化してしまえば、全ては上手く行く。
そのための時間稼ぎが必要だった。
「閣下、一つ……もうすぐ分からなくなるので……質問をお許しください」
「うむ、何だ? 何でも聞きたまえ」
蹲ったままエフレインが言ったので、マヌエルは表面的には穏やかに、心の中では最大限に警戒しつつ応じた。
エフレインを拘束するまでは、マヌエルの身を守るものは、何も無いのだ。
「今の私は、閣下にとって……何でございましょうか」
「最も誇るべき臣下の一人だ。
君の忠義と献身を、私は一生……いや、死んでも忘れるまい。あの世で神にも誇ろう」
マヌエルは突然ぶつけられた問いにも一切淀み無く答えた。
まだ何が起こったか分からぬが、エフレインは『慧眼の渦嵐』を回収して持ってきたと言い、事実そうなっている。働きには報い、労うべきだ。
それでこそ、宰相閣下は敬愛される。
もちろんそれは、己が上に立つ者としてどう振る舞うべきか考えた結果で、マヌエル本人の気持ちとは別だ。
エフレインを刺激して、力の暴走によって自分が殺されたりしないよう、それをマヌエルは第一に考えていた。それに、部屋の壁に掛けてある絵画も自分の命の次に大事だ。間違っても破壊されてはならない。
竜命錫を持ってきてくれたのはありがたいが、それを恩に感じて情を移したりはしない。必要ならエフレインの腕も切るし、命も奪う。
この若く献身的な官僚は、マヌエルにとっていくらでも替えが効く駒の一つだった。
「それより、その身体ではこの部屋も狭かろう。
外に出ないか?」
「どうしてだ……
俺は……死んでもよかった。命を捧げてもよかったのに……」
エフレインの震えが止まった。
その口調が急にハッキリとしたものになった。
ロウソクが燃え尽きる瞬間に最も明るく輝くように、一時、意識が明瞭になった様子で……震える声に浮かぶのは、黒々とした絶望だった。
ミシリ、ミシリと音がした。
エフレインの皮膚を突き破り、血を流しながら、鱗が生えてくる。それが癒着して甲殻になる。
「あなたは……愛してなどいないではないですか」
辛うじて残っている、人間の半面。
目から血の涙を流しながら、エフレインはマヌエルを見た。
直後。
マルトガルズ皇宮の三割が壊滅した。







