【9.白馬三山】
四時間もの間、濡れた靴下を履いて歩き続けてきたが、これが相当つらかった。足に重心を乗せるたびに、靴の中で足がぐちゅぐちゅと不快な水音を立てるほど、水浸しになってしまっているのである。
また、霧は時折雨を含んでいたから、私はずっとレインウェアを着たままだった。前述の通りその下は半袖の薄いアンダーシャツのみである。天狗の大下りを越えてからというもの、あまりアップダウンがなかったから、汗をかかない代わりに少しずつ体温が低下していって、時折寒気を感じた。足が常に濡れた状態であるのもあまり好ましくなかった。長い休憩をとってしまったら、きっと体温が下がるだろうと思った。靴下はどうにもならないから、もし低体温症の前兆を感じたら、その時は服を一枚着ようと思いながら、霧で先の見えない中を黙々と歩いた。
そんな折、明らかに傾斜角度が変わってここが白馬鑓ヶ岳の登りだと分かる頃、上空のガスが急に途切れたのだった。濃い霧が青空に変わるまで、ものの二分もかからなかった。それはまさに劇的な変化だった。私は突然頭上に現れた青空を見て、眩しさに目を細めた。
その青空の下に、前面の登山道の全貌が姿を現した。無数の石で覆われた長い斜面が、上空の青空に向かって伸びていた。スカイラインの先端、あれが白馬鑓ヶ岳だ!ざっと見積もって、二百メートルの登りだと思った。
堆積した石の表層は深く、所々、重心をかけると斜面が流れて、歩きにくかった。踏んだ路面が流れるものだから、何人もが通行すれば、それだけ登山道の姿が変わるのだろう。無数の石で覆われた斜面には、いくつかの踏み筋が斜面上に走っていた。きっとこのうちのどれかが、先ほど教えてもらった巻き道なのだろうと思った。しかし私は、最初から、この白馬鑓ヶ岳のピークは踏むつもりだった。もしここを巻く予定だったとしても、この青空の出現によって、きっと考えを変えたことだろう。
私はここでもストックを使わずに、ゆっくりと登った。やはりその方が疲れなかった。晴れたからというわけでもないだろうが、下ってくる人の姿が増え始めて、すれ違っていった。明け方に白馬を出発すると、ちょうどこの時間帯にこの付近に至るのだろうか。ほとんどの人が鑓温泉へ下るのだろう。今回の山行を計画した時点ではまだピッケルが必要と言われた鑓温泉への下山道も、おそらく開通しているのだろうと思った。
目視して二百メートルはあると感じた斜面は、十分程度で登り切った。白馬鑓ヶ岳の山頂である。ケルンと三角点が、青空の下で山頂らしさを醸し出していた。ようやくひとつのピークを青空で迎えて、本当に気持ちがよかった。私は座って、しばらくこの山頂を楽しんだ。しかしあいにく展望は全くなかった。山頂の上空だけが青空となっていて、周囲は深いガスに包まれたままだった。二千九百メートルのピークの先端だけが、ガスを突き抜けているのだと思った。
(白馬鑓ヶ岳の山頂。ここは青空の下での登頂であった。)
白馬方面から男女四人組がやってきて、わいわい記念撮影を始めた。これでグランドスラムだと、そのうちの誰かが言って、思い思いのポーズで撮影を続けた。この青空の下での喜びは同じなのだと思うと、少々うるさくはあったが迷惑には感じなかった。やがて、そろそろ下りようと思った頃、写真を撮ってほしいと言われたので、二枚ほど撮ってあげた。カメラを返しながら、これから鑓温泉ですかと聞いてみると、そうだと言う。私は彼らにもまた、白馬方面は雪渓がありますかと聞いたが、やはりないとのことだった。
ザックを背負って下りようとした時、進行方向がガスに包まれていて、見通しがないことに気づいた。私は彼らを振り返って、この方向ですよねと確認してから、下りた。すぐに分岐標識があったので、やはりどこかに巻き道があって、ここに合流していたのだと分かったが、ほんのこれだけの高低差であれば、ほとんどショートカットにはならかったと思った。
