≪4≫ 水のものたち
約二時間後。
ちょうどルシェラが、氷牙野象の挽肉のつみれをスープにしていた時だった。
「ん?」
覚えのある感覚。
空が悲鳴を上げているかの如き重圧。
ドラゴンの纏う超常のエネルギー、竜気によるものだ。それもカファルのような、若く未熟なドラゴンのそれではない。歳経て、人より神に近しいほどの力を得た老竜の、天地をひれ伏させる重圧。
巣から飛び出して空を見上げれば、竜気の発生源は、すぐに明らかになる。
劣種竜の『変異体』が一直線に飛んできて、その背に騎乗していた者がカファルの巣の前に降り立ったのだ。
それは、形だけなら人であるもの。
フリルジャボの付いた純白のシャツと、競技剣術の装束みたいなズボン。ヒレのようにうねる、鮮烈に青い髪が特徴的な貴公子だった。
『呑気なものだ。異変に気付いておらなんだか』
溜息をつくように、鼻で笑うように、彼は言った。
「……シルニルの青竜王陛下」
背骨が重く感じ、ルシェラは向かい合うだけで膝を折ってしまいそうだった。
セトゥレウ王国の南東側はシルニル海に面している。
沿岸は環境も穏やかで、漁業や海運なども行われているのだが、陸から少し離れればそこは荒ぶる海。常人なれば生きては帰れぬ、ブルードラゴンたちの領海だった。
その群れの長、シルニルの青竜王トグル。
ただの群れ長ではなく『竜王』の称号を冠する彼は、人に化けた姿こそ若々しくても、齢1000を超える古代竜だ。
そして、奇妙な縁ではあるが、ルシェラにとってトグルは『名前の上で父方の祖父』という立場に当たる。
カファルは、トグルの仔であるルジャと番い、卵を産んだ。そしてルジャと我が仔を失い、仔の名をルシェラに受け継がせた。
ドラゴンの名には力がある。ルシェラはその名を得たことで、シルニル海の群れに連なる者となった。そして、名にふさわしい力を示したことで、群れの一員として認められたのだ。
『陛下。何故、このような場所へ?』
カファルも人の姿のまま、包丁を置いて巣から出て来た。
調理用のエプロンは火の粉となって散った。この肉体と服は全て、魔力で編んだものなのだ。
『セトゥレウ王国の竜命錫が暴走した』
「は……い?」
『山の向こうだな。おそらく今はもう人の手を離れ、力を振りまきながらうろつき始めているだろう』
トグルはとても事務的に、必要だから伝えているが自分にとっては大して重要ではないのだというのがありありと分かる口調で、人族世界の一大事を告げた。
「『暴走』……」
ルシェラは知識として、その現象を知っていた。
それが、決して起こってはならない破滅的な事態だという事も。
竜命錫の暴走は、竜命錫の使いすぎによって発生するとされる。
事実、マルトガルズに侵略された国々は限界まで竜命錫を使って抵抗し、最後には皆それを暴走させた。
マルトガルズはその竜命錫を鎮め、喰らってきた。
多くの国を征服したマルトガルズは、それだけ多くの竜命錫を奪ってきたわけだが、征服国の竜命錫使いの血筋が権威を持つことを嫌い、竜命錫を『合成』した。
竜命錫に竜命錫を喰らわせ、集約したのである。
そうして力を高めた強力な竜命錫によって、広大な国土の環境制御を成している……
「ルシェラちゃーん!」
普段より濃厚な竜気が渦巻く中で、人の気配など察せられない。
気配を感じるより先に、ビオラの声がした。
早足の足音を聞いてルシェラはやっと、“黄金の兜”が揃い踏みしていることに気付いた。
山道を登ってきたのはティム、ウェイン、ビオラ。そして鎧男は、いつもの鎧を着ていない代わり、鎧よりは軽そうな荷物を背負っていた。運動着姿のモニカだ。
「青竜王陛下がここにいらっしゃるって事はもしかして……」
「そっちも竜命錫の話ですか」
ビオラは頷く。
トグルは何らかの超感覚によって事態を察知したのだろうが、こちらはフォスター公爵を経由した情報だろう。
「でもなんでモニカさんまで来てるんです?
