167.天使、鑑定士の強さに恐怖し正気を失う
鑑定士アインが、座天使スローンズの操る天使をすべて破壊した、数日後。
天界の宮殿にて。
熾天使セラフィムは、座天使のもとを訪れていた。
彼女にあてがわれた部屋の前に、セラフィムはいる。
「スローンズ。いるのでしょう? 中に入れて?」
しかし、上司であるセラフィムの呼びかけにスローンズは応えない。
彼女は下界から戻ってきた後、こうしてずっと、自室に閉じこもったままなのだ。
「……よほどアインが怖かったのね。無理もないわ」
数日前、セラフィムは座天使とアインとが戦う姿を観戦していた。
アインが中位天使を楽勝で倒す姿に、セラフィムは目を疑ったものだ。
「スローンズあけて。これ以上何も食べないと体を崩すわ」
再三の呼びかけに、しかし部下は応えない。
仕方ないと思い、マスターキーを取り出す。
「中に入るわよ」
広い部屋の奥には、ベッドがあり、そこにシーツをかぶったスローンズがいた。
「大丈夫? ひどい顔よ」
スローンズは何日も寝ていないのか、目の下に濃い隈ができていた。
美しくととった髪の毛はボサボサになり、大量の抜け毛が周囲に落ちている。
「……殺される殺される殺される殺される」
「落ち着きなさい、スローンズ」
「そんなことできるわけないでしょ!?」
彼女が立ち上がると、シーツがずり落ちる。
「わたくしは【死神】の逆鱗に触れてしまったのですよ!?」
「死神って……大げさよ……」
「大げさなものですか!?」
スローンズはまたもシーツをかぶって丸くなる。
ガタガタガタ……と極寒地にいるかのごとく、座天使は震えていた。
「中位天使をいともたやすく葬り去ったのですよ!? あんな規格外の強さを持った存在、天地開闢以来【ミクトラン】以外にいなかった!」
「……そうね。【叛逆の勇者】の再来であると、私も思っているわ」
ミクトランの件は、天界でもタブーの一つだ。
よくかの勇者を封印できたものだと、今でもセラフィムは奇跡だと思っている。
「死神は敵意を向けたわたくしの寝首を刈りに、ここへやってくるのですわ!」
スローンズが叫んだ瞬間、部屋に設えた壁掛け時計が、がたんっ! と落ちた。
「ひぃいいいいいいいいいいい!!!!」
スローンズは恐怖の叫びをあげる。
「時計が落ちただけよ、落ち着いて」
「もう嫌ですわ! わたくしはこの部屋から生涯二度と出ません!」
座天使は、天界にとどまる人間たちの魂の管理を任されている、上位天使。
彼女の穴は大きい。すぐに埋めることは困難だ。
「……わかったわ」
セラフィムは大きくため息をつくと、スローンズの肩を優しくなでる。
「こっちは私がなんとかする。だから、あなたはゆっくり心を休めて」
熾天使は立ち上がると、彼女に背を向ける。
「待ちなさいよ!!!!」
スローンズが血走った目で上司であるセラフィムをにらみつける。
「わたくしを哀れんでいるのでしょう!? たかが人間ごときに恐れをなした臆病者と! 心の中で嗤っているのでしょう!?」
「それは、違うわ」
セラフィムは真剣な表情で、部下を見やる。
「私は、アイン・レーシックを【たかが人間】と侮っていない。彼は地上が生み出したミクトラン以来の【化け物】。魔神も天使も……神すらも、彼の規格外な強さの前には、誰もかなわないわ」
アイン・レーシックは天界に脅威をもたらす厄災となり得る。
それが、セラフィムの見解だ。
「アインの強さを見極めることできなかった、私の落ち度よ。あなたが落ち込むことはない。責任の所在は、私にある。だから気を落とさず、ゆっくりと休んで」
そう言って部屋を出て行く。
セラフィムが廊下を出た、そのときだ。
「……セラフィムぅうううう!」
智天使ケルビムが、こちらにかけてきたのだ。
ケルビムはセラフィムの胸ぐらをつかみ、しめあげる。
「ど、どうしたのケルビム?」
「……アイン・レーシックは天界が総力をかけて殺すべきだ!」
ケルビムの目も、スローンズ同様に血走っていた。
「……殺させろ! 早くボクにやつを殺させろ!!!!」
「お、落ち着いてケルビム……冷静なあなたらしくないわ」
「……これが落ち着けるかぁ!」
「そうね……恋人であるスローンズが、あんな風になってしまったのですものね」
ケルビムとスローンズは、職場恋愛をしていた。
報告はなかったが、上司であるセラフィムはちゃんと把握していたのである。
「敵を討ちたいという気持ちは重々理解できるわ。けど冷静さを見失ってはいけないわ……」
「……はぁ!? 何を言ってるんだ!? 馬鹿か君は!?」
憤怒の表情をケルビムは向ける。
「……ぼくの元に、アイン・レーシックという死神がやってきたらどうするんだ!? その前に殺すべきだ!」
「恋人の敵討ちじゃ……ないの?」
「……当たり前だ! ぼくを誰だと思っている!? 智天使ケルビムだぞ!? ぼくが死者の選別をすべて行っている! ぼくがいないと天界は立ちゆかなくなるんだぞぉ!」
がくんがくん、とセラフィムを揺らす。
「……アインは危険だ! 天界に乗り込んできて天使や神を皆殺しにしだす! あの【墜ちた勇者】のように!」
スローンズも、ケルビムも、脳裏にあるのは【あの勇者】のことなのだろう。
墜ちたミクトランがその後どうなったのか、天界のものであれば誰もが知っている。
「ケルビム、落ち着いて。たしかにアインはミクトランの再来よ。けれど……彼はやつと違って善良なる魂を持っているわ。少なくとも、何もしてない相手に虐殺を試みるような悪人じゃない」
「どうしてそう言い切れるんだ! もういい! こうなったらぼくが殺す!」
智天使は懐から伝令用の結晶を取り出す。
「やめなさい!」
「天界にいるすべての天使たちよ! 残らず下界へ赴き、アインを殺せ! 殺せぇえええええええええええ!」
狂気にとりつかれたように、ケルビムが天使たちに命令する。
一瞬で、天界中にいた恐ろしい数の天使たちが消えたことが、わかった。
「何をしているの! 馬鹿な命令は取り消しなさい!」
「ぼくに口答えするなぁ! やれぇ! 殺せぇ!」
ケルビムが監視用の結晶を見て言う。
……しかし。
「あ……ああ……あ……」
がくん、とケルビムが、真っ青な顔で、その場に崩れ落ちる。
「……やっぱり。全滅、ね」
監視用結晶のなかには、天使の死体が山のように積まれていた。
今の一瞬で、アインは天使のすべてを全滅させたのである。
「うひひぃ~……アインは化け物だぁ~……もうぼくたちはおしまいなんだぁ~……まま~……たしゅけてぇ~……」
ケルビムは狂気にとりつかれ、幼児退行していた。
セラフィムは深くため息をつき、言う。
「これもう、降伏するよう、神に進言するしかないわね」