≪21≫ チガウもの
水の巨人が、歩を進める。
そこに攻撃の意図は感じられない。
だが、一歩進むごとに破壊が巻き起こった。
地が轟々と穿たれて、草も木も根こそぎになり、後には沼地の如き泥濘だけが残る。
降りしきる雨は矢のように鋭く、ひっきりなしに発生する落雷が辺りを薙ぎ払う。
ルシェラは靴に触れるものを感じた。
地を這う水の流れだった。
ここには川も無いというのに洪水が起きようとしている。
もはやルシェラにもモニカにも興味を失ったかのように、巨人は東へ向かっていく。
その背に呼びかけるように、ルシェラは水の力を手繰った。
――鎮まれ!
そこに存在する流れを読み、己の流れで上書きする……
今まで旅行をしながらやってきたのと同じ事だ。
手応えは感じるが、それでも、巨人の歩みは一向に止まらない。
「効果が無い……わけじゃないけど、最初より勢力が強い……」
「ルシェラ!」
叩き付ける雨音に負けぬよう、モニカが声を張り上げた。
「……声が消えたわ」
「えっ?」
「私を呼んでる声が、無くなった……」
力の気配が満ちる中、ルシェラもモニカに言われるまで気が付かなかった事だが、それは確かだった。
鎖で縛り上げるかのようにモニカに絡み付いていた気配が、消えている。
命を脅かす呪縛から逃れたのは良い事である筈なのに、逆に致命的な問題であるかのように、モニカは切羽詰まった様子だ。
ルシェラも直感的に、それがまずい変化だという事を感じた。状況が悪い方向に転がった、と。
「はわっ!」
突然、大波に押し流されそうになって、ルシェラは咄嗟にそれを払った。
水の巨人の足下から水が溢れ、波濤となっていた。
水たまりに波紋が拡がるのと同じように、どこからともなく湧きいずる水が、汪溢していく。
草原が水没して湖になってしまうのも、時間の問題に思われた。
次の一歩は、ルシェラの身長の倍ほどの高波を引き起こした。
モニカを庇って立ち、ルシェラは波を弾き飛ばす。
水の流れはルシェラの前で割れた。
『オオオオオオオオオ!!』
そんなルシェラの前方に、火の玉が炸裂!
水流が刳り抜かれたように蒸散し、炎熱を孕んだ水蒸気が霧となって立ちこめた。
闇夜を照らす太陽の如き、炎の流星が雨雲を裂く。
竜命錫が巻き起こす自然の脅威、滅びの豪雨すらも祓い、それは向かって来る。
翼と四肢を折りたたみ、高速下降姿勢を取ったレッドドラゴンが、放たれた矢のように。
カファルは地上付近で鋭く羽ばたき、ブレーキを掛けて着地。
熱風が吹き付け、ルシェラの髪をなびかせた。
「結局、来ちゃったのね」
『正解だったでしょ』
「……ありがと」
いくらカファルと言えど、クグセ山からここまで一瞬で飛んでくるのは無理だ。
つまり、危険を冒して近場に待機していた事になる。
無茶をされてしまったが、咎める気にもなれなくて、ルシェラはカファルの太い尻尾に抱きついた。
*
水の巨人は、向かって来る。
竜命錫回収部隊目がけて。
周辺諸侯が出し合った、精鋭兵と精鋭騎士の連合部隊。そして雇われの退治人たち。
悪く言えば寄せ集めだが、個々の実力は高い。力を合わせればドラゴンとも戦いうるであろう猛者たちだ。
……そのはずだったのだが、現在彼らは押し寄せる波に蹴散らされつつあった。
「いかがなさいますか、将軍!」
もはや彼らの足首まで水位は上がっていた。
足を取られて流された者が転がって行き、剣や槍を地に突き立てて抵抗している。
魔法で生みだした光の壁や、土を盛り上げた波除けの壁で、皆はどうにか踏みとどまっている。
踏みとどまってはいても、しかし。
迫り来るのはドラゴンより大きな、水の巨人だ。
その歩みが巻き起こす波だけで身動き取れない状態なのに、あれが近づいて来たらどうなるか。
「ぐっ……
想定外の状況だ。我々には対処できぬ。退却を……」
部隊を率いる将軍、ラミエルは、これ以上ここに居ても犬死にするだけだと判断した。
無駄死にしていい兵など一人も居るまいが、ここに集まった精鋭たちは特にそうだ。替えの効かぬ駒ばかりであり、一人失うごとに大きな痛手となる。そして目標達成の見通しは皆無だ。
皇宮から何を言われようと構うものか。ここは逃げるが上策……と思ったラミエルの前に、それは、あった。
「なに?」
「竜命錫……?」
その場の誰もが瞠目し、言葉を失った。
豪雨の中、水の巨人が手を差し伸べている。
その指先に……藍色の錫杖が浮かんでいた。
先程までは巨人の身体の中に浮かんでいた竜命錫が、手を伸ばせば届き、掴み取れる場所に。
あまりに唐突な事態に、ラミエルも、周囲の者らも皆、呆然としていた。
だがラミエルはすぐに、己の為すべき事を思い出した。
「かっ、確保せよ! 好機だ!」
「はっ!」
手近な騎士が、剥き出しの竜命錫を掴み取る!
