≪11≫ 塩対応
土地の性は火・水・地・風に四分されるが、その中にも様々な相があり、さらにはそれを鎮める竜命錫との相性によっても世界は様々に姿を変える。
特に、その境目は、いくつもの相が混じり合った奇跡の絶景を形成しやすい。
「塩!? 嘘でしょ!? これが!?」
まるで雪原のように、そこは一面、真白き大地。だがこれは全て、塩なのだ。
果てしなく続く白い世界を見て、モニカは只々、立ち尽くす。
塩を含む水が流れ込んでは乾く。それを長い時間繰り返し、塩湖が発生する。
ルシェラも、こういう場所があるのだという事は知識として知っていたが、実際に自分の目で見ると圧倒されるばかりだった。
魔法によってすら作り得ぬ。自然界の力の表出。偶然が生んだ、壮大なる芸術だ。
「たまに雨が降ると、この場所はまるで鏡のように美しい姿になるのですが」
「じゃあ降らせます」
稲光が空を走り、たちまち雨が降り始めた。
対岸が煙って見えないほどの雨が、ルシェラたちの上だけ避けて降り注ぐ。
ヤカンから水を注ぐように、雨だれは容赦無く塩の湖に流れ込んで、そして塩湖全体に水が張ったところで、ぴたりと止んだ。
「わぁ……!」
景色が一変した。
どこまでも続いていた白い大地が、鮮やかな青空の色になり、雲を浮かべていた。
塩湖の上に張った水が、鏡のように空を映し出し、地平で線対称となる景色を作り出していた。
水たまりや川面だって空くらい映す。
ルシェラはそういうものを想像していたのだが、それより遥かに鮮明に、塩湖はもう一つの空を生みだした。
頭がどうにかなりそうなくらいに美しかった。
「ねえ、ルシェラ。ちょっと背中に羽を生やして、私を抱えて飛んでくれない?」
「無理」
感激のあまり思考能力を失ったらしいモニカが、巨大な水鏡を呆然と眺めながら、傍らのルシェラの袖を引っ張ってよく分からないことを言った。
「ママならできるかもだけど……」
「わたしは、できる。でも、やったことない。だから、あぶない」
カファルの傀儡体は、あくまでも魔力によって編まれたものだから、好きな形に変えられるはずだ。
だが、姿を真似られることと、自在に動けることは違う。実際カファルの傀儡は最初、危なっかしいくらい不器用だった。
ドラゴンと違う、人サイズの翼を生やしたところで、まともに飛べるとは限らないのだ。
「ここでは観光客のため、空飛ぶ絨毯の貸出がされています。
上空から塩湖を眺めることもできますよ」
「借りてきて」
「かしこまりました」
モニカは無造作に言いつけて、エフレインは唯々諾々と応じた。
* * *
官僚となり、爵位を得て、貴族の端くれになろうとも。時には小間使いのように誰かの我が侭を訊いて働かねばならぬ。
接待とはそういうものだ。政治はそれで動く。
自分の仕事はまだ随分楽な方だとエフレインは思っていた。エフレインの案内する『旅行者』たちはお行儀が良く、自分への頼みも可愛らしいものばかりだ。少なくとも、夜中に叩き起こされて高級娼婦を要求されたり、大通りの通行人を全員排除するよう要求されたりはしていない。
どんな仕事だろうと、帝国の利益となるならそれでいい。
自分が為すことの意義をエフレインはよく分かっていた。
もっとも、周囲の同意を得られるとは限らないのだが。
「急に言われてもねえ。
うちだけじゃない、飛べるのはみんな予約制だよ。
客が待ってるんだ。信用ってもんがある」
湖岸の宿場町は、街道の中継点と言うより、塩湖の観光拠点としての役割が主と言うべき状態だ。
塩湖を見るための馬や乗り物も貸し出されていて、もちろんその中には空飛ぶ絨毯もあるのだ。
だが、貸出屋の主はエフレインに渋い顔をしていた。
無理な願いなのは元より承知。
無理を通す交渉をするため、エフレインは来たのだ。
「しかも相手は……あのドラゴンなんだろ?」
「お気持ちは承知しております」
クグセ山にドラゴンが居るせいで、この地は不利益を被っている。
……そう、人々が考えるのは自然なことだ。人は何より利害に敏感なものだ。
向けられる感情は厳しいものとなる。
だが、ドラゴンを嫌っているからと言って、剣を取って突きつけに行く者はおるまい。
それは蛮勇ですらない。愚行の域だ。
なればどうなるか。皆、ドラゴンに関わった者を責めて憂さを晴らすのだろう。
そうと予想できるから、気が進まないわけだ。
「ですが、これも帝国の勝利のため。その作戦のうち。
あなたの名誉が穢れることはありません」
「帝国……」
