≪16≫ 歯磨き後のジュースの思い出
ルシェラの額に、デコピンが一発撃ち込まれた。
もちろん、常人の膂力で放たれたデコピン如き、ルシェラには一切のダメージを与えないが。
「こ・の・バ・カ・タ・レ」
口から鉄の塊でも吐いているような溜息とともに、イヴァーは言う。
「あいつに話したら帝国側は把握するんだよ。
軍も『第七』も、下手すりゃ宰相も!」
「すみません……」
「この場合大変なのはお前だけだから良いけどよ」
正体を明かしたのは、勢い任せの行動だった。
もし時間を戻せるとしても、同じ事をするだろうとは言えるけれど、それはそれとして作戦と情報で支援するイヴァーには申し訳なかった。
「まあいい、冷める前に食ってくれ。
オーナーの奢りだ」
そんなルシェラの前には、山のような料理が並んでいた。
未だ、事件の後片付けも済んでいないはずのホテル。その大食堂にてルシェラたち一行は、何やらとんでもない歓待を受けていた。
とりあえず、並んでいる料理の半分以上はルシェラにも名前の分からない逸品だ。しっとりと肉汁に濡れたソフトなパイみたいなものとか、皮がパリパリになっている巨鳥の丸焼き、半透明の何かが浮かんだ金色のスープ、雰囲気で中身は甘味と察することができる謎のボウルなどなど。
十人以上が掛けられるだろうテーブルに、ぎっしりと料理が並んでいるのだから、どう考えても四人前ではなかろう。
「冷める前に全部食べるのは無理よね?」
モニカはちゃっかり色籠を持ち込んでいて、料理の閲兵式みたいな眺めを撮影していた。
「なんかこの旅行、大量の料理に縁があるな……」
「遠慮なく残せ、下働きの小僧どもが食うだろうさ」
美味しい料理を食べさせること以上に、大量の料理の圧で感謝の気持ちを示すことが目的なのだろうと、ルシェラは察する。贅沢な話だった。
感謝ともてなしの宴は、主賓のルシェラこそ居ても、それを歓待する主人の姿は無い。
イヴァーすら、ご相伴に与る客人だ。
そうして主人が顔を現さぬのは、この場合、配慮なのかも知れない。
「お陰で俺の戦いにはひと区切り付いたよ。
何も解決してねえが、なるべく惨たらしく死んでほしかった奴が、死んでくれた。
つーか正確にはこれから死ぬんだが、まあ大して変わらねえか」
主役のような顔で堂々と料理を貪り食いながら、イヴァーは満足げに言った。
「何があったか聞いてもいいですか?」
「カタギの連中に聞かせるには、教養だの勉強って域を超えた話でな。そうさな……枠組みの話だけするか。
リチャード帝の軍勢が遠征を始めるのと同時に、クソ野郎どもの進出も始まった。
旧王国領の裏社会ですら、はみ出した奴や追放された奴……
そういうどうしようもねえ連中が征服地で成功しちまったんだよ。そして力を付けて凱旋した。
獲ったもん勝ちの征服地で成り上がってきた連中に、仁義は無ぇ」
多くの国々を征服し、帝国を打ち立てたマルトガルズ。
彼らは征服地で既存の支配構造を否定し、破壊し、自分たちに都合の良いものを作り上げた。
そんな大破壊が表の世界だけで留まってくれるはずもなく、裏の世界も、床に落とした陶器のように壊れ砕けた。
そしてそれを奇貨として、リチャード帝がそうしたように、闇に蠢く者たちも大征服を始めたのだ。
「俺はお代の分だけ肩入れして、客の敵とも商売をする。
……古い連中はそれを分かってるし、お互い様だから何も言わなかった。新しい連中は違ったんだ」
イヴァーは非常にキツい香りの酒を呷る。
その手に光るものあり。
普段着けていないはずの指輪を、彼は左手小指に着けていた。
「皇宮からは、どう見えてるんだろうな。
地図が塗り変わる眺めってやつは、よ……」
イヴァーの言葉は彼らしくもなく、詩的な響きに聞こえた。
別に、誰かに答えてほしいわけではなさそうだった。
「ルシェラ、よごれてる」
「あっ」
やたらと甘ったるい味のエビを食べたルシェラは、そのタレが唇の下に付いてしまっていた。
カファルはルシェラが対処する前に、ナプキンでそれを拭う。
ルシェラはされるがままで、モニカはその姿を撮影していた。
「……それ、みんなに見せる?」
「もちろん」
「やめて」
「やだ」
* * *
翌日でも良いだろうとは言われたが、食事を終えるとルシェラは、お見舞いに向かった。
なにしろ、場所がホテルなもので、ベッドには困らない。
低層階の客室が、臨時の病室扱いとなり、事件で怪我を負ったが命は助かった者たちの治療に使われていた。
その中には当然、エフレインも居た。
「ルシェラ様!
