≪2-3≫ 方舟
『よいしょっ!』
カファルが全力で水中より引き上げたのは、巨大なドラゴンより更に一回り大きい、何かだった。
滑らかすぎる黒い箱、と言うべきだろうか。水底にすっぽり埋まっていたものがシーサーペントの大暴れで掘り起こされたようだが、その表面は研がれたばかりのナイフのように美しい。カファルが鋭い爪で掴んでも擦り傷一つ付かず、付着していた泥汚れすらも撫でるだけで落ちるほどだった。
『……何かしら、これ』
『分かんないけど……古代人が作った船か、建物か……
なんにしても古代遺物、かな』
『……人竜戦争以前の人族が作ったもの、と言う事?』
『うん。もしくは戦争中のもの』
奇妙で巨大な四角形を見上げ、ルシェラは唖然とするばかり。
こういうものが存在すると知ってはいたけれど、さすがに見るのは初めてだ。
1000年ほど前、増えすぎた人族とドラゴンが地上の支配を賭けて戦った人竜戦争。
その戦いは人竜双方の数を、戦う必要が無くなるまで減らしたが、同時に、かつてドラゴンと共存していた頃の高度人族文明をも崩壊させた。
古代遺物や、そう疑われている物品を発見した場合、冒険者はそれをギルドに報告するよう義務づけられている。
第一の理由は、その多くが有用な技術を秘めているから。人竜が共存して繁栄した古代人族文明の技術は現代の人族を凌駕し、未だ再現できぬ失われた技術が数多く存在している。
第二の理由は……それが、あまりにも危険だから。現代の技術と常識では対処不可能な事故、あるいは災害が発生する事もあり得る。ここは魔境のど真ん中だから、人が偶然ここに来てしまうとか、人里に影響を及ぼすことは考えがたいが、報告はしておかねばなるまい。
「これ、もう一回埋めておいた方がいいかな?
このままだと流されて移動しちゃいそうだし……」
空を見上げて、ルシェラは悩む。
今は良い天気だが、この魔境では大雨洪水が一日に十回は襲ってくる。この四角い物体は水底にすっぽり埋まっていたから今までここにあったけれど、適当にその辺に置いておいたらすぐにどこかへ行ってしまうだろう。水に浮かぶ程度には浮力のある物体なのだし。
ルシェラは巨大な四角形の裏に回り込んでみたが、ただ四角いだけだ。こんな巨大なものが浮かぶからには船ではないかと思えたが、櫂も碇も見当たらない。
どうしたものかと眺めていると、ただ真っ黒だった四角形の表面の一点が、青く光った。
『ようこそ Guest 様
532786491分前 に 設定された
ジェイミー・ハッカソン主任研究員 の アポイントメントにより
あなたの立ち入りを許可します
内部への転送シーケンスを 開始 します
そのまましばらく お待ちください』
『……え?』
いきなり、それは喋った。
古風な響きの人間語で。
一切の感情を感じさせない、ただ音として聞きやすいだけの、女の声で。
景色が歪んだ。
ルシェラの見える世界は、麺棒でのばされた生地みたいになって、一瞬だけルシェラの身体から重さが消えた。
まずルシェラは、緑の香りを感じた。
足に感じるのは、柔らかな草。
命を祝福するような、鮮烈な光。
そこはまるで穏やかな農村の一部のような場所だった。
背の低い草が生い茂る向こうに、朽ちて屋根まで緑色になった木造家屋が見えた。
日差しは濃厚に黒い影をルシェラの足下に描き出していた。
だが、家の向こうに見えているのは森でも山でもなく、天までそびえる白い壁だった。
見上げれば、そこに太陽は無く、天井に埋め込まれた照明器が輝いている。
詰まるところ、この場所は、巨大な部屋の中に作られた箱庭だった。
『ここって……』
「あの建造物の、中……?」
ルシェラの隣にはカファルが居た。
彼女が後肢で立ち上がり、背伸びをしてようやく鼻先が届くくらいに天井は高い。
