転移
「清水さん。テストの丸つけ、やっておきましたよ」
「あぁ、申し訳ない。助かります」
自動化や効率化が図られる昨今、どうしてこれだけは変わらないのかと、いつも思う。十人十色の教師陣の中で共感できる、数少ない要素だ。
延々と赤丸を付け続けると、気が滅入って仕方がない。
「さてと、後やるべきことは……」
自席に戻りつつ、手帳を開く。
そこには今日やるべきことが所狭しと書かれていた。今や白い部分の方が少ない。
忘れないよう書き始めたのに……見たくないなぁ。
ただのトラウマノートだよ、これ。
「清水さん、大丈夫ですか?大分お疲れですね……」
「えぇ、何とか……すみません田辺さん。こんな雰囲気振り撒いちゃって」
「いいんですよ。教師同士、支え合うものです」
今時、こうも他人を気にかける人は希少だと思う。彼女の答案の処理がなければ、こうして話す余裕もなかった。
清水も新人にしてはよくやっている方だ。
少なくとも田辺の知る、教頭に媚びへつらうあの女と同じキャリアとは思えない程に、しっかりしている。
「また、あの生徒の自宅訪問ですか?こう言ってはなんですが、余り一人の生徒に入れ込まない方がいいですよ。清水さんが潰れちゃいます」
「分かってはいるんですけど……」
まただ。
清水はこの言葉が口癖になっている。
"分かってはいる"。必ず疲れた笑顔で頬を掻きながら、困ったように呟くのだ。
分かっていても、止めない。止められない。言葉だけ見れば中毒そのもの。
「本人が登校を拒む以上、私たち教師にできることは限られます。残念ですが、全て本人次第ですから」
あの生徒は所謂、不登校なのだ。
彼女の発言は辛辣だが、今の清水はそれを否定出来ない。
誰もが知る通り、高校生は義務教育ではない。勉学を続けるも抜けるも、基本的に本人に委ねられること。
不本意に退学や不登校に追い込まれたとなれば、また話は別であるが……
あの生徒の場合はそれに当てはまらないと聞いている。
となれば、教師に出来ることなど、精々登校を促すだけ。
一人の生徒を思うのは良い。理想の教師像というやつだ。
しかし清水の生徒に対するそれは、過剰。自らの仕事に支障が出る程に、その生徒を構っている。
本人も"分かってはいる"はずだ。
「……そもそもなぜ、彼女は不登校に?
一年次は体育を除けば、学年トップの好成績でしたよね。問題に巻き込まれたなんて話も、特にはなかったと思いますが」
田辺はあの生徒に詳しくない。余り人気のない倫理科目の担当であるし、担当するクラスも持っていないのだ。
それでもやはり、良くも悪くも目立つ生徒の話くらいは聞いている。
そしてあの生徒は良い意味で目立っていたと、田辺は記憶していた。
そんな子が、二年に上がってすぐに登校を拒否した。
なぜ。
「……田辺さん。僕の話、聞いてくれます?」
「……私で良ければ」
あぁ、もう話してしまおう。
これは逃げたことになるのかな。いや、生徒への裏切りだろう。
でも彼女なら、きっと大丈夫だ。弱い僕への言い訳でしかないけれど……正直、限界だ。一人では、抱えきれない。
「あの子は不登校でさえありますが、別に勉学を嫌っている訳ではないんです。むしろ、自宅では自主的に学習をしています」
「……つまり引きこもりの原因は、この高校の環境や彼女の周囲にあると?」
「まあ、半分正解……だと思います」
「半分?」
「田辺さん。隣町であった、中学校の集団失踪事件をご存知ですね?」
曖昧な回答に、疑問を疑問で返された。
いきなり何の話だ?とは言わない。形のない発言など、田辺は耳にたこが出来るほどに受けてきた。
生徒によくある、"分からないことが分からない"というやつだ。
だから焦らず、ゆっくりと清水の発言を飲み込む。
「クラス一つが消える、怪奇染みた未解決事件ですよね。確か……二年前の」
「彼女はその事件唯一の、生存者なんです」
「うそ……!?」
彼女の反応が普通だ。大声を上げなかっただけ、大した人である。
「あの子の素性を考慮して、公表されてないんです。学内でも知っているのは、私と校長だけ」
「……では、そのショックが原因で」
「一因だとは、思います」
また煮え切らない返答。
そしてそれきり、黙り混む。
……休日だけあって、職員室は閑散としていたなと、田辺は今更ながらに気付いた。休日を返上して部活動に勤しむ青春の掛け声が遠くに聞こえる。
昼を伝えるチャイムが、響いた。
「あの子はご家族全員を失い……恋愛関係にあった彼氏さんも、刺されて亡くしてるんです」
正午のチャイムが、終わった。
「そう……なんですか」
……この時田辺は、自らを最低だと評価した。
なんだ今の言葉は。社会に適する人間になるために、今まで散々と言葉づかいや身の振り方を学んだのではないのか?
この場に適する言葉が他にあるだろう!
早く何か言わなければ……!
「母親とお兄さんは行方不明、父親は過労死で他界……恋愛関係にあった月下くんも、目の前で、通り魔に刺され、て……」
田辺は、何も言えない。
清水がボロボロと泣いているのも。それがやったばかりの答案を濡らすのも。今を誰かに目撃されたときの言い訳も。分からない。
ただ一つ、彼女の中にストン収まったことがある。
あの生徒は、絶望しているのだ、と。
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「ゆりちゃん?ご飯、扉の前に置いとくからね……?」
この声への返事は決まっている。
分かった、ありがとう。
その返事は、歳を重ねて耳の遠くなったあの生徒の祖母にもはっきりと聞こえる。それを聞く度、料理を出した彼女は安心するのだ。
そして、質素ながらも愛情のこもった料理は残さず、器だけになるのだろう。
彼女はそれを想像しながら、軽やかな足取りで階段を下りていった。
……カチャカチャ、カチャ。
あの生徒は、部屋の中心で座る。
部屋は薄暗く、画面の向こうにある世界が眩しい。祖母が見れば小言を言うだろう。目に悪い、と。
カチャ、カチャ。
机上には、ノートがある。
赤丸が多い。今日は特に調子がいいみたいだ。
カチャカチャ、カチャン。
彼女の操るキャラクターが、恐ろしい魔物を倒した。
世界に平和が訪れたのだ。壮大な音楽と共に、白い名前が上から下に流れて消える。めでたしめでたし。
……。
「これも、違う」
彼女は立ち上がり、壁に張り付けた紙の一文を線で消した。
これで、五十七回目。
「ご飯、食べないと」
食べたらまた、彼女は繰り返す。
異世界に行けるゲームは、どこだ。