≪1≫ 青き日の岐路
エフレインが物心ついたとき、既にタッカ公国は存在しなかった。
マルトガルズ帝国によるタッカ公国侵略戦争で両親を亡くしたエフレインは、神殿学校に通っている頃から、帝国が用意した『幼年宿舎』で同じような境遇の子どもたちと共同生活を送っていた。
幼年宿舎の子どもたちは、神殿学校を卒業すると、衣食住から学費まで全て帝国の支援を受けて応用学校に進学することができた。これを断る者は少なかった。身寄りのない子どもたちにとって、身を立てる唯一の手段は、教育を受けることだったから。
神殿が設置する神殿学校と違い、応用学校は統治者が……つまり、この場合は帝国が設置するものだ。
社会制度の知識、種々の芸術、科学や錬金術、帝国の歴史とその正しさを学んだ。
学び成長するにつれて視野が広がり、やがてエフレインは、自分がどうすれば成り上がれるか理解し始めた。
学ぶことで己の力を磨き、その上で、既に地位がある者と人脈を繋ぐのだ。
ありがたいことに機会はいくらでもあった。
「やあ、エフレイン! 相変わらずお前は元気そうだな!」
大学を出て官吏になった、同じ幼年宿舎の先輩が、その日も宿舎を訪れた。
ちょうど応用学校から戻った所だったエフレインは、玄関に先輩の姿を見るなり駆け寄った。
「先輩、今日はお土産なんですか!?」
「おいコラ! 俺の給料にも限界があンだぞ。帝都の菓子を毎度毎度持ってこれると思うな!」
立派な服を着た先輩は、いつかのようにエフレインの頭を抱えて脇腹をくすぐった。
「でもな、土産みてえな良い話ならあるぜ」
いつも気さくな先輩の表情が、硬く緊張して真面目なものになった。
先輩の後から宿舎に入ってきたのは、威厳に満ちたマントのような外套を纏っている、洗練された雰囲気の青年だった。
* * *
応用学校の卒業も近い、15,6歳の者らが談話室に集められた。
先輩と一緒に来たのは、なんと、新興貴族の男爵様だった。
マルトガルズは征服によって領地を拡大している国だ。征服地に封じられて最近新たに爵位を得た家も少なくないのだ。彼はそんな新興貴族の一人だった。
「君たちを、我らが『天佑弁論会』に招待したい」
男爵は、意外なくらいにこやかに、そう切り出した。
「まあ、難しいことじゃない。社会問題や、国のあるべき姿について語り合う勉強会で弁論会、というところだね。
この集まりは大学から支援を受けている。100人近い会員の多くは大学生だが、私のような卒業生も出入りしているし……将来有望な応用学校生たちも所属しているんだ」
単なる弁論部への誘いではないと言うことは、全員言われるまでもなく承知していた。
大学生と知り合う機会、というだけでとんでもない幸運だ。上流階級の子弟や、官吏として将来国を背負う者たちと親交を深められる。
自らが大学へ行こうとしている者もここに居るわけだが、その助けにもなるだろう。まず何より、有力な卒業生に気に入られれば推薦を貰える場合もある。さすれば大学でも国からの支援を受けられるのだ。でなくても、頼れる身内が居ない幼年宿舎の少年少女にとって、困ったときに頼れる仲間が同じ大学に居れば大変心強い。
その機会を提供してくれるというのだ。
ここに居る先輩の……同じ幼年宿舎で暮らしていた、皆の『兄貴』の伝手で。
「君たちさえよければ……」
「俺、参加したいです!」
エフレインは誰よりも早く、力強く手を挙げた。
成り上がる好機があれば、それを全て掴むしかないのだとエフレインは思い定めていた。特に自分のような、国の慈悲に縋って生きる、寄る辺も無き少年には。
声を上げてしまってから、エフレインは、がっつきすぎて悪印象を与えるのではないかと危惧した。
しかし男爵は、高貴な余裕を感じる含み笑いを見せて、それから国章の刻まれた羊皮紙を取り出した。
「よろしい。ならば誓いの血判を、ここに」
「血判?」
「ああ。親指をナイフで切って血の印を押すんだ。
マルトガルズが王国だった頃から伝わる、古式ゆかしい作法だ。
戦場で血を流す覚悟と同じだけの決意を示す。真剣さを証明する儀式だよ」
黄金の柄を持つナイフが、エフレインに手渡された。
戦士や騎士が誓いの儀式として、血を流したり獣の血を啜ったりするのは、古今東西に聞く。エフレインでもその手の話をどこかで聞いた覚えがあるくらいだから。
だが自分が一生のうちにそんなことをするとは露ほども思っていなかったので、その刃を見てエフレインは怯んだ。
別に、ちょっと指を切るくらい怖くない。怖いのはただ……
「何も怖くない」
成り行きを見守っていた先輩が、力強く言った。
「進んだ先には、俺が居る」
エフレインの迷いが断ち切れた。
ナイフの刃を親指の腹に滑らせると、流れ出た血が赤く盛り上がる。
痛いと言うよりもむず痒かった。
疼く指先を羊皮紙に叩き付けると、そこには、赤い印が刻まれた。
「おめでとう。これで君も、私と肩を並べて祖国のために戦う…………騎士だ」
親しい友にそうするように、男爵はエフレインの肩を抱いた。
身体が爆発しそうなほどの昂揚をエフレインは感じていた。己は勇気を示して試練を乗り越え、特別な世界へ迎え入れられたのだと感じられた。
「君の名は?」
「エ、エフレインです!」
「そうか。
さあ! エフレインに続く者はあるか!?」
「俺も!」
「俺もです!」
次々に手が上がって、たちまち順番待ちの列ができた。
一人目がやってしまえば、後に続く者は怖くない。血判が増えるにつれて場の空気は和やかになり、未踏の地への冒険はピクニックと化した。
だが、それでも動かない者はあった。
――■■■■■……?