ここまで登ってきた分と同じだけ、反対側へ下った。こちら側も、同じように石で覆われた斜面だったが、今度は下りなので、路面が多少流れるのはむしろ歩きやすかった。十名ほどの年配者たちの団体がぞろぞろと上がってきていた。頑張ってくださいー、と声をかけつつ、呼吸を乱しながら急登を登ってくる彼らとすれ違った。
どこを見ても白いガスだったが、風が吹いてくる左の富山側は、ふとすると尾根のすぐ下に緑色の斜面を見ることができて、コバイケイソウやハクサンチドリと思われる白や紫色の花々がそこらに咲いているのを発見するのだった。また、ガスの中から浮かび上がる山肌には、いたる所に雪渓が残っていた。眼下の斜面をそうしたコントラストが彩っているのを時折見ながら、下っていった。
立山連峰と後立山連峰は黒部峡谷によって深く隔てられているが、黒部川は、唐松岳あたりから流路がやや西寄りになる。北進を続けている私からは次第に遠ざかっていく位置関係となるが、逆に言えば、私のいる山域は一層山深くなっているということだ。辺りを濃いガスが覆っているが、その実、比較的近い位置に周囲の山々があるはずだった。何かの拍子にガスの中から向こうの稜線が見える時、それらの山塊が多く、白い雪形をまとっているのを目にするのだった。
三十分ほど歩くと、やがて目の前にうっすらと巨大な山影が浮かび上がった。きっと、次の杓子岳だなと思い、なお歩いていくと、じきにガスがとれて、杓子岳の姿が見えた。写真で見た白馬岳と同じく、西側の斜面はなだらかで優しげなのに、東側は荒々しい岩肌がむき出しになっている。登山道は、その西側斜面に緩いカーブを描いていた。
私は当初、この杓子岳は巻き道によってピークをパスするつもりでいた。今日はすでに、不帰嶮を越えてなお細かいアップダウンを登下降し、さらに標高差二百メートルの白馬鑓ヶ岳を登った。この日の累計標高差はどう見積もっても千メートルは超えるはずだったから、ここへ至る時点では相当体力を消耗しているだろうと、当初は考えていたのだった。
しかし、ストックを使わないことによって、奇しくも筋力を維持していた私は、同じ登り方をすれば登れるのではないかと思った。現に白馬鑓ヶ岳の直登も、苦しかったがバテることなく登り切ったではなかったかと。それにまた、先ほど誰かが言っていたグランドスラムという言葉をも思い出していた。白馬岳の本峰とは違って、白馬三山の中央に位置する杓子岳はアプローチが長く、わざわざ杓子岳だけを狙って将来再びここへ来る機会があるとは思えなかった。「白馬三山」として捉えるならば、杓子岳は今この時にこそ踏むべきピークだと考えが変わったのである。
(白馬三山の中央に位置する杓子岳が行く手に現れた。)
しかし目前に見えている杓子岳に取付くまでには、まだなお下る必要があった。数分後にコルへ下り立った時、コルを吹き抜ける風によってか、目線より下の部分だけ周辺のガスが消えて、西側の様子が見えた。鮮やかな緑色と清冽な雪の白色に彩られた景観が見えた。ひどく美しいと思った。そして杓子岳へ取付いた。
杓子岳は白馬鑓ヶ岳のように路面が流れることはなかったから、歩きやすかった。もちろん登りであるからつらいのだが、重心移動によって疲労を抑えることができた。それよりも、足の不快感がもはや我慢ならなくなってきた。杓子岳の山頂に着いたら一度靴下を脱いで休憩しようと思った。そう考えてしまうと、一刻も早く素足を空気に触れさせたかった。
なだらかな登山道は斜面を左上方へ巻くように登っていったが、山頂への分岐で巻き道と分かれると、迂回してきた斜面を右方向へ登ることになった。急に勾配の増した斜面を一心に登った。
