【11.白馬大雪渓】
ようやく大雪渓の取付き点に着いたのは、小雪渓を越えてから四十分後のことであった。五名ほどの人がそこらでアイゼンを付けていた。雪渓との境界付近は、地面が掘り起こされたようにもろくなっていて、安定して座る場所を見つけることすら一苦労だった。
座れる場所を見つけて腰を下ろし、アイゼンを付けていたところ、あとからやってきて私の後ろに座った一人の男性が、さらに後続してきた人から、ここは登山道上だぞと叱られた。彼は、私が座っていたのを見て近くに座ったのであろうが、後ろからやってきた人にとって最初に邪魔になるのは彼であり、まるで彼が私の代わりに叱られたようで気の毒な気がした。だから私は彼に対して、ここは登山道上でしたかね、と申し訳程度に言ったが、その言葉が耳に入らなかったのか独り言と思われたのか、彼からの返答はなかった。
私はザックの腰ベルトの自在具を見ながら、慎重にアイゼンを付けた。真似をしてその通りにやると、今度はロックが効いた。そのかわり、紐が相当余ってしまったが、それは適当に固定具の間を往復させて処理した。数キロメートルに及ぶ大雪渓上では、アイゼンが脱げてしまうと立ち往生してしまうことになるから、脱げないように、きつく締めた。今度は大丈夫だろうと思った。ストックのゴムキャップを外すことも忘れなかった。
私は準備を終えて、さらに休憩もした。雪渓上では休憩することができないと思ったので、少し長めの休憩を取った。何人かの登山者が先行していったが、あとから来て叱られた先ほどの男性は、なかなか出発しなかった。すでに準備を終えているようだったので、出発しないことが私には少し奇異に見えた。四十後半に見える彼は、同じ単独行者の私が出発するのを待っているのだろうかと思ったが、私がなお動かずにいると、やがて出発していった。さらに続いて、五十代くらいの男性二人組が出発した。こちらは、よほど慣れているか無頓着かで、そこらの低山に登るのとほとんど変わらないような格好であった。
私はそんな彼らに続いて、いよいよ大雪渓へと踏み出した。
二、三歩進んですぐ、私はおやと思った。雪面はこれまでの雪渓とは打って変わって、柔らかかったのだ!特に力を入れずとも表面が適度に削られて、それがために靴のグリップがよく効いた。むろん、軽アイゼンの爪も然りである。これならいけると思った。仮に多少足元が滑ったとしても、すぐに転倒するほどではないし、ましてや全身を持って行かれるような傾斜もなかった。私が大雪渓で最も恐れていた「滑落」というリスクがなくなったのだ!
それからというもの、私はこの白馬大雪渓という、日本で随一の雪渓登山道を楽しむことに努めた。カールの谷を埋め尽くす雪。土砂で表面は汚れているが、それ以上に雪の割合が大きくて、おびただしい白さがずっと前方へ続いている。谷はやや右へカーブしているが、そのずっと先まで雪渓は続いているようである。雪上をゆく登山者の姿が点々とそのカーブの先へと連なっていて、言いようのないスケールの大きさを感じた。
しかし、滑落の要素一点だけをもって雪渓のリスクを語ることはできない。私は雪渓のスケールを楽しみながらも、聴覚の意識は右後方に向けていた。右後方、その方向には杓子岳があり、その方向からの落石こそ、恐れるべきリスクであった。雪渓に踏み込む以前から、杓子岳の方向から時折カラカラと乾いた音が聞こえていた。稜線付近ではそうして落下音が聞こえるが、それが雪渓上まで転がり込んできた場合、雪によって音が消されて落下してくるのである。登りであれば、見上げながら様子を確認することができるが、下りの場合は無音で背後から迫りくる落石を見る術がないから、耳だけが頼りであった。カラカラという嫌な音が聞こえるたびに、私は立ち止まって背後を振り返って確認した。
それでも、自ら察知できる範囲は限られている。だから他の登山者がラクと叫んでくれるのを頼るしかない。結局のところ、落石を避け得るか否かは運に依る部分があった。そして、それを逆に考えるならば、この広大な雪渓上で、私の座標点と落石の座標点とが同時刻に重ならなければ事故にはならないということだった。数学的に考えた時、そのような確率は極めて低いだろう。だがそれでも現に事故に遭う人がいるのも事実だ。リスクを回避するために可能なことは全てやり、あとは受け入れるしかない――私はこんなことを考えつつ、雪渓を下っていった。
