≪2-2≫ 竜の狩り場
翌日。
水の流れによって斬り裂かれた大地の上を、朝からカファルは飛んでいた。
殺人的な豪雨が四六時中降ってくる土地ではあるが、その狭間に差し込む光は、流れる水も、それに洗われる島々も、全てを宝石のように輝かせている。
それは、人の住む土地とは根本的に何かが違う、荒々しき力の輝きだった。
『そう言えば、ここで狩りをしても怒られないの?
シルニル海の群れの狩り場だよね?
ママが結婚した相手の群れだから?』
ふと、ルシェラは疑問を口にする。ドラゴンの養女になったものの、ルシェラはまだドラゴンたちの社会について知らぬ事が多い。
ここはセトゥレウの東南、シルニル海の近く。
既に海のような光景が広がっているが、ここは言うなれば湖、いや川、あるいは巨大な水たまりか……
ともあれここはまだ海ではないのだ。もっと南へ行けば本物の海が、シルニル海がある。そしてシルニル海と沿岸はブルードラゴンたちの縄張りなのだ。
人の住まぬ場所は概ね、ドラゴンたちの狩り場だ。
群れの縄張りと隣接した土地なら、それは最も重要な狩り場に違いない。となれば権利を主張しに来ないか不安になるというもの。
人の社会であれば、土地が生み出すものの権利は厳格に管理される。冒険者が森の中で野営のために薪を拾うのさえ、時にトラブルに発展するのだから。
『私でも、シルニルの群れの縄張りで勝手に狩りをしたら怒られるわ。
でも、ここはただの狩り場であって、縄張りじゃないから大丈夫。竜気もうっすら流れてくるだけだから『変異体』だって居ないわ。
独占したいなら縄張りにするはずよ。そうしていないという事は、縄張りとして管理しきれないと判断したか、意図的に緩衝地帯としているの』
『なるほどぉ』
人の基準からすれば、呑気というか、牧歌的というか。
だがそれもまた、ドラゴンがドラゴンである故なのか。
数が少ないからとか、必要以上に狩りをしても得るものが無いからとか、そういう事情で放任していても問題は起こらないのかも知れない。
水平姿勢で飛ぶカファルのたてがみに掴まって、その背中に乗っているルシェラは、輝く水面を見下ろして見回す。
風がルシェラの髪を燃え立つ炎のように巻き上げていた。
『四時の方角、変な波が立ってる』
『四時ってどっち?』
『……右側ちょっと後方』
ルシェラの言葉を聞いてカファルは斜めに身体を傾け、飛行の方向を変えた。
行く手の水面には奇妙な波が立ち、鳥(あるいは鳥の魔物)が群れている。
何かが水中に居て、魚の群れを追い回しているときなど、こうして鳥が集まっておこぼれを狙うのだとルシェラは聞いた覚えがあった。
『……居るわね』
風を振るわすようなカファルの嘶きは、明白な意味を持つ言葉としてルシェラには聞こえていた。
近づくにつれ、ルシェラの目でもそれが分かるようになった。
水の色が違う……否、そこに影が見える。
ドラゴンと背比べできそうな何かが、ぐるり、ぐるりと泳いでいた。掻き回された水は不穏に泡立ち、水面の輝きは波打つ。
『よく掴まって!』
カファルが言うなり、グンと強く、ルシェラの身体に慣性が掛かった。
翼を折りたたむかのように一つ羽ばたいて、カファルは加速。
重力に導かれてみるみる高度を下げて行く。そして。
「オオオオオオオ!!」
押し寄せる竜気と巨体に、獲物たちが驚く暇もあらばこそ。
周囲の景色が歪んで見えるほどの熱と光を持つ、貫く閃光のようなブレスがカファルの口から放たれて、水面に突き刺さった。
直後、爆発。
水面は抉られて大穴となり、そこにすぐ水が流れ込んで大波となった。
「ひゃあ、豪快」
『……失敗よ。今ので動けなくするつもりだったのに』
カファルは羽ばたき、水面を撫でるような軌道で再び舞い上がる。
吹き上がる水蒸気の中、衝撃だけで絶命した水鳥や、炭化した魚などが浮かんでいる。
しかし、それらはドラゴンがわざわざ狙うような獲物では無かった。
水面下の巨影は、未だ健在。
カファルから逃れるべく、水面下を滑るように泳いで離れていく。
『浅瀬に追い込むわ。
ルシェラ、あなたのやり方で仕留めてみて』
『わかった!』
飛翔し、カファルは巨影を追う。
大きく吸い込んだ息をカファルが小分けに吐き出すと、その度に砲弾のような火の玉が飛んで、飛沫と水蒸気を巻き上げた。
水面下の巨影の鼻先を狙う波状攻撃によって、逃走の道筋は蛇行していく。
あの巨体では狭い水路になど逃げられない。
さらにこの辺りは元より、海よりは浅い。巨大な水棲魔物が暮らせる程度の広さはあれど、ドラゴンのブレスも届かぬほどの深みはそうそう無いのだ。
逃げ惑ううち、巨影はやがて、入り江のような地形の浅瀬へと追い立てられていた。
『行ってくる!』
カファルの背中を蹴ってルシェラは飛んだ。
浮遊感に包まれ、遠く輝いていた水面がみるみる迫る。
別にこのまま水面に叩き付けられても平気だという気はしたが、流石にそれは怖いので、ルシェラは水を呼んだ。
