4.会いたくない
目覚まし時計を止める。可愛い猫の撫で声を模したそれは、最初こそお気に入りだった。しかし、やっぱり朝はダメだ。
うたた寝の心地好い世界から引っ張り出されるのだ。猫の声は、もう嫌いになってしまった。しかし……。
「今日の夢は……何だったっけ……」
黒咲は朝が弱い。
学校がある日も休日も、例え何も予定がない日でも朝は中々起きられない。予定がない日など、彼女には有り得ないが。
それでも遅刻は一度だってしなかった。
だって身だしなみは最低限整えるだけだから。
黒咲の朝の時間は、花の高校生とは思えないほどに持て余している。
「おはよう……叔父さん、叔母さん」
「おはようさん。トーストはジャムと蜂蜜、どっちがいい?」
「蜂蜜……」
「いつも通りだね。はいよ」
キッチンでは叔母が朝食の準備をしていて、叔父は眼鏡もかけずに新聞を読んでいる。黒咲が好んで食べるトーストの焦げ具合も丁度良い。そう、いつも通りの光景だ。
叔父と叔母は起きるのが本当に早いが、黒咲はそれを口に出して言わない。以前に一度、純粋に朝に強いという意味合いで、早いんだねと言ったことがある。
彼らにしては珍しく、年寄り扱いするなと少し怒っていたのだ。
それが今のところ、祖父母を怒らせた最初で最後の出来事。
「……ゆり、また夜遅くまでピコピコやってたのかい?」
「やるべきことは済ましてるから、大丈夫だよ。睡眠時間も自分に敵った分しっかりとってるから」
「もう……ちゃんと電気は付けて、テレビから離れてね」
この祖父母は黒咲を怒らないし、黒咲もまた、祖父母を怒らせる言動を意識して慎んでいる。
……中学三年の時。
母と兄が消えた時。父が過労死した時。
私は、祖父母に引き取られた。
母方の祖父母だ。近所に住んでいたこともあり、本当の意味で居場所も生きる道も失った私を引き取ってくれた。父の親族は、既に他界している。
引っ越さないか?
そう提案されたのは、引き取られて丁度一週間目の時。
私を想っての話だったのだろう。まあ普通、家族を全員失って、あんな事件に巻き込まれた街に居たいとは思わない。
自分たちの経済的事情も、地域の交遊関係も。彼らの事情を全て捨てて、私にそう話してくれた。
だけど残念なことに。申し訳ないことに。
私は"普通"じゃない。
結果、断った。
気持ちは嬉しい。でも大丈夫。そう言って。
それからも今まで、彼らは本当に良くしてくれた。
優待生という条件はあったけど、まさか高校に通えるとは思わなかったし。食事も娯楽も、不自由ない生活を送らせてくれた。
呪われた子と言って追い出されてもおかしくない私を、ここまで世話してくれた。
だから黒咲は、祖父母に出来るだけ迷惑をかけたくない。怒らせるような振る舞いをしたくないと思っている(一年間引きこもったことは、引きこもる前に説明し、同情に近い許しを得た)。
「ゆり。昨日のテスト、満点なんて凄いじゃないか。俺は高校で満点なんて、保健体育くらいしか自慢出来ないぞ」
「自慢じゃなくて、自重して下さいな。全く恥ずかしい……」
「得意分野だったから。理系だと、こうはいかないよ」
では祖父母が彼女を怒らないのは、何故か。黒咲も何度か考えたことがある。
引きこもり。ゲームを買い漁って深夜までやり……好成績を維持しているとはいえ、"普通"の人間だったら怒るのではないか?
それこそ、先程の注意とは違う、爆発的な怒りを。
黒咲の導いた答えは、遠慮。
彼らは遠慮しているのだ。
家族を全員失った、可哀想な黒咲を。
関わった人が次々と消える、呪われた黒咲を。
異世界だ神だを盲信する、異常な黒咲を。
だから必要以上に関わらない。お洒落をしない黒咲に祖母は何も言わないし、ふらふらと出歩く黒咲に祖父は何も言わない。
黒咲の自室にも、決して入らない。
何だ、安心した。
彼らは"普通"だ。
孫とはいえ、無理のない話だ。黒咲も高校生、現状に問題がない以上、不用意に掻き回すつもりはない。
彼女は、無関心が好きなのだから。
「そういえば母さん。ゆりにあの事、話すんだろ?」
「……そうですね」
「……何、どうかしたの」
黒咲はトーストを噛る。パリパリと小気味良い音だ。
「その、ね?話すかどうか迷っちゃって」
「うん」
「昨夜、母さんと相談してちゃんと伝えるべきだと思ってな。それで今朝になっちまったが……」
「うん」
「昨日、ゆりがまだ学校から帰ってないときなんだけど……」
うん。
はて、この祖父母がこうも言い淀むとは珍しい。
昨夜もそんな素振りは見せなかったと思うが、一体何を……
「ことはちゃんのお母さんが訪問されたの」
「……いつ……いや、何の用で?」
「何でも、ゆりと話がしたいとかで……いないと伝えたら、後日改めるって帰られたわ。心当たりとかないの?」
「……特には。あの人には、私から連絡しとくよ。教えてくれてありがと」
にこり。
目を細めつつ、口角を軽く上げて微笑む。
私は知っている。この笑顔を作ればこの二人は安心して、言及してくることはないと。
ほら。案の定、他愛もない話を始めてくれた。
「……」
……うん。大丈夫だ、慌ててない。あの笑顔も作れた。誤魔化せたはずだ。
これで二人に私ごときの余計な心配をさせずに済んだだろう。
ことはちゃんの、お母さん。
その人に対して、私は色々な思い、気持ち、感情を持っている。これだけ見ればまるで恋する乙女のようだが、当然そんなことはない。私は異性と恋愛するし、これから恋をするつもりなど毛頭ない。
……話が逸れた。
ことはちゃんのお母さん。
この人に対して、私が言える正直な気持ちは"会いたくない人"だ。
……本当に、会いたくない。
「……っ」
「どうした、ゆり?頬を手で押さえて……」
「……美味しいなって、思っただけ」
ほら、あの人の名前を聞いたら、自然と頬に手がいった。それに対してまともな嘘すらつけない。
体が受け付けない。
つまり、そういうことなのだ。
あの人から異世界の手がかりを聞けるとは思えないけど、会わない訳にはいかない、か……。
そう、諦めたとき。
来客を知らせる呼び鈴が鳴った。
「休日のこんな早くに……新聞の集金か?」
「先日払ったばかりですよ」
「……私が出るよ。変な宗教勧誘だったら、追い返すから」
いつもの黒咲であれば、彼らの前でこのような辛辣な言葉を吐くことはない。二人を不安にさせるから。
しかし今だけは。
あの人の名前が出て、後日改めると聞かされた今だけは。彼女は冷静ではないのだ。
私一人で、あの人に会わないと……!
早足で音源へと向かう。二回目の呼び鈴が鳴った。
アナログな覗き穴から、デジタルなインターホンに変えたのは最近だ。
クリアな音質や画像処理が売りらしい。
画面越しに、来訪者の顔と見合わせる。
映っていたのは、男。
「……」
拍子抜け、ではない。
むしろ彼も……"こいつ"も、会わねばならない奴だから。それに、ことはちゃんと関わりがある点では間違ってない。
「荷所、操下」
ことはちゃんを、異世界に連れ去った男である。