≪5≫ 領空侵犯
座して静かに目を閉じたモニカ。
その周囲に、水の流れがあった。
城塞を取り巻く堀川のように、あるいは魔法陣のように、滾々と湧き出る水が周回し、そしてどこかへ消えていく。
流れを手繰るのはルシェラ。指導するのはトグル。
『傲慢になれ、ルシェラ。
法を布け。貴様の形作る流れのみが絶対だ。他の何者も許すな。
支配せよ』
ドラゴンとしての力を使うとき、ルシェラは、目に見えない世界の『流れ』を感じる。
それはたとえば、生物の身体に血が巡るような、機械の歯車が噛み合って回るような、世界の仕組み。ドラゴンはその『流れ』と結びついており、流れの向きを変え、物理世界に力を表出させることもできるのだ。
だが、これは流れを作ると言うよりも……遮断。
流れを否定するための流れ。
それによってルシェラは今、モニカを包んでいた。
「……どう、ですか?」
「良くなったみたい」
呼吸の具合を二、三度確かめてから、モニカは立ち上がる。
「…………あの」
「はい」
「……ありがと…………」
「はい」
それから、ちょっと目を逸らしつつ、ぎこちなくお礼を言った。
「貴様が『流れ』を作ったことで、その娘と竜命錫を結ぶ流れが絶たれた。
一時的なものだが」
「一時的……ですか」
「要領は同じだ。竜命錫に対してもこれをすればいい。
竜命錫は所詮、命令器。振るわれた力によって暴走状態を保っているに過ぎぬ。
泳ぎ続けなければ呼吸できない雷爆鮪のようなものだ」
トグルが指導しているのは、暴走する竜命錫の止め方。
ついでにそれは、竜命錫の干渉を絶ってモニカを守る手段でもあった。
トグル曰く、モニカは竜命錫に『呼ばれて』いる。そのせいで変調を来しているようだ。
竜命錫の力はドラゴンの力。ルシェラであれば対抗できる道理だ。
もっとも、一時的な保護効果しか無いのなら、竜命錫の暴走を止めるという根本的解決が必要であり……それまでどうやって時間を稼ぐか、という話になる。
「モニカさんはどうすればいいんでしょう?
竜命錫が呼べないくらい、遠くへ避難させれば良いんでしょうか?」
「逆だな。その娘を生かしたいなら、共に竜命錫を追え。
人が、骸と言えどドラゴンに抗えるものか。引き離せば魂のみを奪われよう」
「じゃ、じゃあこれって……魂が身体を殺して竜命錫の所へ行こうとしてる!?」
無茶苦茶だ。
だが、そういう無茶苦茶が、世界の仕組みに関わる部分では当たり前に起こるのだとルシェラは知っている。
「……ムカつく。何してくれてんの、あの竜命錫。
一発ぶん殴ってやるわ」
汗ばんだ顔をむっつりとしかめて、モニカはぼそっと呟いた。
呆れているのか感心しているのか分からないがトグルは何も言わなかった。
* * *
冒険者パーティー“黄金の兜”は、メンバーの一人であるウェインの実家、クグトフルムの街にある廃旅館『岩トカゲ館』を拠点としている。
そのロビーでルシェラとモニカは、慌ただしい旅支度をしていた。
とは言えルシェラは普段から、いつでも冒険に出られるよう準備をしているので、支度が必要なのは主にモニカの方だ。
着替えや雨具、洗面用具や化粧品などが、ビオラの手で次々鞄に詰め込まれていく。
「モニカさんの様子は?」
「ひとまず延命薬を飲ませたところ熱も下がりましたが」
「それで良くなるって事は……すごく危険な状態ですね。消耗させられてるって事です」
魂を奪われるというトグルの言葉が、真に迫る。
延命薬とは、生命力を補充する薬。健康な者には不要、それどころか怪我人や病人にも基本的には不要。魔法による対症療法ですら、どうにもならないほど衰弱した者が、命を長らえるために飲む薬だ。
それがモニカに効いてしまった。モニカの肉体は間違い無く、死に向かっていた。
「……本当に行くんですかルシェラちゃん」
「はい」
セトゥレウを守るためには竜命錫を追い、暴走を止めるしかない。
そこに、モニカの命を救うという目的も加わった。
竜命錫を追うとなれば、つまり、マルトガルズへと向かうことになる。今現在セトゥレウと戦争中で、カファルの命を狙ってクグセ山に攻め入った事も記憶に新しい、山向こうの帝国に。
「一応ギルドとも相談したが、俺らがマルトガルズの中まで付いてくのは流石に無理だろって話になった。すまん。
いざって時は何と引き換えても駆けつけるけどな」
「しょうがないですよ。
無理はしないでください」
ティムは普段より何割増しかで渋い顔をして、ルシェラに詫びた。
冒険者は国境や政治に関わりなくどこへでも行くものだ。本来の原則としては。
しかしそれは冒険者が政治から独立した存在である事が前提で、かつ、冒険者ギルドが冒険者の保護者として国家に睨みを利かせることで実現する。
その点、“黄金の兜”は政治的存在感がありすぎる。少なくともマルトガルズを警戒させる程度には。
そしてマルトガルズでは伝統的に冒険者の仕事が少なく、ギルドの態勢が貧弱だ。
旧マルトガルズ王国からしてそうだったのだが、特に帝国としての新領地は、傾向が顕著だった。冒険者の仕事を公がやってしまうことで、冒険者が存在する余地をなくした。冒険者という自由の剣が存在する事を、リチャード帝は嫌ったのである。
貴族に睨まれた冒険者が行方不明になったとしても、ギルドはまともに調査すらできない。それがマルトガルズの現状だった。そこに“黄金の兜”の仲間たちを連れていくのは危険だった。
「つーか、お前も大丈夫なのかよ?
