189.エキドナ、ついに動く
その日、【彼女】は夢を見ていた。
懐かしい、まだ子供だった頃の出来事だ。
『【アンリ】。どこだい? アンリ?』
そこは世界樹の根元。
黒髪の青年、ミクトランが、彼女の名前を呼びながら歩く。
『アンリ~?』
『…………』
彼女……アンリは木の根元から、ひょっこりと顔を出す。
『ああ、いたいた。アンリ、どこへいったのかと心配したよ?』
ミクトランは微笑むと、アンリに近づいてくる。
『…………』
心配かけてごめんなさい。
そう言おうとした。
だが上手くしゃべれなかった。
大好きな彼を前にして、緊張していたからだ。
『さぁ、帰ろう。エキドナの元に』
知らず、アンリの表情が暗くなる。
あの女の元へなんて、帰りたくなかった。
だって帰ってしまったら、二人きりの時間が終わってしまうではないか。
『どうしたんだい?』
アンリはぶんぶんと首を横に振った。
いやだ、帰りたくない。
もう少し、あなたと二人きりが良いの……。
そう素直にいえたらどれだけ良いか。
だが幼く、あがり症な彼女では、愛しい彼と上手におしゃべりできなかった。
『わかった。護衛をさぼって遊びに行ったことを、エキドナに怒られると思っているんだね?』
別にサボったわけでも、遊びに行ったわけでもなかった。
ただ、こうして、エキドナのそばを離れると。
アンリを探しに、ミクトランがやってくるから。
そうすれば、二人きりになれるから。
だからアンリはよく、守り手であるにも関わらず、世界樹のそばを離れた。
ミクトランは微笑むと、アンリのそばまでやってきて、しゃがみ込む。
『大丈夫。エキドナは怒ってないさ。気にするようなら私も一緒に謝ってあげよう』
と、そのときである。
『ミクトラン? アンリはいたかしらぁ?』
エキドナが、二人の元へとやってくる。
『ああ、ここにいたよ』
ミクトランがエキドナに笑みを向ける。
やってきたのは、絶世の美女だ。
流れるような艶やかな白髪。
背が高く、手足はすらりとしている。
それでいて胸と尻にはたっぷりと肉がついていた。
顔は驚くほど小さく、逆に目は恐ろしく大きい。
エキドナは、精霊の名前に恥じなぬ美貌を持っていた。
……一方で、アンリは自分を見やる。
ちびで、ガリガリで、愛想笑いの一つもできやしない。
なんて自分は醜悪なのだろう。
なんで、自分は精霊じゃないのだろう。
『アンリ。勝手にいなくなっちゃ駄目じゃない。心配したのよ?』
エキドナがしゃがみ込んで、アンリの頭をなでる。
間近で見ると、精霊の美しさは嫌でも思い知らされる。
シミ一つ無い肌。
ふわりと鼻孔をつく甘い香り。
……ずるい。
こんなに美しいのだから、彼がこの女に惚れるのは当然だ。
……妬ましい。
エキドナの髪が、胸が、瞳が、存在そのものが……羨ましい。
『エキドナ。アンリを怒らないでおくれ。彼女は遊びたい年頃なんだよ』
アンリは泣きたくなった。
どうして、自分は子供なのだろう。
大好きな彼が自分を見る目は、子供を見る保護者の目だ。
大好きな人に、女として認識されない。
それが、苦しくて悔しくて、仕方が無かった。
『大丈夫、怒ってないわ。さぁ、三人で帰りましょう?』
エキドナはアンリの手を握る。
そして逆の手でミクトランの手をつないで、三人で歩き出す。
間にエキドナが居るせいで、愛しい彼と手がつなげなかった。
……死ねば良いのに。
何度目になるかわからない呪詛を、アンリは心の中でつぶやく。
この女がいなければ、ミクトランは自分のものなのに。
だがミクトランはエキドナの守り手だ。
離れることはありえない。
エキドナが居る限り、アンリは彼の心を自分のものにできない。
では、どうしたら、彼を自分のものにできるだろう。
……ああ、簡単ではないか。
アンリはエキドナを見上げる。
遠くない未来、彼の腕に抱かれている自分を夢想して、邪悪に笑うのだった。
☆
鑑定士アインが、最後の四天王アザトースを撃破した、その日の夜。
「……忌々しい夢ね」
元・魔界の魔王城。
謁見の間として作った広間の玉座に、かつて【アンリ】と呼ばれていた少女は座っていた。
思い出したくもない夢を見てしまい、気分は最悪だった。
こんなときは愛しの彼に会いに行くに限る。
エキドナは立ち上がると、地下へと向かって歩き出す。
こつ……こつ……こつ……こつ……。
誰も居ない魔王城に、足音だけが空虚に響く。
ここには誰も居ない。
否、誰も、居なくなった。
自分が魔族をアインにぶつけ続けたからだ。
ややあって、エキドナは世界樹の元へとたどり着く。
「ミクトラン。ああ……ミクトラン……」
潤んだ目で愛しの彼を見上げる。
彼は、世界樹の幹から上半身だけをだし、うなだれている。
『……だれ、だ?』
ぼんやりとした目を、ミクトランが自分に向ける。
「私よ、ミクトラン。エキドナよ?」
じっ……とミクトランが自分を見やる。
『エキド……ナ?』
「ええ、そうよ。あなたの愛しの恋人、エキドナよ」
恋する乙女の表情で、エキドナは彼に近づく。
半透明の彼のほおを、愛おしげになでる。
『……アンリ、は。どう……したんだい?』
ぴくっ、とエキドナは体を硬直させるも、しかしすぐに笑って答える。
「……【アンリ】は、いないわ。でも、どうでもいいじゃない? 私がここにいる。あなたの愛する女が今ここに居るの。それで十分でしょう?」
『…………』
じっ、とミクトランがエキドナを見やる。
何かを言いたげだった。
だが眠いのだろう。
まぶたが重く、垂れ下がっている。
「器に収まっていないから、魂が安定しないのね。大丈夫、今は眠ってミクトラン」
すりすり、とエキドナがミクトランに頬ずりする。
「器はもうあと一歩で完成する。あの鑑定士が、最後のピースをそろえたとき、あなたは完全にこの世に復活するわ」
彼を見上げて、彼女は微笑む。
「待っててミクトラン。すぐ終わらせてくるから」
エキドナはきびすを返し、パチンッ! と指を鳴らす。
能力が発動し、一瞬で、エキドナはアインのいる場所までやってくる。
やってきたのは、王都の街の、ど真ん中だ。
ここでなければ、いけない。
人目が多い、ここである必要がある。
「さぁ、早く来てアイン。そして私を、早く倒してちょうだい」
エキドナが熱っぽくつぶやく。
「魔王エキドナは、大英雄アイン・レーシックの手によって倒される。そして【彼】は華々しく復活する。これは、そういう筋書きのお話なのだから」