(後方の杓子岳からの落石が気になり、時折振り返って後方に注意を向ける。)
雪渓上の歩行路は、何人もの登山者に踏まれて、歩きやすい歩幅分のステップが形成されていた。雪渓の半ば頃になると、登ってくる人たちの姿もだいぶ多くなった。早朝に猿倉を出発したのだろう、下るに従って、上がってくる人が多くなった。柔らかい雪のクッション作用によって膝をそれほど心配する必要がなく、すいすい下っていく私と違って、彼らは雪渓の直登に苦しんでいる。そのために、下を向きがちな彼らが私の姿を発見するのは遅れるから、対向者が来るときには私がルートを横に外れて、踏まれていない雪面を下った。そんな部分は固まった雪の凹凸が歩きにくかったが、アイゼンはよく効いて、ほとんど問題なく進むことができた。
私が雪渓に踏み込む時に先行した男性一名と二人組は、私の前方にいて、すぐに追いついた。追い抜いてもよかったが、歩きやすい下り斜面では、皆がそれなりの速度で下ることができるため、追い抜いても突き放すことができない。その先で止まりなどすればまた互いに抜くことになってお互いに迷惑である。そこで、彼らに追いつくそんな時には、私は立ち止まって雪渓の写真を撮った。歩行自体は比較的単調だったから、しばしば立ち止まらされることは、かえって写真を撮るいい機会になった。
雪渓上の歩行路が、風の通り道に重なった。とたんに、雪によって冷やされた心地よい冷気が身体を包んだ。重力に逆らって足を踏ん張る下りの局面では、意外に熱が身体に溜まるものである。この日の服装も、昨日に続いて、薄いアンダーシャツの上にレインウェアを羽織っているだけだったが、それでもやや暑いと感じていたから、そんな折の自然の冷気は、たいへんに気持ちが良かった。
(長い大雪渓を下る)
雪渓のカーブの部分を折れると、ようやく、夏道との接点らしき箇所が下方に見えた。雪渓はまだその先まで続いていたが、登山者の列が右手の緑色の部分へと連なっているので、そこがルートの終点だろうと分かったのである。それと同時に、ますます多くの人が次々と登ってくるのが見えた。この日は土曜日だったので、猿倉から上がって週末を白馬岳で過ごそうという人々が多いのに違いなかった。その中に、十五名ほどの、全く同じ装いをしたグループがいるのが目に留まった。近づくと、どうやら高校生の登山部のようだった。しかも全員が女の子である。私は例によってルートから外れて、彼女らに道を譲った。彼女たちは元気な声で私に礼を言いながら過ぎていった。まだまだ遠いぞと思って、がんばりやと声をかけたら、彼女たちが一斉に明るい声で答礼をくれたので、私も明るい気分になった。
終点に近づくにつれて、あちこちに大小の石が転がっていた。ルートを挟むように左右に散らばっていて、やはり落石が登山道を襲うこともあるのだと思った。中には、私のザックほどの大きさの石もある。こんなのが頭上から襲ってきたらひとたまりもないだろうと思った。
そして、クレバスも出てきた。現実に自分の目でクレバスを見るのは初めてだった。雪の割れ目、とは知っているが、この雪渓の厚みの分だけ割けているのだ。ちょうど、ルートがそのクレバスを避けて迂回するポイントがあり、そこからのぞき込んでみると、ゆうに二、三メートルはありそうな深さだった。もし雪渓で滑落した場合、一気に数百メートルを滑って、最終的にはこの割れ目へ叩き落とされるという寸法であった。今日のような雪質だったからこそその恐れはなかったが、初春期においてはおそろしい魔物だろうと思いながら、迂回路を進んだ。迂回路は、雪渓を外れて山の斜面を通るように設置されていた。山側から雪渓を見ると、ちょうどその雪渓の下が融けてブリッジ状になっているのがよく見えた。雪渓上から見ただけでは、その下が空洞になっているなど思いもしないであろうと思った。
長かった白馬大雪渓も、ついに終わりを迎えた。そこには、これから上がろうとしてアイゼンを付けている登山者が大勢いた。私はその中の一人から、大雪渓をバックに写真を撮ってくれと頼まれて、撮ってやった。私も、これを下りきったのだという気持ちから、同じアングルで写真を自撮りした。大雪渓の下りは、時間にして約一時間だった。稜線の上部はあいにくの濃霧だったから、青空と雪渓という絶景を見ることはできなかったが、この時はそんなことなど考えもしなかった。たいへん大きなスケールの中を歩いた喜びと感動が大きく、心底満足していた。あれほどに心配した大雪渓を無事に通過したことも、大きな喜びだった。この先はもう危険個所はないのだという、絶大な安心感があった。