またガスが周囲を覆いだした。尾根にたどり着いた時は、視界が二十メートルもないほどの濃い霧に包まれていた。さきほど東側が崖になっているのを目にしたが、その崖際を歩いているのだと思った。なぜなら、狭い視界でも足元は見える。そして、足を置いている山肌のすぐ右隣りが真っ白な空間になっているのだ。そこは断崖だと直感した。風が左側から吹いているので、突風が吹いてもあおられないように、なるべく左側を歩くよう注意した。
濃いガスのため、私はどこが山頂なのか分からなくなって、適当な所で腰を下ろした。巻き道から尾根に上がってきたはずだが、尾根のどの部分に上がったのか、確かめる術がなかった。地図を頼りに進んできたが、周囲が全く見えないために現在位置に自信を持つことができず、本当にこの方向で良いのか疑心暗鬼になってしまったのだった。
私は地図を広げる前に、靴と靴下を脱いで素足を風にさらした。窮屈な靴の中で重圧と湿気に酷使された足を広げて、実に気持ちがよかった。六時間近くもそんな状態だったから、この気持ちよさは言葉で言い表せないほどだった。
私は霧の中に裸足を投げ出したまま、行動食を食べ、コンパスを片手に地図を見た。どう見ても、この進行方向で正しいはずだと思った。しかしそれよりも、また濡れた靴に足を入れるのがどうしても嫌で、しばらくそのままぼんやりと休憩を続けた。試みに靴下を絞ってみると、水が絞り出されたのでびっくりした。こんな状態で歩いていたんだと思った。だが、私の登山用靴下は、クッション性を高めるために普通のものよりも分厚いものを履いている。それがために、いくら力任せに絞ってみても、絞り出せる水には限界があった。ましてや乾燥させることなどできないから、諦めてまたそれを履かなくてはならない。私はその濡れて履きにくい靴下をまた履いて、靴の中に突っ込んだ。濡れているし冷たいので非常に不快だったが、それは我慢しなければならなかった。
私はまた濃い霧の中を進んだ。すると霧の中から一人の男性が現れたので、杓子の山頂はこちらでいいんでしょうかと聞いてみた。すると、ちょっと先に標識が立っているよと教えてくれた。その山頂には、一分も経たないうちに到着した。ほとんど山頂の目と鼻の先で休憩していたのだった。濃い霧でまるで見えないし、こんなにすぐ近くにピークがあったことで少し拍子抜けしたから、なんとなく変な気持ちだった。とりあえず登頂したんだという控えめな嬉しさがあるばかりだった。私は濃い霧の中で風を浴びながら、少しだけ山頂で時間を過ごし、下山することにした。
杓子岳の北面は、白馬鑓ヶ岳と同じように石だらけの登山道だった。だからここも、路面が多少流れるのにまかせて下っていくのは楽なはずだったが、一部、もろすぎて砂で靴が滑る箇所があったので、白馬鑓ヶ岳よりは気を遣いながら下っていった。一面が石と砂に覆われた広い斜面だったので、ここもてんでに歩く人が多いらしく、幾筋もの踏み跡が斜面の表面を走っていた。もしも反対側から登ってくるとしたら、いくつもある踏み跡のどれを辿るのが正解なのか分からず戸惑ったに違いないが、私は上から俯瞰しているので、どの道を行ってもその先で一本の登山道に合流していることが見て取れて、安心して目の前の道を下っていった。ガスがあったが、その合流箇所までは見通すことができたのは幸いだった。
杓子岳のザレ場を下ると、登山道の周りは緑色の草花で覆われた。シラネアオイが見たいと思っていたので、時々周囲を見回して探したが、なかった。咲いている花々はとりたてて珍しいものが咲いているわけではなかったが、一面が群落となっていたから、否が応でも高山気分が高まった。
