≪22≫ オナジもの
ローヴェインの街にある、とある高級レストラン。
夜に開かれるパーティーのため、朝から貸し切りになっていたその店では、しかし主賓が現れず、その場の全員が待ちぼうけを食っていた。
集まったのは、かつてマリーノーヴァ幼年宿舎に暮らした者たち。
ルシェラと面識がある者ばかりだから、概ね二十代から三十過ぎくらいの歳で、それが十人ほどだった。
この場には職人もおり、商会従業員もおり、地方官吏も居た。人生の成功度には差異あれど、皆が各々に道を見つけ、この帝国で一角の生き方をしていた。……そうでない者は呼ばれなかった。
宮廷のサロンみたいな、典雅でありながら落ち着いた内装の客室には、密閉された容器の中みたいに、硬直した息詰まる空気が満ちていた。
席について二時間半。目の前には未開封の食前酒と、綺麗に盛られたまますっかり冷めた前菜。
話題も尽き、隣室から演奏を届けていたピアノ奏者も流石に休憩に入って、風雨が窓を揺らす音ばかり大きく聞こえた。
「妙な天気だな……」
誰かの呟きが、かえって静寂を加速させた。
少なくとも数十分までは晴れていたはずなのに、不穏な、心を蝕むような雨が窓に打ち付けていた。
「……ま、まあ前菜くらいなら食ってて良いだろ。
ルシェラが来たら、どうせ作り直すだろうし」
「そうか、じゃあ遠慮なく」
「食い過ぎないでくれよ」
空気の重さに堪えかねて、エフレインは言った。
もしルシェラが来るのだとしたら、その時に場が冷え切っているのも問題だと思ったのだ。
実際これは、いい景気づけになって、止まっていた会話が動き出した。
「しかし驚いたよな。……色々と」
「結局どうして『あいつ』がドラゴンの子になったんだよ」
「資料は配られたよな?
俺もあれ以上のことは知らないんだ」
「世の中にはまあ、とんでもねえ事があるもんだな」
この場の皆は、ルシェラの現状に関しても情報を共有されている。
事情を知ったときには、流石に誰もが驚いた様子だった。この世に二つと無いような奇怪な事件が、身近な者に起こったのだから。
「むしろエフレインが官僚になったって事に驚いたぞ」
「知らなかったのか?」
「そりゃ地元に帰ってない奴は知らねーだろ」
「今や貴族様とはね」
同時にもう一つ、皆の驚きの種だったのは、エフレインが大学を出て官僚となっていたことだ。
この国の頭脳の一人。外宮とは言え、皇宮勤め。立派すぎる立身出世だ。
「まあ……俺はまだまだ下っ端だよ」
エフレインは決して、その地位を鼻に掛けぬよう戒めていたが、やはり周囲が感心するのを誇らしく感じていた。
今の地位にあることは、この場の誰よりも国に尽くし、力を捧げた成果であろうと思っていたから。
「エディ、勝手に酒を開けるなよ!」
「何!?」
だが、呑気に浸っている場合ではなかった。
料理を食べてもいいだろうとは言ったが、酒を開けろとは言っていない。そもそも、ここは庶民的な安酒場ではないのだから、酒を注ぐのだって店の者がするべきなのだ。
だというのに勝手に酒を開け、手酌する者があった。
エフレインと同い年の……つまり■■■■■とも同い年であった、エディという男だ。
「おい、何をしてるんだ!
ルシェラが来たとしてだ、勝手に俺らが酒を飲んで盛り上がってたらどう思う!?」
「いーじゃん、飲ませてくれよお。
今夜は来ないんじゃないか? つか、あいつなら気にしないだろ」
叱りつけられても何処吹く風で、エディは高級酒を呷る。
「うめえじゃん!」
エフレインは溜息をつくことすら億劫だった。
かしこまった席だというのに、髭も剃らずにヨレたシャツで出てきたエディ。こいつは幼年宿舎時代からいい加減な奴だったとエフレインは記憶している。
朝食の時間に起きてこない事などざらで、学校をサボることも多かった。集団行動をすれば一人だけはぐれているし、彼が勉強している姿など見た事が無い。
応用学校はどうにか卒業したようだが、その後彼がどうしているかという話は、マメに幼年宿舎を訪れていたエフレインもとんと聞かなかった。
――こいつは呼ばない方が良かったんじゃないか?
だいたい、俺は名を挙げていないはずなのにどうして呼ばれてるんだ?
