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後立山連峰縦走紀行 ~2017年7月~  作者: たかの りつと
11/12

【10.強風】

 ビールを飲み終えてもなお十分な時間があった。一度スマホの電源を入れてみたが、圏外となっていた。私は日記を記してしまうと、また例によって、何をするということでもなく、ぼうっとしながら時間を過ごした。そんな時間がとても快適だった。

 気持ちの良いリラックスした状態で、温かいものを飲もうと思った。昨日飲まなかった甘酒と、今日飲むつもりだったおしるこがあった。しかしビールを飲んだ直後では、甘いものはあまり気が進まなかったので、コーヒーを飲むことにした。インスタントコーヒーを約二杯分、小さな袋に入れて持ってきている。私は湯を沸かしてコーヒーを入れた。抜きん出てうまいわけではないが、高山で温かいブラックコーヒーを飲むのは至福の時間であった。

 私がコーヒーを飲んでいると、大きなザックを背負った男性が一人、私のテントの隣の空地にやってきて、相当疲れた表情でテントの設営を始めた。見覚えのある人だった。先ほど白馬岳の山頂で私がようやく方向盤をゆっくり眺められた時に、北の栂池方面から上がってきた人ではないかと思った。先ほどは他にもメンバーがいたようだったが一人である。私は見るともなく彼の動作を眺めていたが、声をかけてみようかと思った頃、もうテントを張ったの、と言いながら若い女性が現れたので、私は声をかけるタイミングを失った。どうやら親子らしく、娘に先行してテント場に到着し、テントを設営していたようだった。

 そのうちに、ガスによってぱらぱらと雨粒が運ばれてきたので、干していたものをテントの中に入れた。想像した通り、分厚い靴下はほとんど乾いていなかった。私はもう一足、予備の靴下を持ってきている。靴の中も濡れているから、そこに新しい靴下を突っ込むと濡れてしまうのが嫌だったが、明日は下山するだけなのだから、それでもよいと思った。帰りのバスの車内では不快だろうが、致し方ないであろう。

 雨が落ちてきたので、私はレインウェアを羽織った。今日は結局一日中、その下は薄いアンダーシャツ一枚だけの姿だった。汗が表皮に戻らない構造のシャツだから、レインウェアを着て直接風が当たらないようにすれば、行動中は寒くなかった。しかしこうしてじっとしていると体温は下がる一方だし、時間の経過とともに少し気温が下がってきたので、テント着に着替えるタイミングで長袖を着た。

 この日も四時頃に炊事を始めた。最後の最後まで、フリーズドライ食品を用いた雑炊である。今日はビーフシチューだった。通常の食用法は、湯で戻してこれ単独で食べるのだろうが、そんなことにはお構いなく、アルファ米を戻したご飯の中にビーフシチューの塊を入れて、水をさらに少し加えてひと煮立ちさせたら出来上がった。ビーフシチューとも雑炊とも呼べる料理ではなかったが、食べてみると、味の濃いビーフシチューにご飯がよく絡んで、食欲を維持したまま食べることができた。こうして、三食分のアルファ米の袋はきれいに空になった。

 食事を終えても、山小屋に指導員の人が来る時刻まで少し時間があったので、シュラフを広げてテントの中で横になった。テント越しに、先ほどの親子が夕食を作ってわいわいやっている声が聞こえてきた。ずっと単独行で来ているせいか、グループで来ている人たちの会話が少し羨ましく思った。反対隣には学生らしき青年ら四名ほどのグループがいて、そちらでも夕食を作っている様子が聞こえた。テントの中で、周囲から聞こえてくる会話を耳にしながら、寝転がって時間を過ごした。

 五時になったので、ビールの空き缶を捨てるために受付所に寄りがてら、小屋へ向かった。小屋の正面入口は東側の大雪渓の方向を向いていて、なおかつテント場より低い位置にあったので、ぐるりと回り込むようにして正面へ回った。横に食堂棟があり、ここで生ビールを飲ませてもらえるのだなと思った。後立山の稜線尾根より東側に位置するこちら側の斜面は、陽光が尾根によって遮られるために、辺りがほんのりとくすんだような色合いになっていた。だから濃いガスは、ややもするとねずみ色に見えた。

 正面から入って、左手の受付の人に、常駐の指導員の人がいると聞いたんですがと尋ねてみた。すると、うしろですと言われ、振り向くと簡素な長机が置かれていて、登山指導と書かれた幟が傍に立てられた所に、一人の人が座っていた。正面から入った時に右を見ていれば気づいたのだろうが、私はなぜか気がつかなかった。