あまり起伏のない道が続いた後、目の前に、下り坂と、その先にまた登り坂が見えてきた。登り坂の上部は濃いガスで覆われていて見えなかったが、地形図と高度計によると、およそ百メートルの標高差かと思われた。またもアップダウンだと思ったが、同時に、右下方の谷を真っ白な雪が埋めているのが見えて、そちらに気をとられた。もしやと思って、下り坂を歩きながら何度もそちらを見た。歩くにしたがって、湾曲している谷の奥が次第に見えるようになった。そしてその白い斜面の上を、点々と小さなものが列をなしているのに気がついた。
――白馬大雪渓だ!私ははっとした。実際に自分の目で見ると、すごいスケールだった。列をなしている点の一つ一つが、登山者だった。明日は私もあの点の一つとなって、あの白い谷を下るのだと思うと、不安と期待がふつふつと沸き起こってきた。
(谷を果てしなく埋める白馬大雪渓)
大雪渓を目に収めると、残る期待は白馬岳を目にすることである。稜線から上をガスが流れているが、少し前よりも、ガスが薄れているような気がした。大雪渓の位置を視認できたことで、白馬岳の正確な位置をつかむことができたから、私は、まだ見えないその方向を何度も見つめながら、そのガスの中から白馬岳の姿が浮かんでくることを願った。
登り坂は次第に岩場の急坂となったが、道はよく整備されていて、鎖などもなく、安定していた。しっかりと地面を踏みしめながら身体を上げた。さすがにこの終盤での登りはきつかった。いったい何度、下っては登っているのだろうか…。相当疲労していたが、それでも前方にいた三人組を追い抜いて、坂を上がった。
私が何度も見つめている白い空間から、山影がうっすらと浮かんでは消えていた。岩場の急坂ではちょうどその方向が岩の死角となって見えず、その代わりにたくさんの花々が、岩陰を所狭しと埋めていた。
ようやくにしてその急坂を登りきったとき、稜線上の視界が開けた。上空のガスはまだあったが、稜線上のガスはだいぶ流れ去って、辺りの緑色の高原地帯が目に映った。そして、ついに白馬岳が見えたのだった!こちらの南側から見る姿の秀逸さ。なだらかな西側斜面とは対照的に、垂直に切れ落ちた東側。まるで直角三角形を寝かせたような独特の山容は、紛うことのない、白馬岳だった。唐松山荘を出てから七時間、白馬鑓ヶ岳では一瞬晴れ間に恵まれたものの、ほとんど真っ白なガスの中にいて、いくつものピークを越えてきたのだ。ついに今、今日最も展望を期待した場所で、白馬岳を目にすることができたのだった。
私の欲は尽きなかった。せめて私があそこに立つまで、このまま晴れていてほしいと願った。当初の予定では、今日は白馬岳頂上山荘へテントを張って終わりとする計画だった。白馬岳へは明日の朝ピストンして、下山する計画だったのだ。しかし今日も予定時間を一時間ほど早く上回っている。このままピストンするだけの十分な時間はあるし、きっと体力ももつだろう、いや、あの白馬岳の山頂に立つまでは、必ずや体力が沸き起こってくるだろう、そう思ったのだ。
(白馬山荘と白馬岳を目にする。疲労が一気に吹き飛んだ瞬間だった。)
テント場が眼下に見えた。そこにはすでに、三十張ほどの色とりどりのテントが張られていた。私はそれを目にして、戸惑った。この日はもうすっかり小屋泊するつもりでいた。それなのに、あんなにもテントを張っている人たちがいる。縦走者の私が、小屋泊に甘んじてよいのかと、自分の軟弱さを突きつけられた気がした。私は、テント場のある白馬頂上山荘に泊まるか、頂上直下の白馬小屋にするか、どちらの山小屋に泊まろうかという場所の問題だと思っていたほどである。足がひどく濡れていて不快だが、明日もまたこれを履くと思うとぞっとする。この高山域では靴の中が自然乾燥することはあるまい。また、その他の装備も雨で濡れている。乾燥室(唐松山荘のように、使えないという事態もありえないではないが)できちんと乾かしたかった。そして昨夜見た天気予報では、今夜は雨の予報ではなかっただろうか…。