エフレインの傍らの少年は、試験問題を睨むような苦い顔でじっと身を硬くしていた。
* * *
「なあ、おい、■■■■■!」
夕食を終えて食堂を出て行く■■■■■を追いかけ、エフレインは廊下の角を一つ曲がったところで追いついて呼び止めた。
エフレインにとって■■■■■は、友人とまでは言えない程度の仲だった。
そして■■■■■にとってのエフレインも、そうだった。
しかし■■■■■は、あまり人付き合いに積極的ではなく、もし彼に最も親しい友人は誰か聞いたなら、エフレインの名を挙げるか、友人はいないと答えただろう。
だからエフレインは、いつも少し、■■■■■を気に掛けていた。
「どうしてお前は血判をつかなかったんだ?
新興貴族と知り合いになれば、成り上がりの道が拓けるかも知れないんだぞ」
■■■■■は変な奴だった。
エフレインは彼を、蜃気楼みたいな奴だと思っていた。
目を離したら死んでしまいそうな儚さがあって。
集められた者の多くが、喜び勇んで血判をついた。
だが■■■■■は、そうしなかった。
そんな彼の選択は、生きるか死ぬかで言うなら死ぬ方へ一歩踏み出したように思われて、エフレインはずっと胸に何かつかえた気分だった。
「信用できないと思ったから……」
「貴族が信用できないか?
家族を殺した帝国の手先だから?」
控えめな■■■■■の言葉にエフレインは必死で言い返した。
幼年宿舎の中にも、そういう反帝国的な思想を持つ者が居ることは知っていた。
特に上の世代の者は、家族が死ぬのを目の当たりにした者も居るから、感情的になるのは仕方ないとエフレインも思っている。
だが自分たちは、そんなしがらみから解放されているはずではないか。
ましてそのせいで、人生の岐路で判断を誤るなんてあってはならないことだ。
「■■■■■、よく考えろよ!
あれは戦いを終わらせる一番の近道、秩序を作るため最小限の犠牲だった!
死んだのが偶然、俺たちの家族だったのは不幸だが、帝国は……」
「顔すら覚える前に死んだ親兄弟や親戚に、特にどうこういう感情は持ってない。
責任を取って俺たちに飯を食わせ、学校に通わせるなら、むしろ帝国に感謝してるくらいだ」
「じゃあどうして!」
枕を殴っているかのように、手応えが無い。
苛立ちすら覚えた。■■■■■のためにここまで言っているのに、何も考えずに台無しにする気なのかと。
だが。
「これじゃ詐欺だよ。
俺は……そういうの、嫌だから」
■■■■■は、それだけ言った。
自己を主張することの少なかった■■■■■が、珍しく、彼にしては強い言葉を使った。
エフレインは二の句が継げなかった。
■■■■■の言葉を天秤に乗せて、反対側にどれだけ自分の言葉を積み上げても、決して釣り合わないと確信してしまったから。
どうして■■■■■はそう思ったのか。どうしてそれほど重い言葉に思えたのか。打ちのめされたエフレインは探ろうという気にすらなれなかった。
その後のエフレインは徐々に■■■■■と疎遠になった。
応用学校を出て大学に進んでからは連絡も取っておらず、■■■■■がどこで何をしているのかも分からない。
しかし、あの日のことをエフレインはずっと覚えていた。
お待たせ致しました。第四部も応援よろしくお願いします。