 その人を一目見て驚いた。指導員という肩書から、私は屈強なベテランの山男を想像していた。しかしそこに座っていたのは若い女性だった。そのため少し心もとない気がしたが、尋ねた。

「…今日、唐松から縦走してきたんですが…」

 私の言葉を聞きながら、彼女は頭に地理を思い浮かべるような表情をしてから、いくつか持っている地図の中から素早く目的のエリアのものを取り出して、白馬山域を広げた。その様子を見て、これならば真剣に相談できると思った。私は、明日大雪渓を下るのだが四本爪アイゼンで大丈夫だろうかと尋ねた。すると彼女は、白馬山荘でレンタルしているアイゼンは四本爪だし、中にはノーアイゼンで下る人もいるほどだと言う。まさにそのアイゼンを上でレンタルしてきたのだが、四本爪は初めて使うこともあって不安だ、と正直に悩みを話した。彼女は、たしかに四本爪は接地面が小さいですからねと相槌を打ってくれた上に、凍っているわけではないですから、と言ったので、私はその言葉に大きく安心した。凍っていないのであれば、まあ注意しながら行きます、と言って去った。凍結していないということは極めて重要であった。もちろん時刻や気象によって状況は変わるから、どの程度の雪面なのかは明日行ってみないと分からないが、指導員の人がそう言うからには概ねそのような状況だと思って差し支えないだろう。

 背後の受付の人に記念スタンプを聞いてみると、食堂に置いてあるとのことだったので、棟続きになっている先ほどの食堂棟に行った。まだ五時半頃だったので、席は半分ほど空いていた。テレビはここに設置されていた。明日は曇から雨へと変わる予報だった。外の濃いガスの様子を見ても、今日のうちに白馬岳の山頂へ行っておいて本当によかったと思った。計画通りに明朝登っていたとしたら、きっと何も見えなかったであろう。食堂棟の外部入口のあたりに記念品を置いてある一角があって、そこにスタンプが置いてあった。私はそれを押して、外へ出た。ここでスマホの電源を入れてみると、電波がつながった。裏手のテント場では圏外だったが、こちらの東側斜面の先端で、長野側から来る電波をぎりぎり受信できたのだった。

 私はテントの中に戻って、シュラフに入った。まだ眠るには早すぎたが、もはややることはないし、薄暗くなってきたので、寝転んでぼうっとしていた。少しずつ、風が強くなってきた。

 隣の親子のテントから、何やら驚きの声が上がった。なんだろうと思い、聞こえてくる彼らの会話を耳にしていると、どうやら彼らは家族四人の一行で二組に分かれて宿泊しているらしく、ここには父親と一人の娘、そして上の白馬山荘に母親ともう一人の娘が宿泊しているようだった。彼らが驚きの声を上げたのは、上の宿所から、もう一人の娘がわざわざ差し入れを持ってやってきたらしい。暗くなりつつある中を娘が一人でやってきたのだから、驚くのも無理はなかった。彼らは三人でしばらく明日の集合時間などを話した後、静かになった。やってきた娘は、これからまた上の白馬山荘まで登って戻るのだろう。

 それからは比較的静かだった。代わって、反対の学生たちの話が聞こえた。一人がゲームをしているらしく、山に来てゲームか、と仲間が可笑しげになじっていた。私も先ほど小屋前で電波を受信した時に少しゲームを覗いていたので、彼らのそんな会話に苦笑した。みな、思い思いのことをしながら、暮れゆこうとする山の薄暮の時間を過ごしていた。

 風が本当に強くなってきた。すでに、相当明確なうなりが聞こえている。遠くで風のうなりが聞こえると思うと、次の瞬間、すさまじい風がテント場に落ちてきた。西の富山方面から吹いてきた風が稜線を越えて、東側の斜面へ吹き下りてくるようだった。窪地のテント場だからこれでもましなのだろうが、今回の山行中で一度も経験しなかったほどの強風だった。