しかし、そんな迷いは一瞬で吹き飛んだ。今日上がってきたばかりの人たちが悪天の中でもテント泊をしようとしているのに、この私が小屋に泊まることはできないと思った。山行中、必ずやどこかで、いやむしろ、場合によっては全行程が小屋泊となる可能性すら考えていたのに、すべてテント泊で乗り切ることになろうとは、思ってもいなかった。
私はテント場を眼下に見ながら、その真上の稜線上を素通りした。分岐から下に下りれば白馬岳頂上山荘で、テント場がある。一応テント泊をしようとは思いながらも、荷物をデポすることはしなかった。ここから白馬岳山頂まで標高差二百メートルのピストンが控えているわけだし、ガスがどう動くかも分からなかった。重量が減れば身体的には相当楽だが、私はここでは装備を優先した。何が起きても対応できるようにしておきたかった。だから、装備をテント場にデポしなかった。また、ガスがとれている間に登頂したいと逸っていたので、テントを張る時間が惜しかったこともその理由であった。
テント場の上を通過すると、分岐があった。ここを下りればテント場を経て大雪渓への下山路である。正面に白馬岳が聳えていて、周囲は広大なお花畑になっていた。たいへんな開放感であった。
私は分岐を直進した。数多くの登山者が行き交っていた。どんと聳えた白馬岳まで一直線に登山道が延びていて、その中間地点に白馬山荘がある。山頂にも小屋にも手が届きそうなほどであるが、それはスケールが大きすぎることによる錯覚である。登山道のあちこちに点在する人の大きさを見ればその錯覚は消えて、まだまだあそこまで、つらい標高差を乗り越えなければならないと思うのだった。
もはや気力であった。これが本当に、今日の最後の登りだと思った。逸って歩幅が開こうとするが、そうするとあっという間にバテるので、一歩一歩、歩幅を狭くして、少しずつ標高を上げることに努めた。それでも何人もの人を追い抜いた。とにかく一定のペースで歩くのだと思い、道を譲ることも譲られることもないように、周囲の人との間隔を測りながら、自分のペースを保つことのできる進路を見定めて、登っていった。それでも時折息が上がって、身体が止まった。そんな折は、登山道の脇に咲き乱れている高山植物を見て息をついた。
ぐんぐん白馬山荘が近づいた。近づくほどに、その建物の大規模さが視界に広がっていった。山荘の直下には、あと一歩のところで苦しんでいる登山者が何人もいた。私も例に漏れず、そのポイントで足を停めた。しかしそれも束の間で、私は力を振り絞った。
ようやく白馬山荘の建つ台上に立って山荘の入口の看板を見たとき、つらい直登だったと思って大きく息をついた。少し休みたかったが、頭上を流れているガスの動きが気になった。ここまで上がってくる間、時折、山頂を薄くガスが覆ってしまう瞬間があったからである。少しでも早く山頂に立ちたかった。私は水を飲んで少しだけ休憩してから、頭上の頂へ向かってまた歩き出した。
周囲のほとんどの人が、何も持たない手ぶらの状態で歩いていた。山荘の宿泊客であろうか、軽々と歩く人々が何人も下ってくる中を、縦走装備を背負って登った。とてもつらかったが、そのつらさが心地良かった。後立山連峰における縦走の終着地点である白馬岳が目前に迫っている。今のつらさは、裏返せば、今が旅のクライマックスであることを意味していた。このつらさを乗り越えて登頂するのだと思って、ひどく楽しかった。
夢中になってつらさと闘っていると、山頂がもう、目の前に近づいてきた。私は一気に登った。多くの登山者が、広い山頂、とりわけ方向盤の付近で休んでいた。私はそちらを一瞥して、白馬岳山頂と書かれた標柱へ一直線に歩き、そこへ手を添えた。ついに白馬岳の山頂へ登頂したのだ!
