≪3-10≫ 薙ぎ祓う焔
じゅるり。ずるり。
腐肉が擦れあい、腐れた肉汁を滴らせ、おぞましき大蛇は蠢く。
『寄越……せ』
身をたわめていた蛇が一気に噛みつくのと同じように、ハプシャルは大口を開け、ルシェラに飛びかかった。
地面を抉りながらルシェラを丸呑みにするべく、大蛇の顎門が迫る。
ハプシャルの顎門の奥にあるものは……虚無の闇だ。
呑まれた先にあるのは、『消化』と言うよりも更に単純な、『分解』という結末である。
「ルシェラ!?」
イヴァーの叫び。
ルシェラの背後で顎門が閉じて、ルシェラは闇に包まれた。
直後、ルシェラは爆発した。
旋回する炎の爆圧によって内からハプシャルの腹を焼き破った。
焦げた肉のニオイが漂い、灰が散る。
奇妙なことに次の瞬間、ハプシャルは全く元通りの姿で、ルシェラに飛びかかる前と同じ場所にとぐろを巻いていた。
……物理的に考えれば確かに奇妙。しかしここで物理法則は意味を成さないのだ。
今ハプシャルは、ルシェラを取り込もうとした。
だが力及ばず失敗した。
牽制にしても舐めた一撃だったと言えよう。
「卑小なり」
『丸呑みヲ免れ……タ程度、で……図に、乗ルナ……小娘』
肉の大蛇をルシェラが睨め付けると、眼窩の紅い光が燃えるように輝いた。
『なれバ骨……ヲ砕いて、呑ム、までよ。
コのハプシャル、ヲ……卑小と侮っタ、罪……思イ知れ』
周囲の空気が鋭さを増した。
研ぎ澄ました鉄の茨のように、それは冷たくて重かった。
『転生セヨ……!』
ハプシャルがぶるんと総身をふるうと、腐れた肉片が舞い飛んだ。
ぼたぼたと地に落ちた肉片は、瞬く間に盛り上がり、形を為す。
あるものは、右腕が剥き出しの骨の槍となった肉人形。
あるものは、魔物。バンデッドリンクスもおり、レギオンウルフもおり。
もしくは人の形にも魔物の形にもなり損ねたような、半人半獣の異形の命……
その軍勢は瞬く間に、辺りを埋め尽くすほどの数となった。
永遠をもたらす輪廻の結び目。
それこそがハプシャルの権能だった。
力を拡大し、信徒を増やし、その信仰があまねく地に満ちていけば、やがて全てはハプシャルより生まれハプシャルに還る事となっただろう。
冒涜的な軍勢に対峙するは、ルシェラ一人。
地に手をかざせば、ハプシャルの支配を食い破り、溶岩が盛り上がって即座に冷え固まり、剣と成る。
『【絞圧】!』
「くっ!?」
その剣がへし折れた。
いつの間にか、結果だけがあった。
ルシェラは鎖で縛られていた。
種々の鉱石を継ぎ合わせた、岩の蛇の如き鎖が、何本もルシェラに巻き付いて拘束し、地に縛り付けていた。
その力は激烈だ。かの大蛇が全力で巻き付いて締め上げるのと、おそらく同じだけの圧力。
ただの拘束ではなく、魂すら絞め潰す必殺の攻撃だ。
さらにそこへ異形の軍勢が押し寄せた。
個々の意思など持ち合わせていない様子で、一つの流れのように向かって来る。群体は地を這う蛇にも似ていた。
攻撃は単純、そして卑小。だがそれが千も二千も積み重なればどうなるか。
ルシェラは自らを燃やした。
炎の塊となったルシェラに、魔物が食らいつき、肉の人形が躍りかかる。
その身を焼かれながらも怯まず、攻撃を仕掛け、そして燃え尽きる。
羽虫の如く次々纏わり付いてくるモノらが、やがて小山のようになる。
「……このっ!」
ルシェラは火力を上げた。
取り付いていたモノたちが、燃えながら吹き飛んで壊れ落ち、ルシェラは少なくとも窒息は免れた。
だが、尚もハプシャルの兵は数限りなく、ルシェラを包囲していた。
己の身に取り込んだ輪廻の数こそ、ハプシャルの力なのだ。
ルシェラは全身に無数の小さな傷を負っており、そこから滲んだ血が赤い湯気となって蒸発していた。
『ここ……輪廻の楽園デは……容易く、ハ死ねヌ……ぞ。
七度死ヌ程の傷、ヲ付け……最期は呑ミ……喰らウ』
灰になったかと思われたモノたちが、焼け残った血肉が、ズルズルと地を流れてハプシャルに吸い込まれていく。
腐肉の大蛇の肉体が、ボコボコと泡立ち脈打った。
死したモノがハプシャルに還っているのだ。それはハプシャルが望めば、また生を得る。
永遠をもたらす輪廻の蛇による、永遠の戦い、永遠の責め苦。
それだけだった。
「ふ、ふふ……」
『何故……笑ウ……』
血まみれで……本当に血が流れているのかは定かでないが少なくともルシェラは己の状態をそう認識した……ルシェラは笑った。笑えてきた。
これはまさしく、蛇が獲物を呑み込む前に、締め上げて骨を砕くような行為。
