175.地上の敵、鑑定士を恐れ姿を消す
鑑定士アインが、メイドご奉仕を受けてから、数日後。
1柱の神が、地上を徘徊していた。
蛇神ナーガ。
一見すると蛇人間のようである。
上半身が巨人で、下半身が蛇。
髪の毛から大量の大蛇がぶら下がっていた。
ナーガは地面をずりずりと動き回る。
「魔物の気配が、まるでしない」
ナーガは周囲を見渡しながら、困惑した。
普段ならば、外を徘徊すればモンスターの1匹や2匹、すぐに見つかる。
ゴブリンやオーガなど低級モンスターのほか、ドラゴンだってちょっと前は普通に存在した。
だというのに、モンスターの影も形も見当たらないのだ。
不気味なほど、魔物たちの気配も、声も聞こえないのである。
「ま、べつにいいけどさ。おれのエサはあくまで人間だしよ。エサ探そうエサ」
ずりずり……と蛇神は地を這いながら、人間を求めて動き出す。
「しかし本当にモンスターがいない……。おれの持つ【広範囲センサー】に敵がまったくひっかからないなんて……」
ナーガには周囲の状況を感じ取る、特殊なセンサーを持っていた。
「どれ、少しセンサーの感度を上げてみるか。ちょっと人間国全土に範囲を広げてって……っと」
蛇神は巨神トール同様、地上に落ちてきた神の1柱。
彼にとって、国土全域にセンサーを伸ばすことなど、造作もないことなのだ。
さて索敵を開始したナーガは、くわっと目を大きく見開く。
「なっ!? ど、どうなってるんだこりゃ!? この国にモンスターがいねえ! 1匹たりとも、いねえ!」
恐るべき異常に、ナーガは困惑した。
と、そのときである。
「おーい、ナーガ!」
頭上から何かが降りてきたのだ。
それは巨大な、赤く輝く巨大な鳥だった。
「おまえは【神鳥ガルーダ】!」
ナーガ同様、地上に存在する神の1柱である。
ちなみにナーガとは仲が悪く、ここ数世紀顔を合わせてなかった。
「ここであったが百年目! 今こそおれと決着を……!」
「馬鹿! そんなことしてる暇ねえ! 逃げるぞ!」
ガルーダはナーガの頭を足で掴むと、飛翔する。
「おい下ろせガルーダ! どうしたんだよ!?」
「うるさい黙れ! 安全圏まで逃げるぞ!」
ガルーダの速度は軽く光を超える。
すさまじい早さで、ガルーダはナーガをぶら下げた状態で、遙か上空へと逃げた。
「ここなら追ってこないかな……。いいかナーガ。おまえがのんきに寝てる間、地上のヒエラルキーは逆転しちまったんだよ」
ガルーダが沈んだ声で言う。
「どういうことだよ? 逆転って……?」
「一番非力なはずの人間が、それ以外の存在よりも上位に立ったってことだよ」
「馬鹿なことを言うな。あり得ない。人間はモンスターにも劣る虫けらだったではないか」
「それが違うんだ。一人の人間が地上に現れてから、人間がヒエラルキーのトップになったんだよ」
「……ガルーダ。おまえの言うことが、まったくわからんのだが?」
ガルーダはため息をつくと、ナーガを連れてとある場所まで連れて行く。
ややあって。
「なんだ、この荒野は?」
見渡す限り、どこまでも不毛な大地が広がっている。
「……おまえ、【奈落の森】って知ってるよな?」
「もちろん。年中日の光が差さぬ大森林で、なかには強力なモンスターがうじゃうじゃ生息していたあそこだろ?」
「それが……ここだ?」
「なっ!? なんだって!? 馬鹿言うな! 辺り一面の荒野ではないか!」
遠く地平線の彼方まで、この荒野は広がっていた。
ここがかつて存在した、魔の森と恐れられた大森林のはずがなかった。
「嘘じゃない。【死神】の一撃によって、この森は荒野へと変貌し、モンスターは全滅したのだ」
「ば、馬鹿も休み休み言え!! そんな芸当が、人間にできるわけなかろうが!」
「……アレを見ろ」
ナーガはくちばしで、遠くの地上を指す。
目をこらすと、そこには地面に深い【溝】ができていた。
「なんだこの、不自然な【地割れ】のあとは……?」
「死神の放った、斬撃の後だ」
「!?」
ナーガは目玉が飛び出るほど驚いた。
「は、はは! ガルーダよ! さすがに冗談が過ぎるぞ! この奈落の底まで続いているような、深い地割れの後が、人の手によるものだって……?」
「……よく見ろ。断面が、きれいに整ってるだろ」
左右の断面は、つるつるとしている。
とてもじゃないが、自然現象でこんなふうに地面が割れるわけがない。
「死神が斬ったんだ」
「おいガルーダ! 妄言も大概にしろよ!」
ナーガが頭上のガルーダに向けて叫ぶ。
「奈落の森を荒野に変え、剣の一撃で大地を斬りさくだと!? どこの世界の人間に、そんな芸当ができるって言うんだよ!?」
「それが……できるやつが現れたんだよ。だから、みんな怖がって、魔物たちは姿を消したんだ」
ガルーダの声は震えている。
「魔物だけじゃない、魔族、そして地上に残っていた神たちは、みな【死神】を恐れて地上から身を隠した」
「ばかな……何者だ? その死神ってやつは……人間なんだよな?」
「ああ。やつが存在することで、地上のパワーバランスはひっくり返った。死神が人間側についている以上、我々は人間に決して手出しできない」
ナーガは戦慄した。
そんな絵空事にしか聞こえないことを、ガルーダが真顔で語っていたからだ。
真剣な表情からは、嘘を言っているようには……思えなかった。
「そんなに……死神は強いのか」
「強い。あれはもう、我々と次元が違う。そいつに敵対することも出会うことも、【死】と同じ意味をなす。文字通り……死神だ」
「その……死神の名前は?」
そのときだった。
「ひっ……! み、見つかった!!!!」
ガルーダの顔色が、一瞬にして真っ青になった。
「ど、どうした!?」
「アインに見つかったんだ! イヤァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
ガルーダは半狂乱になって叫ぶ。
「お、おいガルーダ! 気でも触れたか!? 周りには誰もいないぞ!?」
国土を覆うほどの広範囲センサーを持つナーガですら、その死神の姿を感じ取れないというのに……。
「こ、殺されるぅううううううううう!」
ガルーダは全速力で逃げ出そうとする。
ボシュッ……!
その瞬間、彼は姿を消した。
いや、消されたのだ。
「な、なんだなんだよ何が起きてるんだ!?」
地上へと落下しながら、ナーガはパニック状態になっていた。
見えない敵に、ガルーダは殺された。
ならば……自分も消される。
「い、嫌だ! 死にたくない! 死にたくない! ……あ」
ナーガは、気づいた。
落下地点に、少年が立っていることを。
彼を視界に捕らえた瞬間……ナーガは死亡した。
アインの発する、あまりに強大な力を前にして、肉体が【死】を選んだのだ。
ナーガは薄れゆく意識のなか、安堵する。
……ああ、よかった。
アインに消される前に、死ぬことができて……と。