私は標柱のすぐ上にある三角点に手を置いた後、方向盤が置かれた基礎に上がって、大きな石製の方向盤に手を置いた。「強力伝」で有名な方向盤である。百キロはあろうかというこの方向盤を人力で担ぎ上げた偉業が、手から伝わってくる石の冷たさによってひしひしと感じられるような気がした。ここに設置されるまではただの石の塊でしかないものを、どういうモチベーションで担ぎ上げたのだろうかと思った。もちろんそれが「強力伝」の主題であり、私なりに解釈は持っているつもりだったが、現実に見てみたことでその実感があった。方向盤の上面に貼り付けられている金属製の展望案内図は相当年代物で、とても読みにくかった。「強力」が、みずからをほとんど再起不能にするほどの代償の果てに担ぎ上げた方向盤が、時代とともに消えかかった文字盤によって、その偉業の意味を私たちに問いかけているような気がした。
ややなだらかな傾斜をなしている山頂にあって、その方向盤の設置されている基礎のコンクリート部分が、数少ない安定した平面をなしていた。そのせいで、多くの登山者が基礎の部分に腰掛けていて、方向盤の写真を撮るのに邪魔だった。そこで、彼らが去るまでの間、休憩して待つことにした。
私は西側が見える適当な場所に座った。周囲はやはりガスであった。東側は濃い霧でまったく見えない。一方西側は、この山頂付近だけがぽっかりと抜き取られたようにガスがなく、すぐ西にある旭岳の姿が見えていたのだ。旭岳の後方は濃いガスが充満しているから、ちょうど旭岳が、西側から流れてくるガスの防壁となっていたのだった。
旭岳については、私はここに来るまでその名すら知らなかった。濃い霧に覆われた山頂から唯一見通すことのできる山だった。その美しい山容を目にした誰かが、旭岳がきれいだと言った。私はそれを聞いても、山の名が浮かんでこなかった。アサヒ岳といえば新潟の「朝日岳」しか思い浮かばなかった。そこで地図を開いて、ようやくそれが「旭岳」だと分かった。そういえば大雪渓との分岐点が十字路になっていて、そこを左にゆく進路を示す標識に、旭岳と書かれていたなと思い出した。
旭岳がこちら側に向けている斜面は、緑色の美しい山肌だった。しかしそこは見るからに切り立った急斜面で、登山路は左側の尾根を走っていた。そこにはべっとりと雪が付着していた。雪面に点々と踏み跡が付いているのが見えるほど、旭岳は近く、くっきりと見えた。緑と白のコントラストの美しい山であった。ほとんど眺望のなかった今回の山行であったが、最北端のこの場所で、こうして美しい高山風景を目にすることができてよかったと思った。
ようやく方向盤の周囲から人が減ったので、私はそこで記念撮影をすることができた。ゆっくりと山頂気分を味わうことができて、明日はもう下るだけだと思ってほっとした。もちろん、大雪渓を下ることの問題はクリアしなければならない。単純に標高差の点だけを考えて、ほっとしたまでである。
そうして山頂気分を味わっている最中も、次々と登山者が上がってきた。私が途中で追い抜いた人たちもあるだろうが、反対の北側から上がってくる人もいた。北へ回れば、私がもう一つの下山路と想定していた白馬大池方面である。危険と判断した場合はその方面へ下る予定だったが、大雪渓を多くの人が通行していた様子を稜線から見ていたので、明日は大雪渓を下ろうと決めた。白馬岳といえば白馬大雪渓なのだから、特段の問題点がなければ私が第一に大雪渓を下山路として選択するのは至極当然のことである。大雪渓を下る以上、今回はこの先の北のエリアへ踏み込むことはない。いずれまた、そちらにある美しい白馬大池を訪れる機会があるだろう。その時のために少しでも北方の様子を見ておきたかったのだが、その方角は、一面、真っ白なガスで覆われていた。
私は山頂をあとにした。登りはあれほど苦しんだのに、下りは早かった。じわじわと上がってくる人々を見ながら、つい数十分前には自分がこんなふうに喘ぎながら登っていたのだなと思った。ほとんど駆け下りるように下っていって、あっという間に白馬山荘へ着いた。
先ほどはわずかに休憩しただけで素通りした山荘だ。ここでアイゼンをレンタルしなければならない。私は左右にいくつかある建物を見回して、受付と書かれた看板のあるドアを開けた。その建物に入ると、ほぼ全面が広い土間になっていて、奥の壁側に、一列に受付コーナーが並んでいる。それぞれ係りの人がいて、窓口は、五か所以上はあったようだ。さすがに明治時代の草創期から続く日本最大の大規模山荘だと思った。収容人員は八百人にもなるという。