――【 チ ガ ウ 】――
直後、竜命錫の周囲にほんの一瞬、激流が渦巻いた。
悲鳴すら上げる間もなく、騎士は鎧ごと粉々になっていた。
後に残ったのは、落とし紙のように引き千切られた鎧の断片と、水面に拡がる赤い汚れだけだった。
「……な、な……?」
あまりにも一瞬の出来事だった。
何が起こったのか、目の前で見ていても理解できなかった者もあるだろう。
竜命錫は引き寄せられるようにふわりと飛んで、近くに居た兵の手に自ら飛び込む。
――【 チ ガ ウ 】――
そして、また一人、粉々になった。
「うわあああああっ!」
戦いの中で二十人が死んでも、彼らは挫けなかっただろう。
だが、たった二人が未知の力によって惨死したことで、軍勢は完全に腰砕けとなった。
地を這う激流に足を取られながら、彼らはてんでんばらばらに逃げ出した。
そんな彼らの背を突き刺すように、竜命錫は飛ぶ!
*
宙を舞う竜命錫が、騎士の背中に突き刺さろうという刹那。
垂直に立ち上る奇妙な波が、それを遮る。
竜命錫は急角度のカーブを描いて逸らされ、勢い余って文字通りの斜め上へと吹っ飛んでいった。
ルシェラの作り出した流れによるものだ。
「逃げて! 早く!」
「あ、ああ……」
つい先程まで殺し合おうとしていた相手だが、事情が変われば見捨ててもいられぬ。
ルシェラはマルトガルズの騎士たちを庇い立った。
色々なことが起こりすぎて頭が付いて行かない様子ながら、騎士たちは退却していく。
弾き飛ばされた竜命錫は、巨人の周囲を大きく旋回していた。
まるで上空から野ネズミを探して、狙いを定める猛禽のように。
『向こうの大きいのは任せて!
あれなら、いくら炎を浴びせても大丈夫でしょ!?』
「多分!」
水の竜命錫は水の力によってしか鎮められない。
だからカファルは迂闊に手を出せないのだ……ただの破壊になってしまう。
だが理由は不明ながら、竜命錫は今、その力によって生みだした巨人から離れている。
なら話は別だ。カファルも戦いうる。
破壊の嵐そのものとなって、天を突くような巨人は向かって来る。
ひっきりなしの稲光に、カファルの鱗が艶やかに輝いた。
『はああっ!』
カファルは、その逞しい後ろ脚を踏ん張って上体を持ち上げる。
そして地を震わせて大きく踏み込み、巨人の胸部をかち上げるように、ツノを突き立てて頭からぶつかった。
爆発にも等しい轟音!
そしてエネルギーの余波が飛沫を立てて、冠水した草原に放射状の波を描く!
巨人の全身から水蒸気が立ち、その輪郭を曖昧にする。
カファルの帯びる熱が、水を蒸発させているのだ。
しかし巨人が臆した様子は無い。人とドラゴンの狭間にあるような、その巨腕にてカファルの身体を掴む。
カファルが後肢に力を込めた。
押し返されて地を抉った爪の軌跡が、燃え上がる!
――【 チ ガ ウ 】――
巨人か、あるいは竜命錫からか。
声は生きとし生けるものの魂に響く。
『何が違うの! 言ってみなさい!』
落雷に背を打たれるとも不動。
牙の合間から火の粉を飛ばしてカファルは咆える。
――【 チ ガ ウ 】――
対話は成立しそうにない。
壊れたゴーレムが同じ動きを繰り返すように、ただただ同じ声が雨中に轟いた。