私はここでアイゼンとヘルメットを脱いだ。ストックにも再びゴムキャップを付けて、雪上装備を終えた。その先は樹林帯の中の登山道となった。細い道の中を次々と登山者が上がってくる。そのたびに道を譲りながら下りた。辺りにはいくつかの高山植物が咲いていた。とうとうシラネアオイを見ることはできなかったが、この辺りでサンカヨウの群落を見た。白くて透き通るような花弁がまるで精巧なガラス細工のようで、たいへん美しかった。
三十分ほど歩くと視界が開けて、白馬尻小屋に到着した。そこは大勢の登山者で賑わっていた。これから天候が崩れるというのに、こんなにも多くの人が登ろうとしているということは、一つの感動であった。私は一角のベンチに腰を下ろして、行動食を食べた。あとは猿倉まで多少の行程を残しているのみだが、行動食はまだなお残量に余裕があった。持参してきた量はこれで充分だったと思った。
休憩しているすぐそばに、先行していた男性一人と、二人組がいた。二人組のうち一人が、もう待てないと言い出して、缶ビールを買って飲み出した。その気持ちはよく分かった。小屋の前面には水槽があって、ビールやジュースなどが冷やされていたのだ。それを見ては、そそられない者はいないだろう。だが私はまだ道半ばであるから、さすがに我慢した。おそらく彼らはこの先がいかなるルートなのかを熟知しているのだろう。だからビールを飲んでも支障はないと判断したに違いない。もしそうでないとしたら、あまりよろしくない行為だと言わざるを得なかった。大雪渓を前にして、ここでも登行者のために軽アイゼンを販売していた。見ると、白馬山荘で購入したものと全く同じもので、料金も同じだった。ただしここではレンタル扱いはなく、購入のみとのことであった。
小屋の向こう側、下ってきた方向を見ると、樹林帯の上方に白馬大雪渓が見えていた。小屋の前の広い広場からも、雪渓が見えた。美しい大雪渓も、これが見納めであった。
小屋をあとにしたが、写真を撮るなどしてゆっくりしていたせいか、さっきの二人組が私の直前にいた。しばらく後について歩いていたが、あまりに遅いので閉口した。道を譲ってくれればいいのにと思って、熊鈴を鳴らしながら直後をついて歩いたが、なかなか気がついてくれなかった。そのうちに一人が遅れ出して、しかも急にペースダウンされたので困った。きっと酒を飲んだ方だろうと思った。だから言わんこっちゃないと思ったが、とにかく前を塞がれているのが非常に迷惑だった。仲間の方は彼がペースダウンしたことにすら気がつかず、どんどん先行している。
下からも次々と人がやってきた。登ってくる人とすれ違う時、少し傍らに寄るので、その隙に彼を追い抜いた。しばらく進むともう一人の仲間がいたが、彼の方は足取りがしっかりしていた。彼もまた後方に対する配慮がまるでない様子だった。ずいぶんとさっきの仲間を引き離して先行しているが、まったくそれに気づく気配がなかった。それどころか、きっと私の足音が仲間のものだと勘違いしているのではないかと思ったほどで、しばらく行くと、案の定、振り返って私に話しかけようとした。するとそこに別人(私)がいるので、彼はそこでようやく気付いて立ち止まった。私は彼がびっくりするのを尻目に、道を譲ってもらえたという体で、ありがとうございますーと言って通り過ぎた。
二十分ほど下ると、細い道が終わって林道となった。そこに一台のトラックが停められていたので、おそらく白馬尻小屋のものだろうと思った。もはや車も通れる林道であるから、十分な幅があるし、平らにならされて歩きやすかった。もう下山だなと思った。私は歩きながら、ストックを短く縮めた。もうストックは使わないだろうと思ったのだ。標高を下げたせいか暑くなったので、歩きながらレインウェアを脱いで、薄いアンダーシャツ一枚になった。
朝一番で猿倉から上がってきた人たちの集団は、ちょうど白馬尻小屋から大雪渓の取付きの辺りまで進行していたから、その集団が過ぎ去った時間帯の今、このあたりの林道には、人影がまばらだった。広い林道をすたすたと歩いた。なんの面白味もない道だったが、半袖一枚になって涼しい格好で歩くのは気持ちがよかった。ちょうど、ぽつぽつと雨が降ってきたが、レインウェアを着るほどの雨ではなかった。私は半袖のアンダーウェアのまま、小さな雨に打たれるのに任せて歩いていった。