私は一番左の窓口へ行って、アイゼンのレンタルを申し出た。もしも売り切れていたら大変なことになったのだが、数は充分にあったようだ。申し出たところの係員は不愛想な中年の男性だった。アイゼンと聞いて、後方にいた若い男性にアイゼンを用意するように命じた。私はそれを見ていて、この男性がベテランの山小屋のスタッフではないかと思った。だから若い係員がアイゼンを用意するまでの間、私はその男性に、大雪渓は四本爪アイゼンで安全に下れますかと聞いてみた。
しかしその質問を受けた男の反応は、私にとってはたいへんに奇怪なものだった。彼は突然顔を固くして、ほとんど怒りとも見える表情になり、無言で私を見返してきたのである。私は彼の表情を見て、ぞっとした。『そんなことも知らずに大雪渓へ行こうとしているのか』、彼がそう詰問しているように感じたのだ。
たしかに、我ながら馬鹿な質問をしたものだと思った。安全に下れるかどうかを判断するのは自分なのだ。判断したからこそアイゼンを借りるのであり、借りてから状況を聞くということは、大雪渓に関してまるで無知であると言っているようなものである。常の登山道ならともかく、大雪渓という難所を何の予備知識も持たずに行こうとしているように思われただろう。
しかし私はもっと深刻な想像をしていた。四本爪で行くなど正気の沙汰ではない、極めて無謀な行為であると覚悟してアイゼンを借りるのならまだしも、危険度を認識せずに無謀な行為をしようとしているのか――彼の目がそう問い質しているように感じたのだった。
私は彼のその目が怖かった。それ以上に、彼の真意を確かめるのが怖かった。その時、若い係員がアイゼンを目の前に出したので、中年の係員との対峙を免れた。私は若い係員から、ここでレンタル料として千円をいただくが、白馬駅で返却すれば三百円が戻ること、返却しない場合はそのまま購入扱いとなること、装着方法については後ろの壁に説明が貼ってあるから見るように、などの説明を受けた。
私は、極めて事務的に差し出されたアイゼンを受け取って、逃げるようにそこを離れた。後方の窓側の壁に、装着方法を示した写真が貼ってあった。写真を見ると、アイゼンのバンドを締める金具が、ごく普通にザックなどに使用されている自在金具による固定方式だったので、これなら装着方法は分かるだろうと思った。そこで、アイゼンをザックに収納し、すぐそばにあったスタンプを押してから山荘を出た。
テント場のある白馬岳頂上山荘はそこからさらに百メートルほど下る必要がある。私は、登りで苦しんだ急坂を、ストックを衝いて下りながら、四本爪アイゼンのことばかりを考えていた。下りはあっという間だったこともあるが、アイゼンのことで頭がいっぱいで、登山道を囲むお花畑はまるで目に入らなかった。白馬大雪渓は、数百メートルにわたって広がっている雪渓である。もし滑って転倒したら、どこまでも滑り落ちて、やがて末端の地表に激突するかクレバスに転落するかということになるのではないか――。本当に大丈夫だろうか。考えだすと不安ばかりがつのった。
分岐点に着くと、十字路の標識の横で一人の男性が座っていた。どうも見覚えがあるような気がして、そうだ、もしかしたら雨中の不帰嶮で会った男性ではないかと思った。彼があの時の男性だとしたら、ちょうどここから白馬岳をピストンする時間の分、私が先行していたことになる。その時間はおよそ一時間であり、不帰嶮で間隔が縮まった時の状況を考えると、時間的にも辻褄が合うわけだ。しかしあの時はお互いにすっぽりと頭を雨具で包んでいた。それを脱いで帽子姿になっていては、顔の形も違って見えるから、はっきりと彼だと断定することはできなかった。少しだけ彼に視線を送ったが、結局彼は私の視線に気づかず、分岐点に達してしまったので、私はそれ以上彼に構うことなく、下へ下りる方向へ折れた。そこに座っていた彼があの時の男性かどうかは分からなかったが、その人はあれ以来どうしただろうかと思った。かれこれ七時間ほど前に出会ったが、その後いろいろな辛苦があり過ぎ、また天候も大きく変わったこともあり、同じ日の出来事とは思えなかった。そんな目まぐるしかった一日も、今日はもうテントを張って休むだけだった。
