2.もう一人の探し人
6月の中旬。
暦の上では今の時期を、仲夏というらしい。6月といえば春の終わり、よくて夏の始まりだろうと、黒咲は思っていた。しかしそれも数年前の話。
暦の通りだ。こんなにも暑ければ、今を夏真っ盛りだと言った故人は正しかったと言わざるおえない。
その殺人的な暑さには、風情もあったものではないが。
黒咲は先日古典で習ったそんなことを、無意味に頭の中で考えていた。
「暑いな……」
突き刺す太陽光、それに焼かれた白いコンクリートの熱に文字通り板挟みにされながら、黒咲は歩く。学校終わり、まだ日は高い。
しかし暑さに脳内まで焦がされながらも、彼女はまた違う……感情的な意味で頭が熱かった。
当然、花鳥のことだ。
もう一度、彼の言葉を思い出してみよう。
『異世界は憧れる。あんな楽しい世界』
……思い返したのは失敗だったみたい。余計に熱が上がった。
繰り返すが、黒咲は異世界も地獄も天国も知りはしない。倫理的な意味であれば多少の知識を持つと自負しているが、それも机上の空論というやつだ。
異世界なんて表現をしているが、彼女とてその言葉を聞いただけ。そこに漢字を当て嵌めたのは黒咲であるし、もしかしたらカタカナで記すことが正解かもしれない。いや、そもそも異世界とは、誰か人物の呼称である可能性すらあるのだ。
それほどまでに、彼女の持つ"異世界"は曖昧。
だがそんな彼女でも、異世界は地獄であると断言できる。異世界と地獄をイコールで繋ぐことができる。
だって、奪い続けたから。
小学校の親友を。中学校のクラスメイトを。高校の恋人を。兄を。父親を。母親を。家族を。
私の人生を。私の心を。私の青春を。私の時間を。私の心を私の感情を私の性格を私の環境を私の出会いを私の思い出を全部全部全部全部全部!!
全部だ!!全部!!!
泥棒は罪だ。人の物を取ったらいけない。
幼児すら知っている、そんな当たり前でとても大切なこと。その張本人たる異世界を、どうして楽しいなどと言えようか!大切な存在を奪った相手に、どうして友好的になれようか!
逃がさない。絶対に追い詰めてみせる……!
「ひっ……!」
妙なひきつった声が聞こえた。
いつの間にか向かいから来た女性が、黒咲の顔を見るなり、駆け出した。それも怯えたように顔を歪めて。
「……失礼な人」
黒咲は駆け出した女性を一瞥するも、歩き出す。
怒りに歪んだ、その顔で。
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黒咲の視線の先には、花があった。
しかしそこは花畑ではないし、黒咲自身も、そんな彩り豊かな場所に赴くほど乙女ではない。
それがあったのは、大通りからも外れた、人通りの少ない小道。
そして、電柱の下。
電柱の下に、花束。
「……っ」
黒咲の歯と歯がこすれ、ギリギリと気持ち悪い音が鳴る。
花束は瑞々しく、この暑さにも負けないと誇示しているようだ。
見映えのない小道の一角を彩る、白色。アスファルトと同色であるも、そこには確かな色があった。
そう。電柱の下に、だ。
そしてここが黒咲の目的地。
母親と兄が、消えた場所。
「……っ、ぐ……っ」
電柱の下に花。
電柱の下に花。
電柱の下に、花。
気持ち悪い。
「……何なのよっ!!」
気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い!!
何で花を置くのよ、誰が置いた!?献花のつもりか!?私の母親と兄の件を聞き付けた誰かが置いたのか!!
どんな気持ちでそれをしたのかは知らない。分かるはずもない!
だけど、こんなことされたら……母と兄が消えてしまったこの場所で、そんなことされたら……その、意味なんて……!
「勝手に殺さないでよぉ……っ!!」
その意味としか、彼女は取れなかった。
母親と兄は行方不明。
その事実は大手報道メディアによって知れ渡っている。
そうだ。行方不明なのだ。
亡くなったなんて、死んだなんて、誰も言っていない。
それでも、花はそこにある。
だからきっと、その意味も。
黒咲は今日、異世界の手掛かりを求めてここに来たのだ。
消えてしまった二人を探し出すために。決して弔いに来たのではない。だというのに。
花を置いた人が、二人を気の毒に思ってした行為だとか、そこに二人を偲んだ気持ちがあるだとか。彼女には、そこを汲み取る余裕もない。
花を置かれた。
その事実だけが、ただただ彼女を怒りと悲しみに埋めてしまった。
「……」
黒咲はそれを睨み付ける。
花はまだ咲いていた。彼女の心境など知らんと、ただ咲き誇るという役目を果たし続けている。
だから黒咲は、ゆっくりとそれに近づいた。
そして、彼女自身の、その足でーー
「黒咲ゆりさんですか?」
名前を、呼ばれた。
彼女の降ろした足先には、花が変わらず咲いている。
「……」
黒咲は振り向いた。
黒崎ゆり。久しぶりに呼ばれたフルネーム。
それを彼女に聞かせたのは、黒咲も知らない女性。初夏に合っているラフな服装に、まるで寝起きのように不自然にはねた短髪。
ショルダーバックにはその容量に合わない荷物が入っているのだろう。ベルトがギチギチとよろしくない音をたてた。そしてそれに交わる形で、カメラを肩にかけている。
「……やっと会えた」
その女性は、笑みとも真顔ともとれる顔で呟く。
……知らない人だ。しかし、黒咲には分かった。今まで何度となく感じてきたものと、同じ雰囲気。大嫌いな雰囲気。
「私は月立桂音。ちょっとお話、いいですかね?」
彼女は、記者だ。