時折ちらほらと上がってくる人に出会ったが、下山する人の姿はなかった。さっき追い抜いた二人組のほか大雪渓以来のもう一人の先行者は、私が白馬尻小屋に着いて間もなく出発していったので、もっと前方にいるものと思われた。その時、前方に、赤いレインウェアを着た別の人がいるのが見えた。彼は前方の林道の脇で何かをしてから、再び前進した。何があるんだろうと思いつつその付近へ至ると、そこには水汲み場があった。飲んでみると、冷たくてうまかった。
水汲み場を通過すると、林道が少し広くなった傍らに、中部山岳国立公園の碑石が立っていた。その真横に道があり、そこから林道を離れて樹林帯へと入るのであった。入口は鬱蒼としていて、碑石がなかったら見落としそうな場所であった。林道をそのまま進んでも猿倉へは行けるのだが、かなり遠回りになってしまうのである。
樹林帯に入ると前方にさっきの赤い人がいて、そのさらに向こうに、大雪渓以来のもう一人の先行者がいるのが、樹間に見えた。それだけでなく、右下に建物が見えたのだった。ついに猿倉に到着したのだと思った。味気ない林道を経て下山地点に至るよりも、最後はこうして森の中を歩くことができてよかったと思った。だがその時、雨がやや強くなってきた。幸いにして樹林帯にいるので、降り始めの今は樹林が傘になって、直接身体に雨が当たるまでには少し間があるだろうと思い、そのまま進んだ。下方の建物が近づいてくるのが分かり、そこに着くまでの辛抱だと思った。
しかし樹林帯を抜けて小屋まで数十メートルという時、雨がざっと降りだした。私は目の前の小屋へ向かって走った。ほんのわずかな距離だった。小屋のテラスの屋根の下に駆け込んだとき、とたんにざあっという雨音が辺りを包んだ。先行していた二人と目が合って、ぎりぎりでしたねと笑い合った。猿倉に到着したのは、九時十五分であった。
(運よく、本降りの直前に猿倉荘の軒下に入ることができた。)
テラスの一角に登山案内のブースがあって、数名の人が話をしていたが、出発時刻としてはだいぶ遅い時間帯なので、猿倉は閑散としていた。バスが来るまでにはまだ一時間ほどの余裕があった。私は前もってその時刻を把握していたが、下山時刻を調整するために下山速度を緩めることはしていなかった。それは降雨を予想したからではなく、単に下山後の時間をゆっくり楽しもうと思っていたわけだが、結果的には雨が本降りになる直前に小屋に到着できたことにつながった。
私は、持参してきたおしるこを飲もうと思っていた。唐松岳では疲労のあまり飲まなかったり、白馬岳ではコーヒーを選択したために、おしること甘酒がそれぞれ余っていた。雨だがテラスの屋根があるし、人が少ないためテーブルを広々と使えるのがよかった。私は四人掛けのテーブルを贅沢に一人で占めて、湯を沸かした。湯が沸くまでの間、余った水を外に捨てた。本当に、水に気を遣った山旅だったと思った。
湯が沸いて、フリーズドライのおしるこに湯を注いだ。うまかった。雨の降る中、こうして下山のひと時を、温かく甘い飲み物を飲むのは小さな幸せだった。
おしるこを飲みながら、先着していた二人が話しているのを何気なく聞いていると、赤い服の男性が不帰嶮の話をしているのがふと聞こえた。私がそれに気づいた時、「…もう一人いましたけど、このルートはもう、下りには使わないと思いました」と彼が話したので、あれっと思って顔を上げた。聞き覚えのある台詞だった。その“もう一人”というのは、私なのではないかと。
すると同時に彼も私の方を振り返って、目が合った。目が合った瞬間、雨の中のあの急下降の情景と苦しさ、そして降りきった時の達成感とが、まざまざと蘇った。
それは彼にとっても同じだったに違いない。「――ですよね!」目が合ったのを受けて、彼がそう言った。
”あの時の方ですよね”、彼はそう言ったのだ。きっと、話しているうちにその時のことを思い出し、いま一緒にいる私の姿と重なったのだろう。私も笑って、あの時の方ですよねと、彼の台詞を復唱した。とたんに、彼はあの場面を思い出したのか、笑いながら話し出した。
「いやー、ぼくがキジ撃ってた時の人だー」