疑問だった。
ここに居るメンバーは、エフレインが名を挙げた者の中から、上の選別を経て集められた……はずだ。
だがエディだけは違った。
■■■■■と親しかった覚えは無いし、ある意味で帝国の命運に関わるこんな大事な席に呼んでいい人物ではあるまい。むしろ、来ると分かっていたら止めただろう。
「エディ、相変わらず酒飲む金もねえのか?」
確かエディと仲が良かったはずの者が、窘め半分、気遣い半分に問う。
「あ、いやあ、そういうわけじゃない。最近まで怪しかったけどさ……」
エディはくすぐったそうに苦笑して、酒をもう一口啜る。
「実は……今度、皇宮の天井に絵を描くことになって……
はは、でかい案件だぜ。やっと借金が返せる」
一瞬の沈黙。
それから、宴席の者たちはどよめいた。
「マジかよ!?」
「何かの詐欺じゃないよな!?」
「ホント、本当だって。
こないだは皇宮に呼ばれてさあ、宰相閣下にお言葉を賜ったんだ」
そもそもエフレインは、エディが絵を描いているという事すら知らなかったのだが、にわかには信じがたいほどの大きな話だった。
このマルトガルズ帝国がどれほど大きいか。その中から、皇宮に関わる仕事に抜擢されるとなれば、とんでもない事だ。
「証拠だ。見てくれよ」
エディがヘラヘラした調子なのもあって、エフレインはどこまで信じていいか疑問だった。
だが。
エディはポケットからぞんざいに、蒼色の万年筆を取り出して見せた。
「おぉ……!」
感嘆の声が周囲から溢れた。
国章が刻まれたそれは、皇帝陛下の名の下に、皇宮から与えられる下賜の品。
下賜品にも重みはそれぞれだが、少なくとも万年筆は稀である。覚えがある限りでは、誰もが知るような油絵の大家、現代の帝国民化教育を作り上げた史学者などだ。
宰相閣下は、絵がお好き。帝国中から最高の絵画を集めてコレクションにしているのは有名だ。
エフレインはエディの絵を見たことなどないし、その善し悪しも分からない。だが、審美眼確かなるマヌエルは、半端者を選びはすまい。
帝都の展覧会にでもエディの絵が出て、それを見たのだろう。
エフレインは、息もできぬような心地になっていた。
絡み合ってこんがらがった、その気持ちは恐怖に近かったが、それ以上は理解できなかった。
「……ちと便所行ってくる」
席を立ったエフレインは、それきり戻らなかった。
* * *
早馬は泥を蹴立てて走った。
怖じ気付いて引き返そうとする馬の尻に、エフレインは何度も鞭を入れた。
前方には渦巻く大嵐の雷雲。
叩き付けるような豪雨の前で、雨具など役にも立たぬ。身体は既にずぶ濡れに近い。
それでもエフレインは突き進んだ。夜闇の向こうに見える炎を目印として。
――お前が出て行って何をしようと言うんだ、エフレイン。
エフレインは自問する。
「知るかよ……
だけど、このままじゃダメなんだ!」
為すべき事を全て、最善の手順で積み上げてきたと、エフレインは思っていた。
だが本当にそれで良かったのだろうか? 驕りではなかったか? これで良しと思っている間に取り返しの付かない後れを取ってはいないだろうか?
冷たい焦燥の炎がエフレインの背中を焼いていた。
そして、やがて、エフレインはそれを見た。
「なんだ、あれは。
ルシェラが竜命錫を鎮めたのでは、ないのか……?」
雷光の中に浮かぶ影。
それは、水の巨人と組み打つレッドドラゴンだった。
戦いが起こっているかも知れないと思った。
自分ならルシェラを止められるかも知れないと、少し思った。
だが、この戦いはエフレインが思っていたものと、全く違う構図だった。
馬は遂に疲労と恐怖でひっくり返ってしまい、エフレインは走り出した。
もはや邪魔でしかない雨具を脱ぎ捨て、冷たい川で泳いでいるような心地で豪雨の中を走った。
雷光の中で逃げ惑う影を、エフレインは見た。
それは竜命錫を奪取するべく編成されたマルトガルズの軍だった。
藍色の錫杖が、そのシルエットが、雷光の中に浮かんだ。
逃げ惑う人々を追って、宙を舞った。
竜命錫は矢のように飛んでくる。
軍勢を庇い立つのは、ルシェラだ。
ルシェラの生みだした水流が逆巻き、竜命錫を弾き飛ばす。
だが竜命錫は鋭く旋回し、軍勢の中に飛び込んでいった。
――【 チ ガ ウ 】――
――【 チ ガ ウ 】――
――【 チ ガ ウ 】――
――【 チ ガ ウ 】――
何の抵抗もなく、竜命錫は飛び抜けた。
触れた者全てを粉微塵にしながら。
「なんなんだこれは!」
「触るな、危険だぞ!」
「どうして追ってくるんだ!?」
飛び散った血だの、鎧の残骸を浴びながら、騎士たちは逃げ惑う。
あまりにも簡単に人が死んでいくのを見て、エフレインは身動きもできなかった。全く未知の、破滅的な事態が起こっていた。
そして、宙に浮いた竜命錫が、エフレインの方を向いた。
「エフレイン!?」
ルシェラの驚愕する声。
それきり、音無し。
否、それはあまりにも一瞬のことで、ひっきりなしの雨音さえも間隙を突かれたのだろうか。
何者も遮れぬほどの速度で、竜命錫はエフレイン目がけて飛翔した。
――【 オ マ エ ダ 】――
その声は、魂の奥底まで貫くかのように、エフレインの中に響いた。