 風が押し寄せてくると、テントがひどくたわむほどだった。強さはどんどん増して、うなりは轟音となった。上空の轟音の数秒後に、テント場を風が襲った。その都度テントが激しく揺れて、時折、中央で横になっているはずの私の頬にまでテントシートが触れた。暗いテントの中で、そんな轟音と振動にさらされた。誰かが置きっぱなしにした空き缶の転がるカン高い音が、いつまでも聞こえた。周囲には数十人がそれぞれのテントを張っているはずなのに、テントの中にいる私には、彼らの発する音は何一つ聞こえなかった。だからまるで、恐ろしい環境に独りだけが取り残されているような錯覚がして、不安と恐怖ばかりがつのった。雨までもが降ってきて、不安はますます煽られた。今は私の体重で保持しているが、私がテントから出たら、とたんにテントが飛ばされるのではないかと思った。

 七時頃、風の合間を縫って、トイレへ行くために外へ出た。すでに日は落ちて真っ暗だが、周囲のテントから漏れてくる光によって、まずまず見える。

 外へ出て、まずテントの状態を確認してみると、張り綱の先に結んでいた石は強風に耐え切れず全て動かされてしまっていて、張り綱がたわんで全く機能を失っていた。無風状態の時に適当に設置したものだから、それもそのはずだった。私は周囲から、今度は両手で抱えないと持てない大きな石をいくつか集めてきて、それらを使って張り綱の固定をやり直した。四本の張り綱がぴんと張って、ずいぶんと耐風能力が増強したように見えた。フライシートの引き綱を掛けていたペグも、ずれるか抜けるかしていて、フライシートとテント本体とが密着してしまっていたから、こちらも大きな石でペグを固定し直した。これでずいぶんと強度が上がっただろうと思って、テントを離れてトイレを済ませた。

 テントに戻り、シュラフに潜り込んだ。もう寝るつもりだった。しかし相変わらずの風で、とても眠る環境ではなかった。あれだけ強度を上げたつもりだったが、不安が消えるものではなかった。

 風の轟音の中でじっと耐えるしかないのはつらいものだった。テントとフライシートの間の前室に靴を置いているが、フライシートが風でまくり上げられて、靴が雨ざらしになるという想像が頭の中に浮かんだ。それを考え出すと気が気でなくなり、とうとう起き上がって、靴をテントの中に入れた。もちろんテントの中が汚れてしまうから、レインウェアのズボンを四角にたたんで隅に敷いて、そこに靴を置いた。

 風はいつ果てるとも知れなかった。ゴーという轟音が聞こえたかと思うと、さあ強風がやって来るぞと身構えざるを得なかった。身構えたところで、風に煽られるテントが耐えて風が去るのを待つしかないのであるが、そうやって断続的に緊張を強いられるから、とても眠れたものではなかった。

 それでも、疲労のおかげで多少は眠ることができた。しかしそれも束の間で、すぐに轟音やテントのきしみによって起こされた。眠っている傍で轟音を聞かされ、絶えず揺り動かされているようなものだから、それもそのはずである。しかも、テントが壊れるのではないかという不安があるから、脳が緊張して休まらないのだった。周囲の人たちも同じように怖い思いをしているのだろうか、などと思いながら目を閉じて我慢した。前の二泊と比べてこの日は寒く、シュラフにしっかり入って耳を塞いだ。明日の朝も、今朝の唐松と同じような雨の撤収になるのだと思うとまた別の不安がやってきた。それに加えてこの強風なのだから。テントが飛ばされないように、どういう順序で撤収しようか、そんなことも考え出すと、眠れなかった。時々疲労が眠りに誘っては、またすぐに起こされる。そんな繰り返しが続いた。



七月二十九日(土)【四日目】


 今日は下山するだけの予定であるため、五時に起床する予定だった。五時というのは今回の山行中で最も遅い時刻にも関わらず、まるで眠れた気がしなかった。というより、実際に眠れていなかった。かろうじて、一時間程度の睡眠を三回ほど、断続的にとっただけだった。この時も、風の轟音によって五時よりずっと早くに起こされてしまっていて、なんとか眠ろうとじっとしていたが、眠ることができずにとうとう五時を迎えてしまったというのが真相である。眠れない焦燥は、ともするとやり場のない苛立ちにつながるものだが、目を閉じて横になっていたことで多少は回復できただろうと自分に言い聞かせて、その苛立ちを消化した。

 シュラフから出て着替える間、私は外の気配をうかがった。五時だから、すでに天幕がうっすらと白んでいる。すでに起床して出発の準備をしている人たちの物音が聞こえてきていた。そんなことより、私が耳を傾けたのは上空の風音だった。一時間ほど前から唸りは聞こえなくなったようだったが、あの魔物のような叫喚が、またどこかから聞こえてくるのではないかと恐れたのである。だが、どうやら風は収まったようだった。