と言うか、体調悪そうですけど大丈夫ですか?」
ティムに背負われてやってきたモニカは、背中から降りようとしてよろめき、ビオラに手を支えられた。
彼女の顔は真っ赤になっていて、今日は涼しい日和なのに、じわりと汗が浮いている。目の焦点すらどこか合っていないような気がした。
「さっきから急に熱を出して魔法でも治らないんです。それに私たちが山へ行くって言ったら絶対について行くって聞かなくて」
朦朧とした様子ながら、それでもモニカは顔をしかめて、不機嫌そうにトグルを睨み付けた。
「……あんたが私を呼んだの? 頭の中がうるさくて死にそうなんだけど!」
「私は人など呼ばぬ。
だが……奇妙な気配が纏わり付いているな。こやつは竜命錫に呼ばれているようだ」
トグルはモニカに言葉を掛けられても、彼女に直接言葉を返すことはしなかった。それが竜王として引くべき一線という事なのだろうか。
しかし彼はルシェラに対して、ドラゴン語でなく人間語で喋り始めた。
傍らで聞く者にも理解できる言葉だ。
「竜命錫が人を呼ぶ?」
竜命錫の暴走は知られた話だが、それが人を呼ぶという話はルシェラも聞いた事が無かった。
「しかもビオラさんじゃなくて、モニカさんを? だってモーリス計測指標では……」
「モーリス! モーリスか! ははは、懐かしい名を聞いた!
賢者を名乗り、竜の力を従えたと嘯いた愚か者! 実に人間らしい思い上がりだった。奴がその愚かしさ故に、自ら八つ裂きになって死んだのを、私はこの目で見たぞ!」
人族世界に今でも名が残る1000年前の偉人を、青の竜王は笑い捨てる。
「人族の言う『適合率』は所詮、竜命錫に刷り込まれた命令権者にどれほど近いか、という指標。
竜命錫本来の意思には関わり無かろう」
「では、何故なのでしょうか」
「竜命錫に聞け。答えるだけの知性があるかは分からぬがな」
全く興味なさそうにトグルは言った。
実際、その理由よりも大切なのはまず事態を解決することだ。
「竜命錫の暴走を止める方法は……ありますか」
「何故それを私に問う?
竜命錫は人の道具だ、人の知識に答えがあろう」
「……暴走が収まるまで待つ。
破壊する。
あるいは同質の竜命錫によって鎮める。
つまり、水の竜命錫である『慧眼の渦嵐』は……」
同じ、水の性を持つ竜命錫を使えば鎮められる。
そして、手段は、もう一つ。
竜命錫の振るう力は、ドラゴンを模したもの。
竜命錫にできることなら、ドラゴンにもそれができる道理だ。
常人には不可能であったとしても、その名によって、水を司る青竜の血族となったルシェラになら。
『……私としては、しばらく放っておくべきだと思っている。身の程知らずの人族には良い戒めだ。
だが、貴様はお節介を始めるのだろう?』
『はい』
ルシェラは迷わず頷いた。
暴走する竜命錫がどこかへ行ってしまえば、セトゥレウは国土を維持できなくなる。
先日の戦いではクグトフルムが滅びの雨に見舞われ、街は水没しかけ、死人も出た。あれよりも遥かに酷いことが、やがて国中に起こるのだ。竜命錫が戻らなければ。
『ならば、手段だけは与えておこう』
『えっ』
『何を驚く』
トグルはルシェラの驚きに、心外な様子で鼻白んだ。
何のためにトグルがここに来たのか、ルシェラはようやく理解した。
『貴様が死ぬよりは生きて帰る方がマシだ。
行くがいい。そして成し遂げよ。ルジャの子、ルシェラよ』
今さらですが『人』や『人族』と言った場合はエルフやドワーフも含めます。
『人間』という言葉は人間種のみを指す場合や、それを特に強調する場合だけ使います。
------
コミカライズ版1巻が9/30発売となります!
よろしくお願いします!







