≪18≫ 風前問答
ルシェラはしばし夜風に吹かれていた。
ここは風の地。力を帯びた風は美しく、心地よい。
「……どう、言えばいいのかな。
最近やっと、自分でも、自分の言葉の意味が分かったけれど……
それは他人に言うような事じゃない、と思うから」
「勿体ぶるなって」
「君のためだよ、エフレイン」
月を見ていたエフレインが、振り返る。
早寝をするならそろそろ頃合いか、という時間だが、エフレインはまだスーツを着ていた。
高価そうなスーツだ。誰がどうやって、いくらで、こんな服を作るのかルシェラは知らない。
「だって、これからも帝国の中で生きていくんでしょ。
なら、見ない方が幸せなものも、あると思う」
あまり口に出したくなかったことを、ルシェラは言葉にした。
かつて同じ籠のパンを食べた友人と自分は、もはや生きる世界が違うのだという事を、再確認する言葉。
不思議な確信が、ルシェラにはあった。
二階の窓から覗いた景色と、一階の窓から見える景色が違うように、自分には見えているものがエフレインには見えていないと。
エフレインの表情が微かに揺らいだ。
「ルシェラ。それが俺への気遣いだと思っているなら、侮辱だ。
帝国のために全てを見ることが外交官の務めだと俺は考えている。
何があろうと揺らがないさ」
「……そっか。なら、その意思を尊重しよう」
ルシェラは仕方なく承諾した。
平気だとは思わない。
だが、エフレインがそこまで思いきった以上、言葉を濁しても彼の心に刺さった棘になるだろう。ならいっそ、ぶっちゃけてしまった方がマシだ。
「幼年宿舎は、まるで家族だった。わたしも居心地は良かった。
学校で虐められたときに、宿舎の先輩が守ってくれたり……
わたしなりに、下の子の世話をしたつもりだし、先輩には恩を感じてた。
だけどそれは、収穫を前提としたシステムだったんだ」
「収穫?」
「先輩たちは政府に散って、宿舎の家族への恩は、国への恩になる。
実際……幼年宿舎の先輩後輩ネットワークは、卒業後も生きてるって話だし。
それを考えて仕組んだ奴が、居る」
物心ついてよりこちら、薄々、感じていたことではあった。
だからルシェラはなんとなく、『幼年宿舎という仕組み』に本気でのめり込めないところがあった。
だがその気持ち悪さを初めて明確に感じたのは、あの日だった。エフレインと違う道を進むことが決定的となった、あの日だった。
自分たちを収穫しようとする者の目を、明確に感じたのは。
「家族は助け合うものだし、恩は返すものさ。当たり前だろう?
帝国が家族だというなら光栄だよ、俺は」
「違う……お互いに見返りを期待しないから、家族は助け合うんだ」
そうだ。
今のルシェラはそれを知っている。知ることができた。
もしルシェラが、家族というものを定義するなら、結婚しているかどうかとか、血が繋がっているかどうかではなく、そこになるだろう。
恩や貸し借りの概念はあるにせよ、見返りを無視して何かを与えられるなら、それは家族たりうると。
強大なドラゴンは、力ではなくその愛で、ルシェラに教えた。
当のカファルさえ、無自覚にそうしていたのかも知れないが。
「帝国のしていることは、投資だと思う。
見返りの期待値を計算して、出せる資源を割いているだけ。
だからわたしは……その分だけ帝国に感謝してる。育ててくれたお金で買えるものの分だけ、ね」
ルシェラはそれを、ぼったくりだとは思わない。
他に売り手がいない商品なら、いくらだって高く売れるという、それだけの話。
風が吹いていた。
風が強く吹いていた。
強く。
強く。
「そんなの、分からないじゃないか。
帝国は……宰相閣下も、皇帝陛下も、皆……民を慈しみ、愛してくれている。
俺はそう感じてる」
「じゃあ、どうして急にこの話をした?」
「っ……」
その迷いさえ、手に取るように分かる。
己のことのように、ルシェラは胸が痛んだ。
エフレインにとって、帝国の愛は真実で、帝国は家族だった。
確信していた。
そうではなくなったから。疑いを抱いたから。
彼は今宵、こうしてルシェラに問おうとしていた。
ルシェラにとってエフレインは、甘い欺瞞の言葉で救ってやれるほどに、他人ではなかった。
「『慧眼の渦嵐』は返してもらうよ」
離別の宣言ではなく慈悲として、ルシェラはきっぱりと、エフレインに言った。
初陣に臨む兵士のように、エフレインは唇を噛んでいた。
「わたしができるのは、どうせそこまでだから、その先は知らない。
マルトガルズがグファーレに勝ちたいなら、勝手に戦って勝手に勝てばいい。
そのことにわたしは関知しないから」
「俺の仕事は……ただの観光ガイドだ」
「なら良かった。
残りの旅程も、よろしくね」
生きる世界は違うけれど、それでもルシェラはエフレインに生きていてほしい。
そして、『旅行』が終わって別れても、またいつか近況の話をしたかった。
「覚えておいて。
わたしが君にできることは限られてるけど、そのために見返りを期待したりしないから」
風の中にエフレインを残し、ルシェラは部屋に戻っていった。
願わくば。
旧き友に、いつの日か真の救いがあらん事を、と。
後から考えれば、それは呑気な考えだった。