 着替えを終えて天幕を開いた。有難いことに雨もほぼ収まって、わずかに霧雨状の水滴が腕を濡らしただけだった。

 私はコッヘルに水を入れて、ガスバーナーを外に出してライターを押した。点かなかったのでもう一度。そして、また。だが、何度やってもライターは点火しなかった。燃料の残量が少なかったので、ついになくなったのかと思って見てみたが、まだ数回点火するくらいの量は充分に残っていた。

 またかと思った。電子式のライターは、気圧が低いと作動しないことがままにある。これまでと違って昨夜は寒かったし、あれほどの風の様子を見ても容易に想像できるように、きっと気圧のせいで点かなくなったのだと思った。私はこの時のために、フリント式のライターも持参している。それを取り出してやってみたが、こちらは単なる不慣れが原因で、なかなか点かなかった。二度ほど失敗すると、寒さでかじかんだ手でヤスリを擦るのはかなり痛かった。それでますます難儀するという悪循環に陥るのだが、なんとか痛みを我慢して勢いよく何度かやると点いた。

 私は安堵して、コッヘルを火にかけた。それにしても、かつてこの現象に最初に見舞われたのは、かつて台風の中で穂高岳に登山した時である。麓の横尾で過ごした一泊目では使用できたが、二泊目の穂高岳山荘では、標高による気圧低下も加わって、点火しなかったのである。予備のライターを持ってはいたのだが、いずれも電子式というまぬけぶりであった。その時は、登行中に知り合った人と偶然自炊場所で出会って一緒に食事をしようとしていたところだったので、彼がライターを貸してくれて事なきを得た。翌朝も、これまた偶然に彼と出会って、彼が親切に貸してくれたことをしみじみと思い出した。それ以来、私は電子式とフリント式と、着火方式の異なるライターを二種持参していくようになった。

 湯が沸くまでの間、食糧袋からフルグラを入れてあるジップロックを取り出した。この日はあと一食分が残っているだけなので、計量を行なう必要がなく、そのままコッヘルの蓋の上にざらざらと流し出した。その皿がちょうど満たされたところで袋が空になった。そしてカップに粉末みそ汁を入れて、湯が沸くのを待った。

 湯が沸いたので、みそ汁を作り、食べ始めた。この日は極度の睡眠不足から、食欲はまったくなく、咀嚼するのがたいへんだった。とにかく顎を上下させて噛み砕き、あとはみそ汁でむりやり喉を通すといった具合で、無理に食べていった。途中で吐き気すら感じたが、むりやり食べた。

 食事を終えて、片づけをした。あんなに大きな容量を占めていた食糧袋は少量の予備行動食を残してきれいに圧縮され、代わって増えるはずのゴミは、少々のサランラップとジップロックの空き袋、そして調理後のコッヘルを拭くなどして使用したトレペといったたぐいの程度しかなく、容量の点ではまるで問題にならないゴミの量だった。

 私はマットやシュラフなどをザックに収納しておいて、トイレへ向かった。ひどいくささには閉口したが、我慢して用を足し、歯みがきをしてからテント場に戻った。薄明のテント場には残雨にともなう霧がかかっていた。白い靄の中、起き出した人たちがあちこちで作業をしていた。家族が泊っている隣のテントは、中から物音が聞こえていたがまだ外には出ていなかった。一方、裏隣に張っていた学生数名のテントでは、すでに彼らが外に出ていて、食事をしているところであった。すごい風だったと誰かが言っていた。ここに泊まっている誰もがその風に苦しめられたのだ。ただしそれに恐怖するかどうかは個人差があるだろう。心配性で、しかも単独行で来ている私は、おそらく最も怖がったうちの一人だろうなと思って、独り苦笑した。

 さて撤収である。あれほどの風が収まって、雨も、わずかな霧雨が付着する程度でしかないということが、たいへんな幸運だった。撤収作業をするこの瞬間の雨風こそが重要なのだ。この時を平穏な状態で迎えられたことは、厳しかったこの幕営における唯一かつ最大の幸運だった。

 私はテント内でまとめておいたザックを外へ引っ張り出して、そこらに置いた。まずは、ザックを雨対策なしにそのまま外に置くことができることが有難い点だ。次いで、フライシートに付着した雨水をセーム布で拭き取った。ひどく濡れているために、何度も繰り返し布を絞っては拭き取った。雨天下だとそもそもこの行為自体が不可能であり、雨水を含んで重くなったフライシートを担がなくてはならないことは、前日の唐松岳の撤収の段でふれた通りである。フライシートはもちろん、テント本体も、結露を拭き取った。風が収まっているから、ペグを抜いてもテントが飛ばされることがない。これも非常に有難い点だった。