「雨できつかったですね!」
「なに言ってんですかー、あの後さっさと行ってしまったじゃないですかー」
「いえいえ、もうふらふらでしたよ」
「また!すぐ見えなくなっちゃいましたよ」
彼はそんなふうに話しながら、会話が急に中断したために、あっけにとられて見ているもう一人の男性に向かって、この方でした、と言った。不帰嶮にもう一人いたという段で会話が途切れてしまったから、それが私だったと伝えたのである。
それから彼らと三人で話をした。大雪渓以来の人はあまり自分の話をしなかったが、不帰嶮で出会った男性は明るく多弁だった。彼はロープウェイから八方尾根を上がって唐松岳へ至り、不帰嶮から白馬岳へ縦走してきたとのことだった。車が八方に置いてあるとのことだった。私も行程を聞かれた。
「…あなたは、どこから?」
「扇沢から縦走してきました」
「扇沢?」
不帰の男性が聞き返したが、大雪渓の男性がそれを聞いて驚きの声を上げた。
「どこ?」
不帰の男性は扇沢を知らないようで、地図を広げ、大雪渓の男性へ尋ねた。彼は地図を一瞥して、これには載っていないと言った。その地図は「白馬岳」の地図だったようだ。その地図ならば、かろうじて唐松岳が南端に掲載されているだけだから、それよりさらに南の山域は「鹿島槍・五竜岳」の地図を見なければならないのだ。
「何日かかりました?」
大雪渓の男性が、初めて私に話しかけた。
「…三日、ですかね。今日を入れて四日かな」
「早い!」
不帰の男性は地理が不明なために狐につままれような表情をしていたが、大雪渓の男性が、改めて彼に、いや早いですよ、と補足した。
あまり私の話をすると自慢しているような気がするので、私は問われたこと以外は話さなかった。そのうちにおしるこを飲み終わったので、会話が落ち着いた頃合いに片づけを始めて、彼らの会話から抜けた。
その後も彼らは話をしていたが、どうやらバスを待つのにしびれを切らしたようで、タクシーで帰ることを検討しているようだった。山小屋前のバス停広場には、下山客目当てのタクシーが数台停まっていた。ここから白馬駅まで四千円だから、三人で割れば千円強で行けるんだけどと、私も相乗りを誘われた。しかし、ここで急いでも結局は京都行のバスを待つことになるため急ぐ理由がなかった。そこで、すみません、お金がぎりぎりなので、と、私が実際の年齢より若く見えることを良いことに、金に余裕がないことを理由にお断りした。実際、意味もなく急ぐために余計な金は使いたくはなかった。それから彼らはしばらく相談していたが、結局二人で乗ることにしたらしく、私に合図をして、去っていった。
片づけを終えて荷物を整理していると、次々と下山者がやってきた。本降りの中を下りてきた人々は、ずぶ濡れだった。私は邪魔にならないよう、テラスのテーブルの中で一番登山道寄りに座っていたが、登山道を下りてきた男性が私に写真を撮ってくれと声をかけてきた。彼はずぶ濡れの姿で、びっしょり濡れたスマホを差し出しながら、この雨の中を歩いてきたんだぞ、という感じで撮ってくださいと注文して、ポーズを決めた。それを聞いて、私もあの雨の中、不帰嶮の難所を越えてきたんだぞと思いつつ、快く彼の注文に応じて、撮りますよーと言って撮影ボタンを押したが、スマホは反応しなかった。それを彼に示してスマホを渡したが、どうやらびっしょり濡れたために一時的にタッチパネルが麻痺しているようで、いくら操作しても反応しないようだった。そのうちに、ごめんなさい、いいです、と彼は諦めて、去っていった。
彼が急いで去ったのは、車が来ましたよーという誰かの声がしたためだった。急にがやがやと下りてきた人々はどうやら団体だったらしい。私は彼らを見送りつつ、することがなくなったため、猿倉荘の中に入って土産物などを見物した。スタンプが置いてあったので、押させてもらった。
ふと気がつくと、小屋前の広場にバスが停まっているのが見えた。しかも、ぞろぞろとそちらへ歩いている人たちが何人もいる。出発までにはまだ時間があるはずだが、バスが早めに来ていたのかと思った。立席になったら困るので、私も慌ててそちらへ下りた。
小屋前の広場は、山荘より一段低いところにあった。バスに近づいた時、おかしいなと思った。行き先が表示されておらず、どう見ても路線バスではないのである。もしかしたら先ほどの団体が調達したバスではないかと思って、念のためそこにいた人に、白馬駅行ではないですよねと尋ねたら、はたして違うということだった。
