≪3≫ 嵐の始まり
辺りには泥のニオイが漂っていた。
軍楽隊のラッパや太鼓が、裂けて砕けて散らばっていた。
煌びやかな鎧の騎士たちは、嵐に薙ぎ払われた稲穂のように倒れ、この日のための兜飾りも、各々に家紋を刻んだサーコートも泥まみれになっていた。無事であった者も、仲間を助け起こすどころではない。ただ呆然と天を見るばかりだ。
それは行列を見守っていた群衆も同じ事だった。不安と困惑にどよめきながら見上げる事しかできない。
快晴だったはずの空はみるみる掻き曇り、やがて太陽の気配も感じられぬほどになった。
その昏い空に浮かび、空に向かって行く奇妙なものが、一つ。
それは言うなれば、水流の毛糸玉だった。
轟々と、複雑に絡み合う流れが空中に浮かび、おおよそ球と呼べる形を取っていた。
零れ落ちた水が地上を泥濘ませていた。
水流の中心に浮かぶものは、艶めく藍色の錫杖。
セトゥレウ王国の竜命錫……『慧眼の渦嵐』。
暴れ狂う水流の中で、その竜命錫は姿を変えつつあった。
内側からめくれ上がるように、膨張するように。物理法則を無視して体積を増やしていた。
片方だけの翼。爪を備えた手のような突起。のっぺりとした上顎。背骨と背ビレ。
それは、まるでドラゴンの模型から部品の七割を除けて、残りを無理やり継ぎ接ぎしたような、歪で小さな何かだった。
やがて雨が降り始めた。刺すような雨粒が降り落ちる中、人の手を離れた異形の力は、飛翔する。
徐々に高く、徐々に遠くへ。嵐を伴って。
* * *
再建中のセトゥレウ王宮に、主立った廷臣たちや、たまたま王都に居た諸侯、あるいはその名代が集っていた。
典雅な木造建築は、破壊された部分を即座には再建できず、魔法で成形した岩によって補った継ぎ接ぎの状態だった。
石のニオイがする臨時会議室は、石より重くて、盛夏のセトゥレウより湿った、冬の風よりも冷たい空気に満たされていた。
「以上が……先程、占領地にて発生した事態となります」
いわゆる軍師や軍事参謀的な立ち位置である廷臣、三色編み髭のドワーフ、カッジャル男爵は、微かに震える声で報告を締めくくった。
それを聞いていた誰もが、驚きか絶望か、その両方で絶句していた。
竜命錫はあくまでも物だ。ドラゴンの肉体から作り出しただけのアイテムだ。
だが。実に奇妙なことに、竜命錫は時として、自ら意思を持つかのように力を振るい始める。
当然、暴走は起こってはならないことだ。竜命錫は人族の領土を維持する要石。それが勝手に動き出して役目を果たせなくなったら、国土であった場所は魔境と化して、人という人が死に絶える。
あるいは、竜命錫がマルトガルズによって回収されたりしたら、それはそれでどうなるか。いずれにしてもセトゥレウ王国には破滅が待っている。
「よりによって竜命錫の暴走などと!
竜命錫を休ませていなかったのか!?」
「ここ八日間は、本国の環境制御以外に一切用いておりません!
意図的に休ませたわけではありませんが、グファーレやマルトガルズの運用基準に照らしても、最も厳しい休息基準より長く冷却期間を取った形となります!」
トバル公の追究に、自分一人の決定でもなかろうにカッジャル男爵は必死で弁明した。
どうすれば暴走するのか実験することなどできないから、あくまでも経験則によって人は、竜命錫の暴走を抑えてきた。
……抑えているつもりだったと、言うべきだろうか。
「更に言うなら、地脈回路の引き直しは竜命錫に比較的負荷を与えないものとされている。
未知の事態だ。そう思ってほしい。そして今ここで話し合われるべきは、対応策だ」
先刻報告を受けていたラザロ王は、説明を引き取った。
ラザロにまで焦燥をぶつける気にはなれなかったようで、流石にトバル公も引き下がる。
一刻を争う事態だ。いや、既に手遅れかも知れないが、だとしても希望がある限り一刻を争うべきで、原因や責任に関しては後から話し合えばいい。
冷静でいられない時こそ冷静にならなければならないのだ。
「竜命錫は今、どうしている?」
「高空に浮かんだ後、北東へ向かって進行し始めたと報告を受けております。
当初はヒポグリフの倍ほどの速度で飛翔しておりましたが、占領地を抜けてからは徐々に鈍化しているようです」
「待て! もう占領地を出てしまったのか!?」
「と……推測されております」
「では、マルトガルズが竜命錫を鎮めてしまえば……!」
臨時会議室がどよめいた。
暴走する竜命錫は、同質の竜命錫によってのみ沈静化させられる。
セトゥレウ王国の竜命錫『慧眼の渦嵐』は、水のものであるからして、水によって鎮めるということになる。
そしてマルトガルズは四本の、強力な竜命錫を保有している。火・水・地・風、のそれぞれ一本だ。
今、その全ては東の戦場にあり、グファーレ連合との戦いに用いられているわけだが……
「もちろん、これはグファーレ連合にとっても一大事だ。そして解決にはグファーレの力を借りることとなる。
マルトガルズの竜命錫は、全て、戦場に釘付けにしてもらわなければならぬ。
一本でも持ち出す猶予を与えたら、その時が終わりだ」