 私が拭き取り作業をしている間、学生のうちの一人がその様子を見ていた。テント場では、こうして水を入念に拭き取っている人はあまりいない。ほとんどの人が、シートやテントをバサバサとはためかせて水を飛ばしているが、拭き取りに勝るものではないだろう。彼はきっと、そんなことを考えながら私の作業を見ているのだろうと思った。

 テントを畳む頃になると、学生たちも撤収作業を始めた。一人が、温泉が楽しみだと言ったから、彼らはこれから白馬三山を縦走して鑓温泉へ下山するのだと分かった。楽しみだと言った彼の言葉を聞いて、羨ましい気持ちがした。今回は鑓温泉へ下る道をとることはできなかったが、いつか行ってみたいと思った。無事に撤収作業を終えることができたことは、私を嬉々とさせた。あれほどつらく怖かった夜の出来事も、終わってしまえばいい思い出話になるだろうとすら思うことができた。

 担いだザックは重い。食糧は徐々に減少していくから、出発時点と比べるなら必ず軽量化しているはずなのだが、体感的には直前に背負ったザックと比較するわけで、一泊程度で減少する食糧の重量は高が知れているものだ。それにまた、朝一番では身体が慣れていないし、疲労が抜けきっていないことも大きな点である。さらに私は靴紐をきちんと結んでおらず、足元が固まらないことも感覚を鈍らせていた。


挿絵(By みてみん)

(テントを撤収した跡地。濃霧が、恐ろしかった夜をわずかに物語っている。)


 私は、緩い靴のまま小屋までの坂を下りた。天気予報を見てから出発しようと思ったのだ。食堂棟に入ると、六時前というそこそこ人の多そうな時間帯でありながら席はまばらだった。もしかしたら、小屋泊の人たちは、この白馬岳頂上山荘ではなく、山頂直下の白馬山荘の方へ集中しているのではないかと思った。私も、小屋で泊まるならば、白馬山荘の方が良いなと思っていた。設備が整って大規模だし、晴れていれば標高の高い方が眺望が良いに決まっているからだ。きっと、考えることは皆同じなのだろう。

 私は食堂の係の人に、天気予報を見させてほしいと告げて、テレビが置かれている壁際近くに座った。係りの人はにこやかに快諾してくれた。天気予報は、九時頃から雨の予報となっていた。先ほどの撤収時は、ちょうど雨の空隙時間だったのだ。下山にはおよそ三時間半かかるから、きっとどこかで雨が降り出すだろうが、雨が行動の妨げになるような箇所はない。問題は雪渓なのだから。

 私はテレビを見ながら靴紐を固く結んだ。ひどく濡れてしまった昨日の靴下は諦め、予備の乾いた靴下を履いたので、足元には昨日のような不快感はなかった。靴自体が濡れているから、やがて靴下も濡れてくるはずだが、昨日ほどの不快感には至らないだろうと思った。

 装備を整えて山荘を出たのはまだ六時前である。ちょっと下って振り返ってみたが、すぐ上の白馬岳頂上山荘は、早くも濃い霧の中に包まれて、半ば見えなくなっていた。本当に、昨日のうちに白馬岳に登頂していてよかったと思った。これほどの濃霧の中をピストンして登頂しても、なんの感動もなかっただろう。

 山荘直下は急な下りが続いた。よく整備された登山道だったが、岩石が主体の道だったので、滑らないようにストックを使って支えながら下った。すでに何人かの下山者がいて、彼らと前後しながら下った。どこかから流れてくる水が、登山道のあちこちを流れていた。きっと随所にある小さな雪渓から流れてくるのだろう。やはり水の豊かな山だと思ったが、歩く上では滑らないよう、気を抜くことができなかった。岩の段差が一定でないこともあって、膝にもつらく、ずいぶんと歩きにくい道だった。時折足を止めて周囲を見た。道の両側は緑で覆われていて、あちこちにいろいろな花が咲いていた。急坂だから、後方を見ると、稜線はあっという間に見上げるほどの位置になっていた。ガスはその稜線付近にたまっているだけで、高度を下げたこの付近は空気が澄んでいた。眼下に広がる大雪渓の姿は、はっきりと見ることができた。

