122.古竜、鑑定士の名を聞いただけで逃げ出す
鑑定士アインが英雄騎士となってから半月が経過したある日のこと。
アインが主に活動している国の南部に広がる海域にて。
人を乗せた大型の船が、1匹の古竜に襲われていた。
海魔蛇。
海に暮らす巨大な蛇の形をしたモンスターだ。
『グハハハッ! 愚かな下等生物ども! 我がエサとなれること、光栄に思うが良い!』
サーペントは眼下の船を見下ろしていう。
人間たちにとっては巨大な船も、古竜から見ればオモチャも同然。
「なんだあのデカい蛇は……」
「あんなのに勝てっこない……」
「もうおしまいだ……」
船の乗客たちは、みな絶望の表情を浮かべていた。
『グハハッ! 下等生物どもが我に恐れおののく姿はいつ見ても愉快よのぉ!』
ぬぅっ、とサーペントが船に近づく。
「た、助けてー!」
「死にたくない!」
『ふむ……貴様らを見逃してやってもいい……ただし、このなかからひとり生け贄を差し出すのだ!』
ざわざわ……。
「……どうする」「……おまえがいけよ!」「……おれはいやだぞ!」
『くっくっく、さあどうする? 誰も生け贄を差し出さない場合は全員が我の腹に収まることになるが?』
そのときだ。
「私を食べなさい!」
1人の美しいエルフが、サーペントの前に姿を現したのだ。
「だから他の物たちに手を出さないことを誓いなさい」
『ふむ……良かろう。では女、前に出ろ』
エルフがうなずいて、甲板を歩く。
彼女の周りにいた、鎧を着たエルフたちが、引き留めようとする。
「姫様! おやめください!」「姫様が犠牲となるのでしたら、おれが!」
すると彼女は首を振る。
「良いのです。私の命ひとつで、みなが助かるのなら。【ミネルヴァ】のことは、頼みましたよ」
エルフ女は前を向き、サーペントの前にやってくる。
『では、遠慮無く!』
グパッ……! とサーペントが口を大きく開き、そのままエルフ女を丸呑みにする。
「姫さまが……」「そんな……」
失意の騎士たちとは反対に、乗客たちが言う。
「これで満足だろ!」「わたしたちを解放して!」
『貴様ら、何を勘違いているのだ?』
ニタニタ、とサーペントが邪悪な笑みを浮かべる。
『貴様らもまた我のエサよ』
「ふざけるな!」「約束が違うぞー!」
乗客たちが抗議の声を張り上げる。
『貴様ら下等生物との約束など守るわけがなかろう!』
ぐあっ! とサーペントが大きく口を開ける。
『船ごと丸呑みにしてやる! 死ねぇ!』
と、そのときだった。
キィイイイン……。
何かが遠くから、凄まじい速さで飛んできた。
それはサーペントの右の頬に、激突する。
ずどぉおおおおおおおおおおおおん!
『ぐぁああああああああああ!』
サーペントは【何か】にぶつかり、ものすごい勢いで吹き飛んでいく。
ドボオォオオオオオオオオオン!
「な、なんだ今の……?」
「見ろ! 上に誰かがいるぞ!」
乗客が指さす先には、1人の、【少年】がいた。
特徴のない平凡な容姿の男だ。
唯一普通じゃないのは、左右で目の色が違うこと。
左目は翡翠、右目は黄金。
『貴様! この古竜・【シー・サーペント】の頬を蹴るとは、いったいどういう了見だ!』
吹っ飛んだサーペントが、海中から顔を出す。
古竜は激しい怒気を、空中に浮かぶ少年に向ける。
だが彼はひるむことなく、冷静に返す。
「蛇が人を襲うのが、千里眼で見えたからな。助けに来た」
『はっ! 助けるぅ~? 笑わせるな!』
サーペントが大口を開けて、少年をあざ笑う。
『貴様のような小さく! 弱い存在が? このSSランクの、モンスター界の頂点たるこの我に? 勝てるとでも思っているのかぁ?』
「ああ。問題なくな」
サーペントは心のなかで動揺した。
少年が驚くほど動じていなかったからだ。
『はっ、ハッタリだ! だがまあ人間よ、その虚勢に免じて、死ぬ前に名前を聞いておいてやる』
「俺はアイン。アイン・レーシックだ」
その名前を聞いた瞬間。
『ほげぇえええええええ!!』
サーペントは目を大きくひんむき、驚愕の表情を浮かべた。
『あ、ああああああアイン・レーシックだとおぉおおおおおおおおお!?』
得意げだった顔は、真っ青になる。
「やっぱりそうだ!」「ベヒーモスを倒した最強の冒険者、アイン様だ!」
乗客たちの顔に希望の灯がともる。
『古竜を素手で倒し、数多くの魔族を退け、上級魔族すらも凌駕する力を持つという……あのアインか?』
アインはサーペントを見下ろす。
よく見るとその目は、人間の物ではなかった。
ゾクゾクッ……!
『ひぃいいいいいいいい! お助けぇええええええええええええええ!』
サーペントはクルッと身を翻すと、全速力でその場から逃げ出す。
『助けて! 死にたくないよぉ!』
サーペントは海中に身を沈めると、そのまますごい勢いで泳ぐ。
「あ、あの古竜が一目散に逃げていくぞ!」
「さすがアイン様だ!」
乗客たちがアインに尊敬のまなざしを向ける。
「あの! アイン様! 実はあのなかに」
乗客の1人、エルフの騎士が、アインを見上げていう。
「わかっている。問題ない」
アインの目が、翡翠から深紅へと変化する。
「クルシュ。【虚無】を使うぞ」
彼の目が血のように真っ赤に染まる。
ボシュッ……!
「な、なんだぁ!?」
「海面の一部が、くりぬかれたようになっているぞ!」
海水が消失しており、そこにはサーペントがいた。
まさに陸に上がった魚のように、無様にビチビチ跳ねている。
『ひぃ! 我はいったい何をされたんだぁああああああああ!』
恐怖するサーペントの元に、アインが一瞬でテレポートする。
「ウルスラ。なかの人の位置を特定してくれ」
アインは右目を輝かせる。
『おねがいします! 見逃してください! 命だけは助けてください!』
サーペントは涙と鼻水を流しながら、必死になって命乞いする。
「ダメだ。俺は、人の命を私利私欲のために奪う、おまえを許せない」
アインの右手に、美しい剣が出現する。
彼の体から、突如として黄金の【闘気】が噴出した。
『いやだぁああああ! 死にたくないよぉおおおおお!』
アインは剣を、横に一閃させる。
ズバンッ……!
サーペントの体は、縦に真っ二つにされた。
割れた体の中から、無傷のエルフがまろびでる。
アインは彼女の元へと降り立つ。
「無事か?」
「え、ええ……助けてくださり、どうもありがとうございます」
ペコッ、とエルフ女が深々と頭を下げる。
「古竜が名前を聞くだけで逃げ出すとは。さすがですね、アイン様」
「なんだ? 俺を知っているのか?」
「ええ、【妹】の手紙に書いてありましたので」
「妹?」
エルフ女が優雅に一礼する。
「私はエルフ国【アネモスギーヴ】の姫、【グレイシア】。妹のミネルヴァが、大変お世話になっております」