その名によってブルードラゴンの娘としての因子を持つルシェラは、水の力を呼び起こせる。
水の力に満ち、竜命錫の軛も無いこの魔境で、それは呼吸のように容易かった。
虚空より流れ落ちる水が二重の螺旋を描き、ルシェラの滑り降りる道となった。
空中にできた水の道に両手を引っかけて滑走し、落下の軌道を曲げて、浅瀬を包む陸地の上にルシェラは一旦降り立った。
浅瀬の出口にはカファルが陣取り、空から睨みを利かせている。
泳ぎ回る巨影は、ブレスの狙いを付けられないようにと考えているのか、ぐねぐねと旋回していた。水上に突き出し水面を裂く巨大なヒレだけでも、間近に見ると思っていた以上に大きい。
――この場所なら水の力がフルに使えるけど、相手も水に適応してるから、わたしの力で押し切れるかは分からない。と、なると……
ルシェラは水ではなく、火の因子に呼びかけた。
水の気配に満ちた地で、しかし僅かでもいい、炎あれと。
血液が燃え上がるような感覚。
世界に伝播する力。
水草の根で維持された島が、赤熱する。ブツブツと、じんましんのように、まばらに。
そして巣穴から顔を出すウサギのように、地面を蕩かして、僅かに溶岩が盛り上がった。
一つ、二つ……全部で九つ。
すぐにそれは渦巻く水によって冷却され、炎を秘めた溶岩石の剣となる。
ルシェラは水上に一歩踏み出した。
その足は波紋を立てて、水の上に歩みを刻む。
ルシェラの周りで水が渦巻いた。宙に浮かんで竜巻のように。
溶岩石の剣はその中で踊り、ルシェラに追従した。水を腕として、ルシェラは九本の剣を構えた。
「ジュルルルウウウウ!」
ルシェラの行く手で、水が盛り上がり、そして割れた。
カラフルなヒレに彩られた、ドラゴンのような頭部が鎌首をもたげる。その鱗は水に溶け入る蒼色。
大海蛇。この大きさなら上位分類である大海蛇王と呼んでいいだろう。
劣種竜であるシーサーペントは、これでいて人間程度には賢い。
気配だけでルシェラの脅威を認識し、さらに空を飛んでいるのではなく目の前に出てきたのだから倒しようがあると判断し、即座に襲いかかってきたのだ。
船の横っ腹など簡単に噛み裂けそうな、鋭い牙を備えた力強い大顎が、迫る。シーサーペントの代名詞はブルードラゴンの如き水流ブレスだが、水の魔境に生きるシーサーペントにしてみれば、身の回りにいる獲物がみんな水に適応しているので、牙こそ必殺の武器なのだろう。
その口に。
ルシェラの操る水流から溶岩石の剣が一本弾き出され、狙い違わず、海竜の細長い舌を下顎に縫い留めた。
「ギゴオオオオオ! キアアアアアアア!!」
大抵の生き物にとって口の中は、神経が集中して感覚が鋭敏な場所。
それはシーサーペントにとっても例外では無かったらしく、血混じりの唾液を撒き散らしながら怯んで頭を逸らし、水中に逃げ込んだ。
巨大な頭部が浅瀬の底をガリガリと削る音が水上まで聞こえ、水が濁る。
同時に、そいつはぐるりと身体を転回させ、鞭のようにしならせて巨大な下半身と尾ビレをルシェラ目がけて叩き付ける。
大波と共に迫る巨大質量を見て、ルシェラは己を水で打ち上げ、飛び跳ねるよりも鋭く跳躍。
自身を取り巻く水流の回転速度を高め、眼下を薙ぐ巨体目がけ、勢いそのままに射出する。
堅く滑らかな鱗をひしゃげさせて、溶岩石の剣がシーサーペントの身体に突き刺さった。つるべ打ちで八本、昆虫の標本を留めるピンみたいに、背ビレの脇に並んで突き立つ。
だがその剣はせいぜい、ルシェラが持って振るえる程度の大きさ。
巨大な海蛇にとっては急所に当たらない限り致命傷たり得ない。激痛に悶えながらも、シーサーペントは再び、ルシェラに迫る。
既に溶岩石の剣は矢として打ち切っている。これ以上の反撃は無い……とでも思ったのだろうか。
「燃えちゃえっ!」
炎の力を封入されていた溶岩石の剣が、一斉に溶融。
貫かれた鱗の下へ、熱を流し込んだ。
「アアアアアアアアア!!」
シーサーペントが痙攣して大きく水面から跳ね上がり、鼓膜が破れそうな程の悲鳴を上げた。
肉と脂を焦がす煙が立って、焼き魚の美味しそうな匂いがルシェラの鼻に届く。
謂わば、遠隔ファイアブレス。
ルシェラの炎によって生まれた溶岩石の剣は、一度は岩の形になろうとも、炎を秘めているのだ。
身体を内側から炙られたシーサーペントは、しばし、メチャクチャに暴れ回った。
デタラメに吐き出されたタイダルブレスが水面に打ち込まれて波になった。
ルシェラが陸に上がっても、それすら見えていない様子で暴れ狂い、しばらくしてやっと力尽き、横腹を晒して浮かび、数度震えて動かなくなった。
「……あれ?」
そしてルシェラは奇妙なものに気が付いた。
『よくやったわ、ルシェラ』
『待ってママ、何かある!』
ぐったりと、半ばで焼けちぎれた舌を垂らして浮かぶ、シーサーペントの頭部。
その枕のように、何か滑らかで四角い人工的な物体が、未だ波打つ水上に角を出していた。