 まもなく、簡易避難小屋があった。巨大な岩塊の岩陰に隠れるようにして建つ小屋を過ぎると、いよいよ白馬小雪渓に着いた。出発してから約三十分後である。斜度四十度はあろうかと思われる雪渓が目の前を遮っていて、そこを横一文字にトラバースしなければならないのだ。雪渓の手前で先行する人が数名座っていて、アイゼンを付けていた。

 いよいよだと思った。私も彼らの傍まで行くとザックを下ろし、昨日購入した軽アイゼンを取り出した。しかしここで問題が起こった。紐をうまく結べないのだ。私は、受け取った時に一見しただけで、これならできると判断してしまったことを後悔した。初めて使用する装備を、何の練習もなしにいきなり危険な本番の舞台で使用するとはいかにも無謀だったのだ。ともかくも適当に紐を通して結んでみたが、どうもうまくロックが掛からないのが不安だった。しかし後の祭りなので、行くしかなかった。

 私はヘルメットを被って、雪渓に踏み出した。平らにカットしてあるので、そこを踏み外さなければよいのだが、雪が固く締まっていて、なにかの拍子に足を滑らせてしまえばどうなるか分かったものではない。やはりアイゼンが浮いているような感覚があって、足を慎重にゆっくりと運んだ。アイゼンが脱げてしまったらという不安がつきまとい、距離にして二百メートル程度しかないトラバースが、まるで綱渡り状態だった。この距離の短さから雪渓を軽視してしまったこともあって、ストックのゴムキャップも付けたままだった。それは、あやしげに固定したアイゼン以外に防御手段がないことを意味している。それどころか、ゴムキャップが滑るとむしろバランスを崩すから、ストックは単なる厄介物に化してしまっていた。トラバース位置から雪渓の下部まで、雪渓の落差は二百メートルはありそうだった。その下は岩場になっているから、滑落すればそこに激突して大怪我だろう。一歩たりとも油断ができない、緊張した雪渓の横断であった。

 無事に雪渓を渡り登山道に乗った時は、本当にほっとした。座ってアイゼンを脱ぎながら、あまりにも危険で、軽視しすぎた行動だったと思った。後続の人がやってくるが、中にはノーアイゼンで渡ってくる人もいた。よほど慣れている人なのかもしれないが、私からみればあまりに無茶だった。


挿絵(By みてみん)

(小雪渓を過ぎて振り返る。雪渓の下方は岩。相当傾斜のある危険箇所だった。)


 小雪渓を過ぎるとまたガレた斜面の下りとなった。下りながら、次に待ち構えている大雪渓に対する不安がつのった。昨日の天狗山荘の雪渓といい先ほどの小雪渓といい、雪は固く締まっていた。昨夜の指導員の人は、凍結はしていないと言っていたが、たしかに凍結はしてなくとも、滑落の危険性を多分に含んだ雪面であった。この先の大雪渓は数キロメートルあるのだ。そんな中を、無事に通過できるのだろうかと思った。今度こそ軽アイゼンはきちんと締めなければならない。ロックが掛からなかったのは、きっと自在金具への紐の通し方を誤ったのだと思いながら、ザックの腰ベルトの自在具を見た。それを見本にしてやれば、きっと大丈夫だろう。次はミスが許されないのだ。

 谷を埋め尽くす長い大雪渓は眼下に見えているものの、そこへ到達するにはなお下る必要があった。おそらく冬の間は、今いる場所もすべてが雪に閉ざされているものと思われ、雪に削られたような細かい岩石が、登山道の至る所にあった。岩場を過ぎてもそうした小石に足を取られる恐れがあり、慎重さを欠くことはできなかった。また小雪渓の様子からも想像されるが、登山道のルート上以外であっても周辺にはいくつかの雪渓が残っていた。そこから流れ出る小川ほどの水流をいくつも越えるのは無論のことであるが、それらの雪渓が融けて地面が露出した境界線付近は地面が安定していないし、現に、大きく崩れた部分の近くを登山道が通っているような箇所は、道が迂回して付けられていた。融雪期のいま、日に日に状況は変わるであろうから、いつ整備されたものか分からない登山道を鵜呑みにすることはできない。自らの目で確かめて、進んでいかなくてはならなかった。そしてそんな小規模の雪渓であっても、下部を通過する際には上方からの落石に注意しなければならなかった。


挿絵(By みてみん)

(いよいよ最後の難所、白馬大雪渓が目前となる。)

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