また猿倉荘へ上がるのは面倒だったが、ちょうど小屋から見下ろして死角になる位置にバス停があり、簡易テントとベンチがあったから、そこで待つことにした。すでにそこで待っている年配の人が一名いた。彼の隣に腰を下ろしながら、バスは十時十五分ですよねと聞いたところ、時刻は知らないけどそのうちに来るだろうと、なんとも気長な回答だった。
マイクロバスが出ていき、さらに二名がバス停に現れた頃、正面に二台停まっているタクシーのうちの一人の運転手が、どちらまで行きますかと私たちに尋ねてきた。私は八方のバスターミナルだと答え、あとから来た二人は白馬駅だと言った。最初から待っていた気長な人は、タクシーには乗らないと頑なであった。運転手は、三人でも一人千円ずつでいいですと言ってくれたので、片道四千円にしてはずいぶん値引いてくれたものだと思った。しかしバスの料金と比較しておこうと思い私の計画書を見てみると、バスは九百三十円だった。わずかな差ではあったが、あと数分待てばバスが来るので、やはり無駄だと思った。私がそのように言うと、それならば九百三十円でよい、と彼がさらに値引いてくれので、そこまでしてくれるならばとタクシーに乗ることにした。
タクシーは、思った以上に長い距離を走った。次第に山間部から町へと風景が変わっていって、白馬スキー場のジャンプ台が見えた頃、タクシーが停車した。私はその近辺にある「八方の湯」という施設で入浴した。
四日ぶりの入浴であった。雨で天候が悪く、気温も高くなかったから汗はそれほどかかかなかったが、やはり気持ちが悪いことには変わりない。入浴中、耳の後部が日焼けで痛いことに気がついた。陽射しを受けたのは五竜岳から唐松にかけて歩いた二日目の午後だったが、おそらくそこで日焼けしたのだろう。首の後ろは日焼け止めを塗っていたのだが、そういえば今回はずっとキャップをかぶっていたのだと思い当たった。私はほとんどの山行で、基本的につば広のハットをかぶっているから、これまでついぞ耳が日焼けしたことはなかった。今回は主要な箇所でヘルメットをつけることから、あえてキャップにしたのだが、それによって日焼けする部分が変化するという点にまで配慮が回らなかったのだった。
まだ十一時だったので昼食には間があった。私は「八方の湯」の中の土産物売場をひととおり眺めた後、軽食コーナーでビールを飲むことにした。また、腹も減っていたので、ちょうど手ごろな値段だった焼きおにぎりも所望した。下山後の一杯――。これほど感動的なものはないだろう。冷たいビールが、ことさらにうまかった。
食事を終えてバスターミナルへ戻った。あとはもう、切符を買って帰るだけだ。バスの時刻までにはまだ一時間以上の余裕があった。私はバスセンター内の土産物を物色してから、センター内の腰掛に座りながら、ぼうっとして待った。やがてバスがやってきたので、乗った。この便は、急遽計画を変更して取った便である。予約したとき、座席に余裕があると聞いていたが、たしかに、ほぼガラガラの状態だった。バスは弱い雨の中を出発した。乗客を乗せているというのに、途中でガソリンスタンドへ寄るなど、ずいぶんとのんびりしたバスだった。
右手に、青木湖と、次いで木崎湖が現れた。地図で想像していたのとは違って、静穏でのどかな湖だった。バスはそれらの湖を横手に見ながら走った。その奥に、緑色の山裾が見えている。後立山連峰だ。雨だから、裾野しか見えない。上方は真っ白な霧雲である。
行きのバスでも通過した穂高駅にやってきたとき、この先は見たことのある風景になるのだなと思った。そして、見覚えのある場所なんだと思った時、私は同時に、今回の山旅が終わったのだと感じた。後立山連峰は、相変わらず白い霧の中だった。その山上で格闘した四日間の出来事が、まるで私ではない、遠い世界のことのように思えた。下界でバスに乗っている私が見る後立山連峰と、記憶の中のそれとが、どうしても重ならなかった。
その時の思い出を実感として感じるためには、きっと、下界のこの地域からいったん離れなければならないのだろうと思った。またいつか、新しい思い出を作る日がやって来ることを願いつつ、私は流れていく車窓の山々を見つめていた。
終
記:2017.8.10~2017.10.15