ルシェラという存在に綻びを生みだし、丸呑みの端緒にせんと、ハプシャルは攻撃を仕掛けているのだ。
だが。
「この圧力が精一杯の神の力かと思うと、笑えてきた。明日の夜明けまでだって耐えられる」
『な、ヌ……』
「竜王が繰る始原の炎よりも……遥かに緩い!」
概念の圧力をルシェラは知っている。
ハプシャルの攻撃以外に、ただ一つだけ。
その差は歴然としていた。
鎖は既に、ルシェラに触れている部分から溶け始め、弛んでいた。
ルシェラはグルグル巻きの岩鎖から片腕を抜き出し、己を拘束する岩鎖の一本を鷲づかみにする。
鎖はたちまち赤熱して蕩け、剣を模った。
溶岩を固めた石ですらない、溶岩そのもの。紅き熱の滾る剣として。
ルシェラが剣を振ると、炎が吹き抜けた。
熱風が腐臭を灼き切って、火の粉と呼ぶには大きすぎる紅い蝶が乱れ飛ぶ。
ハプシャルの軍勢はただ一撃で大半を消し炭にされ、その奥のハプシャルさえ、黒く炭化した深手を負っていた。
『ア、あア…………我が肉……力……が…………』
焦げた煙を立てながら、ハプシャルが苦悶の叫び声を上げた。
それに呼応するように再度、岩の鎖がルシェラを襲う。
今度は鎖が巻き付きさえしなかった。
ルシェラが一睨みするだけでそれは焼き溶かされ、赤熱した水たまりとなってルシェラの足下に散らばった。
『何故……何故通じヌ……!』
「知らなかったか、墜ちたるカミよ。
大地はドラゴンのもの。地に墜ちたカミはドラゴンに勝てない」
ハプシャルがルシェラを破るつもりなら、物理世界で戦う方がまだ勝ち目があった。
対処しきれないだけの攻撃を仕掛ければ、少なくとも肉体を物理的に倒す事だけは可能だからだ。
ここは世界の舞台裏。概念の世界。法則と概念強度がぶつかり合い、ただただ原則論が全てを裁く場所。
『地に墜ちたカミはドラゴンに勝てない』。それが世界の法則である以上、法則を超える結果が生まれることはあり得ない。
……そう、ルシェラは自然に理解していた。
「容易くは死ねない、と言ったか」
ルシェラはハプシャルに剣を向ける。
炎と溶岩が渦巻いていた。それがゆるゆる形を成して、それもまた剣と。
まるで炎の翼のように、数えきれぬほどの剣が生み出され、ルシェラに追従した。
音を超える疾駆。
そして跳躍。
とぐろを巻く腐肉の上に焼け焦げた足形を残し、ルシェラはハプシャルの顔に飛びかかった。
そして、天より地への縦一閃。
三角形に突き出た大蛇の鼻先を、炎の剣でルシェラは断ち切った。
そこから更に一呼吸。
物理的にはあり得ぬ早業!
ルシェラは炎の螺旋となった。
炎の剣は腐肉の大蛇に燃えながら突き立つ。次々と剣を使い捨てて持ち替えながら、ルシェラはハプシャルの全身を満遍なく切り刻み、駆け下りた。
「ならば死ねるまで苦しめ」
『アアあアああああアあアアアアあアア!!』
無明の地下世界に太陽の如き炎が顕現した。
百を超える炎の剣を全身に突き立てられたハプシャルは、もはやただの巨大な焚き付けだ。
腐汁は瞬時に蒸発し、肉と骨は灰に変じていく。
燃え落ちるハプシャルの肉体から、ボロボロと零れ落ちたものが、燃える人や魔物となる。
それらはルシェラに襲いかかることすらせず、逃げる先も無いのに逃げようとする。
ルシェラは駆けた。
駆けて斬った。斬って燃やした。
処理だ。戦いですらない処理、掃除のようなものだ。
肉の一片であろうと残してはならぬ。
大地に穢れを残してはならぬ。
滅せよ。滅せよ。滅せよ。滅せよ。
「馬鹿野郎ルシェラてめえ何してやがる!!」
それは、場違いな騒音に思われた。
一瞬遅れてルシェラは、イヴァーの声だと気が付いた。
「あ…………え?」
夢から醒めたように思考が鮮明になる。
もはや腐肉の大蛇は跡形も無く灰に帰して、ルシェラは燃え爛れる剣を、小さく新鮮な肉の塊に向けていた。
震えながら血の涙を流すそれは、いくつもの顔で、間違い無く恐怖の表情を浮かべていた。
恐るべきハプシャルは既に存在しない。だとしたら、それが恐れるのは何か。
この肉塊は排除すべき穢れであるという、本能的な確信。
同時に、ルシェラが人として積み上げてきた価値観からすれば、救い憐れむべき相手だ。
まるで自分がふたつ存在するかのようで、相反する思考がぶつかり合い、ルシェラは目眩を覚えた。
「わ、わたし……わたしは……」
炎の剣がルシェラの手から滑り落ちる。
膝を突いたルシェラは、頭を抱えて蹲った。