振り向けばそこは硝子のように透明だが硝子ではない何かによって覗き窓ができていて、水に満ちた魔境の景色が見えた。
『うわ、すごい。外から中は見えなかったのに、中から外は見える。
それに、この場所……絶対に外から見たよりも広い』
巨大な四角形は、縦も横もカファルより大きかったが、せいぜい一回り大きいくらいだったはず。
しかしこの、放棄された農場みたいな雰囲気の箱庭は、カファルが十匹並んで眠れそうなくらい広いのだ。
アイテムの亜空間収納とは違う、人でも入れる空間拡張。
現代には存在しない、あるいは失伝した技術だ。
その技術で、あの謎の四角い建造物の中に、こんな箱庭を作ったらしい。
誰が何のためにこんなものを作ったのかは、まるで分からないが。
「……ってちょっと待って。出口は?」
あまりの光景に呆然となっていたルシェラは、はっと気付く。
どこが入り口か分からない建物の中に吸い込まれてしまったらしいわけだが、中から見ても出口が分からない。普通なら入り口は出口を兼務していて然るべきだと思うのだが、ここにあるのは壁と覗き窓だけだ。
試しにルシェラは、透明な覗き窓を軽く叩いてみる。
見た目は硝子窓と変わらないくらい薄そうなのに、感触は絶望的なくらい硬かった。
カファルの爪でも街壁が傷つかなかったくらいなので予想はしていたけれど、これをぶち破るのは難しそうだ。
つまりルシェラは、閉じ込められていた。
ダンジョン内で出会う罠の中でも、特に悪質なものの一つが『転移罠』だ。
魔物の巣のど真ん中へ飛ばすくらいならまだしも、衰弱死するまで出口の無い檻の中へ閉じ込めたり、石壁の中に封じられて窒息させたり、冒険者粉砕用グラインダーに放り込んだりもできる。
幸い即死するような状況ではなかったが、今のルシェラは、テレポーターに引っかかったのと同じような状況だった。
外と連絡を取るのは……無理そうだ。ここは魔境のど真ん中。どこかの通信局で拾ってくれと無差別通信を発しても届きはすまい。
助けを待つ……のも厳しい。帰りが遅ければ心配はしてくれるだろうが、広い魔境のどこに居るか分からないし、分かってもここまで救助は来られないだろうし、奇跡的に辿り着けたとしても一緒に閉じ込められるだけではないだろうか。
となれば自力脱出するしかないが、出口や脱出手段はあるのか。……ルシェラとカファルが全力で暴れれば、もしかしたら穴を開けて出られるかも知れないが、まず、そんなことをしても大丈夫な場所なのかどうか確認すべきだろう。古代遺物は、近づくだけでどんなデタラメが発生するか分からないのだと今し方、身を以て学んだばかりだった。
『ルシェラ。そこの石、何か書いてあるわ』
『石?』
周囲を見回していたカファルが、首をしならせ地面をつつく。
乱雑に生える草の中に埋もれるように、石版が置いてあった。地面(床?)を見下ろすカファルの視点だとよく見えたようだ。
平べったいタイルみたいな形をした灰色の石の表面に、釘か何かで無理やり石を削ったような不格好な文字が刻まれていた。
最初に立っていた場所から二、三歩前に踏み出せば、足に引っかかってルシェラも気が付いていただろう。もし、この置き方に意図があるとするのなら、『読め』と言わんばかりの配置だ。
かがみ込んで、ルシェラはその文字を読む。
古風な単語が使われているが意味は理解できるし、文字そのものはルシェラが知る人間語と同じだ。
『古代語じゃないや。初期の人間共通語だ。
……そしたら、ここは人竜戦争中の建物かな』
『なんて書いてあるの?』
『えっと……た・す・け……助けてください?』
【この船を見つけてくれたあなたへ。
お母さんを助けてください。】
※532786491分前⇒1012年くらい前です。