マルトガルズのど真ん中に飛び込んで行くんだろ?」
「危険ですが、無理クエではないと思います」
自分でさえ危険だと思っている。
それでもルシェラには勝算があった。
「……モニカをよろしくお願いします」
「引き受けました」
ビオラはルシェラの手を包むようにしっかと握り、ルシェラは深く頷いた。
「私は転移魔法陣をいつでも使えるよう御祖父様に言っておきます。
場合によってはそれでグファーレ連合へ先回りしようかと」
「竜命錫が本当にそこまで行くのなら……ですね。了解です」
ビオラを経由したフォスター公の情報によれば、竜命錫は一直線に、マルトガルズとグファーレのぶつかる戦場へ向かっているらしい。
もし進路が変わらぬまま進み続けたなら、舞台はグファーレ連合に移るのだ。それに備えるのが仲間たちにできることだろう。
「それから青竜王陛下に……えっと、お酒を出せるだけ出しておいてください」
「……御祖父様に働いていただきましょうか」
二人は声を潜め、囁き合う。
辺りには竜気の重圧が満ちていた。
なんだかんだ言いながら付いて来たトグルが、ロビー奥のソファーにふんぞり返っているからだ。
使い魔だの、別のドラゴンにお使いをさせてもよかったはずだ。
なのにわざわざ竜王自ら出向いた理由は……それだけルシェラを買ってくれているのかも知れないが、絶対に酒も目的だろうとルシェラは睨んでいた。
水が豊富で良質なセトゥレウは、稲作が盛んで、それを用いた酒造も盛んだ。
何故かブルードラゴンは誰も彼も、死んでも治らないほどの酒好きで、それは人族の間でも有名な話だった。酒屋や酒場が地域によって青旗を立てるのは、ブルードラゴンが由来だと言う。
ブルードラゴンたちも過酷な環境下で、独自の手法を使い酒造を行っているらしいが、人が住む穏やかな世界の酒は、彼らには作れない味だ。
放っておいたらあのまま街の酒場に現れかねない。
酒を振る舞って穏便にお帰り頂くべきだろう。
* * *
一面の砂原は、突き刺すような陽光を浴び、鏡の如く輝いて見えた。
乾ききった熱砂の大地は、空から見ればまるで波打つ金色の海原だ。
風によって生み出された丘がいくつもいくつも連なって、旅人たちの行く手を阻む。
セトゥレウが占領したアンガス侯爵領の東側、マカンタ侯爵領は『火』の性を持つ土地だ。
特に乾きの相が強く出ている地で、一面の砂漠地帯となっている。足を踏み入れれば、直ちに太陽の殺意が増す。
全身を覆って日光から身を守る外套を纏い、ラクダに荷を乗せて砂漠を進む商人が、驚いた顔で空を見上げていた。
天を舞う翼竜の『変異体』の姿に。
その背にある三つの人影まで、地上から確認できたかは、定かでない。
「大丈夫ですか?」
「今のとこ」
ルシェラは、自分の背中に抱きついているモニカに問う。
モニカは乗馬用の服の上から、薄手の全身外套を身につけていた。こんな恰好で慣れないワイバーンにまたがって炎天下を飛ぶのだから消耗するだろうが、本気か痩せ我慢か、彼女は平気そうだ。
ちなみにそう言うルシェラは、いつもの冒険服姿だ。ルシェラの肉体は、並大抵の熱や炎では一切ダメージを受けない。人族基準の日射対策は不要だった。
カファルも暑さには強いはずなのだが、モニカと同じ恰好だった。人の姿をしたカファルの傀儡は、服も身体も魔法で生み出したもの。いくらでも服装を変えられるので、状況に合った服を試しに着てみたのだろう。
やがて、行く手に街が見えた。
砂を魔法で固めた街壁の中、風通しの良さそうな建物が並んでいる。大通りには椰子の木らしき街路樹が列を作り、中心には街領主居城と、魔法による給水設備があった。
壁の上で衛兵たちがルシェラたちの方を指差して、慌ただしく動いているのが遠目に見て取れた。
ルシェラは手綱を操作して、ワイバーンを下降させ、街の手前に降り立つ。すぐ近くに降りようとして、いきなり定置魔弓の斉射など受けたら面倒だからだ。空中でモニカと借り物のワイバーンをまとめて守るのは難しい。
「ご苦労様。青竜王陛下によろしく」
「ギッ」
分かっているのかいないのか、三人(?)を降ろしたワイバーンの変異体は親しげに一声鳴いて、南へと飛び去っていった。
後に残されたルシェラたちの所へ、街壁を飛び出して衛兵たちが駆けつける。
砂上で動きやすい魔法の靴と軽量の甲冑を身につけた彼らは、槍だの弓だのを持ち出して、それをルシェラたちに向け、半包囲した。
とは言え、襲いかかってくる気配は無く、皆、腰が引けていた。ルシェラの肩越しにモニカがあかんべーをしていた。
「なっ、何者だ貴様ら! ここで何をしている!」
二十歩以上離れた場所から、上擦った叫び声で誰何する衛兵に、ルシェラは睨み返して叫び返す。
「観光旅行に来ました!」