エフレインの言葉はしかし、今ひとつ響いていない様子だった。
「帝国のため、ねぇ……」
貸出屋の主は渋い顔で、ターバンの隙間から指を突っ込んで頭を掻いていた。
官僚たるエフレインから『帝国のため』と言われて、それでも尚この反応だ。
これで断るなら帝国の利益に反する者となりかねない。畏怖と喜びに満ちた、光栄なる殺し文句だ。
エフレインは帝国の官僚としてこう言うべきであって、帝国民はそれに諾々と従うべきなのだ……本来は。
――これだ。旧王国領には、これがある。
彼らはリチャード王が築いた国だから帝国に従っているのであって、帝国そのものの事は何も考えていない。
かつてマルトガルズ王国であった『旧王国領』と、リチャード王によって征服された『新領地』は、根本の部分が少し異なる。
旧王国領の貴族たちは、我が強い。上がそんなだから、民もそうなる。帝国に盲従せず強かさを見せるのだ。
「ご協力には報い、最大限の便宜を図ること、お約束申し上げます」
「チッ」
舌打ちし、首をかしげ、男はタバコの煙を吐き出しながら髭を撫でた。
「予約客に払う分も入れて、二百だ。それ以上は負からん」
「……よろしいでしょう。ご協力感謝します」
こんな時、金は強力な武器だ。
必要とあらばエフレインの裁量でいくらかは出せる。
金の力で無理が通るなら、それは充分に円滑で円満な解決と言えた。
* * *
絨毯は空の中を飛んでいた。
「すごく……すごい」
モニカは前後左右に上下まで見回して、夢中で色籠を操作していた。
上を見ても下を見ても、青い空と白い雲が見える中を絨毯は飛んでいた。
塩湖に空が映り込んで、高さの感覚を狂わせる。
大地など見えなくなるほど高く高く飛んで、神の高みを舞っているかの如き眺めだ。
『××××、×××××××××××××××、×××××××××××××××』
「あはは、そうかも。適度に近い方がね」
カファルはドラゴンの言葉でルシェラに何か言う。
するとルシェラはそれを傍らの貸出屋に通訳した。
「この高さで飛ぶ方が綺麗に見えるって、ママが言ってます」
「やあ、それは良かった」
貸出屋は絨毯に同乗し、操縦している。
普段観光客を絨毯に乗せるときも、このように絨毯の操縦を請け負い、塩湖の来歴の話などしているのだろう。
そして彼のルシェラに対する態度は、全くもって普通に、観光客の相手をするものだった。
「どこか、見ておいた方がいいところってありますか?」
「水鏡ができてるなら、夕焼けも月夜も全部綺麗だ。
あとは塩鉱か」
「湖の反対側でしたっけ?
……あ、見える見える」
百景本を出して、飛ばされないようにしっかりページを押さえながら、ルシェラは塩湖の対岸を眺めやった。
「昔は塩を掘って売るのが、この辺りの産業だったんだ。
でも今じゃ、塩湖を見せた方が儲かるんでな。塩を掘ってはいるが見世物だし、湖が無くならんよう、少しずつだ。
掘った塩はうちでも売ってる。土産物に人気だぞ」
「へえぇ」
貸出屋が険悪な態度を取るのではないかとエフレインは心配していたが、その心配は無用だった。
エフレインの心配も知らず、ルシェラは無邪気な様子で話し込み、男はエフレインに対するのと打って変わって、ルシェラに愛想良く応じている。
――無邪気? 無邪気か?
ふっとエフレインは、気に掛かった。
ルシェラが妙に明るく、はしゃいだ調子に思われて。
――違う。演じている。こんな子どもを相手にしたら、大人は悪い気しない。そうと分かっている。
これは彼女の配慮だ。
カファルは人語が不自由だし、モニカは周囲への気配りなどできてもしない。
では己が気配りすべきだとルシェラは判断して、それをしている。
マルトガルズの国が、公の統治機構がどう動くかというのとはまた別の話で、民の間にドラゴンへの反感があるのはルシェラも承知しているのだろう。
だからこそ特段に気を配り、関わった者らも自分らも、お互い嫌な思い出にならないようにしている。
遠目に見れば彼女らの行動は傍若無人だが、近くで見れば細やかだ。
官吏・官僚は権威を武器とし、国家の利益を守るためなら、それを民にも振るうもの。だがルシェラの態度はそれとは違う、民対民の対人技術だ。
「どうかしました?」
「……学ぶところがあると……思いまして」
「は、はあ」
この可愛らしい少女を侮ってはならない。
それはドラゴンの力に限らない話なのだとエフレインは悟った。
カファルのセリフ:
『この場所、空を飛びながら見たことあるけど、人が飛ぶ高さの方がずっと綺麗ね』