ラザロは己の口で語りながら、どれほど状況が厳しいものか再認識していた。
先日は竜命錫を奪われたと思ったら、今度は原因不明の暴走だ。竜命錫にここまで悩まされた王は、セトゥレウ建国以来初めてだろうと、そんなどうでもいい考えが頭をよぎった。
『そうして時を稼いだとして、後はどのように竜命錫を回収するか、ですな』
奇妙に籠もって響く、老人の声がした。
「フォスター公! 陛下の言葉を遮るでない!」
「そも、そのみっともない姿は何だ!」
臨時会議室に集まった者の中に、大きな水晶玉を抱えた術師が一人居た。彼はフォスター公爵の家臣なのだ。
水晶玉から擲たれる光は、枯れ木のような老爺の姿を模っていた。幽霊のようだが、これは遠く離れた場所に居る者の姿を複製した幻影だ。
フォスター公爵ローランド。セトゥレウ王国を構成する諸侯の中で、最も力を持つ男。
彼は自らの居城に居ながら、この場に幻影として存在している。
こういう真似ができるよう、個人的に術師を雇い、アイテムを買い入れ、仕組みを構築していたのだ。
とは言え、幻影の姿で王の御前に参るなど、普通はあり得ないことだ。
周囲からの非難にフォスター公は、しおらしく頭を下げた。
『あい申し訳ありませぬ。
しかし転移陣による諸侯の参集も待たず、まず王都に居る者を集めるほどの大事と聞き及びました。
国の一大事とありましては、恥を忍んでみっともない姿を晒し、この老骨も知恵の一欠片なり、皆様に託す矢として……』
「フォスター公。時が惜しい。
何ぞあるのであれば、それのみを申せ」
溜息をかみ殺し、ラザロはフォスター公の言葉を遮った。
この男の扱いはラザロが何より気を遣う事。ないがしろにすれば事が運ばず、少しでも引き立てれば角が立つ。
ラザロに促されると、殊勝な顔をして、フォスター公は進み出る。
『では謹んで奏上致します。
竜命錫の奪還に適任の者がおりましょう。
国家や政治の軛に囚われずどこへでも押し入れて、また竜命錫無しで竜命錫を鎮められる者が』
そんな都合の良い者が居るのかと、訝しむ様子の者が半分。
即座に思い当たったようで、複雑な表情を浮かべている者が半分。
ラザロは後者だった。
「また……彼女らに頼ると言うのか」
口の中でつっかえそうなくらい言葉が重かった。
ラザロは己が至らぬ王であると知っている。
辣腕、豪腕を振るい、国の全てを思い通りにすることなど、ラザロはするべきでないし、できない。
リチャード帝のような戦上手でもないし、諸国を籠絡する外交上手でもない。
なれば民を守るため、使えるものはなんでも使う。利用する。
それ自体に躊躇いは無い。
しかし苦肉の策というのは、得てして代償を伴うものだ。それがどんな形であれ。
「なりませぬぞ、陛下。
竜命錫は我が国の根幹たるもの。……それを、国が制御できぬ存在に託すのですか。
これは国家としての筋論でもあります。我らの手によって奪還せねば」
『ごもっともですな。我が国は我が国として対策を打つべきでしょう』
トバル公の諫言に、フォスター公の幻影ももっともらしく頷いた。
トバル公が嫌そうな顔をしたのは言うまでもない。
『それはそれとして、彼女らは……我が国と関わりなく、勝手に動くのです。
私も、彼女らに何もしませぬし、何もできませぬ。ドラゴンを意のままにしようなどと、なんと畏れ多いことか』
哲学者のように、あるいは詐欺師のように。フォスター公は欺瞞の言葉を吐いた。
ラザロは歯ぎしりを堪えていた。
トバル公が言ったのももっともだが、ドラゴンたちの力を借りることには、もう一つ問題があるのだ。
――彼女らは引き受けるだろう。そして民はそれを喜び、受け容れるだろう……
だからこそ! あの親子を『フォスター公のもの』にしてはならぬ!
彼女らが……権力欲の道具になってはならぬのだ。
クグセ山はフォスター公爵領の一部。
そしてフォスター公は、かの親子に対して、極めて直接的な人脈を持つ。
ドラゴンたちが義によって動くとしても、それで笑うのはフォスター公であり、彼は政治的影響力を増すことになる。
さすれば反発が生まれる。フォスター公自身はそれで構わないのだろうが、他の誰にとっても不幸なことだ。
先王たる父は、フォスター公を贔屓していた。……贔屓していたとしか言えまい。甘い汁を随分と吸わせていた。
ラザロ自身が王となって、玉座の高みから見通してみれば、王子だった頃に考えていたよりも、それは巧妙に隠された、しかし根深く、深刻な問題だった。反対派諸侯が呑み込んでいた怒りの程を、即位早々思い知った。
ローランド・ガルクトゥ・フォスター。
この男一人のために、セトゥレウ王国の政治を、これ以上歪められてはならない。
差し当たっては……隣人たるべきドラゴンたちを、占有させたり、奪い合わせてはならない。フォスター公にも、他の誰にもだ。
所詮全ては王宮の中の出来事。そうしなければ。
――ドラゴンたちを守ることは私の仕事だ。
竜命錫を取り戻すよりは遥かに簡単だろう。その程度もできなければ、王の名に価値は無い。