じゃなくて、ええと……」
ルシェラを見て、エフレインは上半身だけで跳ね起きた。
ベッドで横になっているエフレインの足は、血の滲む包帯が巻いてあった。
ポーションで無理やりに塞いだ傷が後遺症とならないよう、傷を整えた痕跡だろう。
すぐにやれば痕も残らず、治りも良い。
エフレインが官僚である故に優先的に治療を受けたのではないか……という気もしたが、それはひとまず置いておこう。
「昔の名前は、この世界から消えたんだ。
わたし自身も思い出せない。だから、ルシェラって呼んで」
「なんだって?
……そうか、本当にそんなことが……」
エフレインは驚くと言うより、感慨に耽る調子で言った。
ルシェラとイヴァーが予想した通り、帝国が収集できたルシェラについての情報は、特に最近のものに限定されている様子だ。
ジゼルと共に放浪していた時期は、各国の冒険者ギルドを渡り歩いていた。その全てに情報を吐き出させなければ正確な足取りは追えないのだから、帝国の情報収集能力でも把握しきれなかったのだ。
「うん……俺は、人の名前を覚えるのは得意だったはずなのに、どうして『彼』の名前も思い出せないのか……
自分が思ったより薄情な奴なんじゃないかって思うこともあったんだ。
いや、まさかこんな風に話が繋がるなんて」
「大学に行って、それから、どうなったんだ?」
「帝国の官僚としては真っ当な道筋だよ。
大学を出て、試験を受けて外交部の官僚になり、三年後には爵位も授かった。
もちろん領地なんて1ミリ平方も無いぜ」
エフレインは笑いながら語った。
誇示するでも威圧するでもなしに、成功者たる己の境遇を語った。
官僚たちの肩書きは、騎士が戦場で名乗りを上げるのと同じ。ひけらかしてナンボの武器であり、それがただそこに存在することは、稀だった。
「ルシェラは……ああ、呼び慣れないな!
ルシェラはどうだったんだ?」
「運輸の商会で事務仕事を見つけたけど、その商会がすぐに潰されたんだ。
禁書の輸入に関わったという発表があった……本当かは分からない」
卑屈な嫌味にならぬよう気をつけながらルシェラは言った。
征服地では、ままあることだった。
帝国の気に障ったものが、時に理不尽な口実で潰されていく。征服前からあったものは、特にそうだ。
実際のところ何が問題だったのか、下っ端は推察するしかできず、そして受難に耐えるしかない。
「そんなだから、それからは碌でもない仕事を転々として……
最後は危険な商売ばっかりする新興の隊商だった。
商団長は信じられないほど考え無しで、わたしの初仕事で雪山遭難した。そこを、通りすがりの冒険者に助けられて、後はご存知の通り」
エフレインとは対照的な話だ。
七転八倒、波瀾万丈。それをルシェラは、いっそ笑ってほしい。
エフレインに憐れまれたくないのだ。
「幼年宿舎には顔を出してるの?」
「もちろん!
先輩がそうだったように、俺も後輩を色々世話してやりたいからな」
「カタリナ先生は、まだ現役?」
「元気も元気。
あのクソデカ鍋を今でも掻き回してんだぜ。腰がイカれないか、こっちが心配だよ!」
エフレインの語った情景が、あまりにも克明に想像できたことがおかしくて、そしてその圧力が凄まじくて、ルシェラは笑ってしまった。二人とも笑っていた。
「お前、本当に、あいつなんだな……」
「うん」
応用学校の少年二人が、多すぎる宿題に文句を言いながら、幼年宿舎の自習室で夜更かしした日と同じ空気が、ここにはあった。







