≪13≫ 不帰
「だから、そう、別に山を出ようってんじゃなくてさ、ちょっと……街へ出かけたいんだ。
って伝わるかな……?」
雨上がりの湿った地面に、ルシェラはいくつかの絵を描いた。
『山を下りていく人』。
『街に入っていく人』。
『山に帰っていく人』。
ルシェラは人里へ行きたかった。
砕けた記憶を繋ぎ合わせ、自分は何者であったのか知りたかった。
何かをやり残してしまったという気持ちに決着を付けたかった。
わざわざ帰ってくるところまで絵に描いたのは、カファルはルシェラがどこかへ行ってしまうことを恐れているような気がしたからだ。
ルシェラが巣を離れすぎると、カファルはすぐさま飛んで行って連れ戻そうとする。
それは、巣を離れると危ないからという理由もあるのだろうけれど、もしかしたらそれだけではないのかも知れないとも考えていた。
カファルはルシェラが描いた絵を見ていた。
やがて鋭い爪で意外なほど器用に、ルシェラよりやや写実的に、地面に絵を書き足した。
熊のような魔獣に襲われる小さな人……ルシェラの姿を。
『まだ無理だ』。彼女はそう言っている。
「う、そっかあ……」
カファルが持ってくる『教材』との戦いは幾度を数えたか。
逃げ回ることだけはだいぶ上手くなったとルシェラは思っている。
しかし、山を下りられるほどではないと、カファルはそう考えているのだ。
「じゃ、じゃあこういうのは?」
ルシェラは、山を下る自分の絵と、登って帰ってくる自分の絵を踏み消し、代わりに空を飛ぶドラゴンと、その背中に乗る小さな人影を描いた。
行き帰り、カファルの力を借りることができれば問題無いだろう。
と、思ったのだが。
カファルは、並んだ絵の後半をさっと指の側面で払って掻き消した。
そして、鎧兜を身につけた人間たちに囲まれるドラゴンの絵を描き足した。
「………………そうか」
ドラゴンは強大だ。もちろんカファルも。
だが、不死身でも無敵でもない。
事実、人族の英雄たちが悪しきドラゴンを討伐した英雄譚はいくつも存在するではないか。
ドラゴンが倒されるのはニュースだが、しかし、世界をひっくり返すほどの事件ではないのだ。
考えてみればカファルは群れに属していないドラゴンだ。
何十匹ものドラゴンが住む、恐るべき竜の根城がこの世界にはあると言うが、どんな英雄だってそんなところに踏み込んではいけないだろう。
だが、単独で生活しているカファルは?
たとえば人里近くに降りてきたなどの理由で危険なドラゴンだと見做されれば、世界中から腕利きの竜殺しが呼び寄せられてドラゴン退治が始まってしまうなんてことも有り得る。
「分かったよ……」
『……ルルルルル……』
一際悲しげに彼女は鳴いた。
そして鼻をすり寄せ、念入りに頬ずりした。
どうにもならないことを詫びるかのように。
「わかった、つまり、こう!」
ルシェラは新しい絵を描いた。
それは、魔獣をやっつけている自分の絵だ。
『クルルルル……』
「うっぷ!」
カファルは嬉しげに喉を鳴らし、べちゃべちゃとルシェラを舐め回した。
自分の意を酌んで励ましてくれたことが嬉しいのだろう、きっと。
「あはは……まあ、俺は人間だからどこまでやれるか分かんないけどね。頑張るよ」
カファルの課す修行は大雑把で危険だが、しかし何故か幸いにも成果は上がっている。
もし人里へ出るために必要だというなら、もうちょっと頑張ってみてもいいかとルシェラは思った。
それまではこの幸せな停滞を味わっていてもいいはずだ。
『ウォウ』
「え」
一声鳴くと翼を拡げ、カファルは急に飛び立った。
山の上を旋回したかと思うと、彼女は急降下して山を揺るがすような勢いで着地。
そして再び舞い上がったときには、彼女は木々の間から何かを掴み出していた。
「キシャアアアア!」「シュルルルルル」
「メ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛」
頭から四匹の蛇が生えて口から酸毒を滴らせる羊が、カファルの後脚にぶら下がっているのを見て、ルシェラは踵を返して逃げ出した。