背後の白馬岳を見ると、もはやガスに包まれつつあった。先ほどあんなにくっきりと見えていた旭岳にいたっては、完全にガスの中である。山頂から見た時、旭岳の後方にガスが立ち込めている様子が見えたが、きっとそのガスが旭岳を越えて、白馬岳まで包んでしまったのだろうと思った。本当に、奇跡的なタイミングでの登頂だったと思った。最後のピークを良いタイミングで迎えることができて、満足だった。
分岐点から先、右手にテント場を見ながら下りていくと、建物の前に出た。直方体をした建物の短辺側にテント場の受付所があり、長辺側が外部トイレになっていた。ちょうど先着した人が受付をしていたので、私は外で順番を待った。
私の視線の先に、屋外に置かれたタンクがあった。蛇口が付いている。なにげなくそちらを見ていると、宿泊者と思われる人がやってきて、無造作に蛇口をひねって顔を洗いだした。私は、彼が水を出しっぱなしにしてじゃぶじゃぶやっている様子を見て、なんたることかと思った。雪渓の多いこの白馬岳付近では、もう水に困ることはない。彼の行為はその表れでもあった。しかしそうはいってもここは山である。顔を洗うこと自体を我慢しなければならないというのに、あろうことか水を出しっぱなしにしながらやるとは。人気の山だけに、これほど非常識な人もやって来るのかと思って、情けない気持ちがした。
私の順番がやってきたので、狭い受付室に入った。受付員の若い男性が一人いて、テント場用の売店も兼ねているらしく、カップラーメンや自動販売機などが置かれていた。私が受付票を書いている間も、宿泊者が狭い室内に入ってきて飲み物を求めたり、あるいは飲み終わった飲み物の空き缶を捨てに来たりした。
私は受付票を書き終えてから、懸念している大雪渓のことを聞いてみた。すると彼は、自分ではよく分からない、しかし五時から五時半の間に、常駐の指導員が山荘で登山相談をしているから、そこで聞いてもらう方が確実だと言った。筋肉質のがっちりした体型の男性だったので、てっきり彼が山をよく知っているものだと思ったが、どうやら彼もアルバイトのようだった。そう言われてしまっては、その時刻になるまで待つしかなかった。
私は建物の裏手にあるテント場に行った。窪地になっていて、ちょうど周囲の山腹がぐるりと防壁のような役割をしてくれる地形だった。風は穏やかだった。すでに数十もの色とりどりのテントが張られていたが、百張ほどは張れそうな広いテント場であるから、場所は相当余裕があった。その中でも、比較的テント場の入口に近い箇所が空いていたので、そこにすることにした。地面は細かい砂利となっていて、平坦を阻害する大きな石が埋まっていることもなく、完全にフラットな場所にテントを設置することができた。
今朝の雨中の撤収作業によって、案の定テントは濡れて水気を多分に含んでいた。そんな状態でむりやりに押し込んで収納したものだから、設置したテントの幕を開いてみると、内部はむっと匂いがした。私はしばらくの間テントを乾かすことにして、フライシートはかぶせずに、幕を開けたまま通気をよくして外気にさらした。まだ張り綱で固定していかなかったので、風が吹くと飛ばされてしまうのであるが、ほぼ無風状態だったのでそのままの状態にしていた。そうして付近の石の上に、レインウェアや、脱いだ靴下、靴のインソールなどを広げて干した。上空にはガスがあったから日光で乾燥させることはできないが、外気にさらして多少なりとも乾かしたかった。
元来防水性のテントは、あっという間に表面から水分がなくなった。私はそれを確認して、これもびっしょり濡れたままのフライシートを広げて、上からかぶせた。完全にフラットな砂利の地面でありながら、それでいて付近には頭ほどの大きさの石がごろごろと転がっていたから、ペグは使わずに、張り綱をそれらの石に結び付けて設置した。都合の良い大きさの石がふんだんにあって、たいへん便利だった。テントを固定して、内部にザックを入れてしまうと、ようやくほっとした。
私は売店へ行って、缶ビールを買った。実はこの白馬岳頂上山荘では、食堂の売店で生ビールも売っている。計画時点では私はそれを楽しみにしていたのだが、一面がガスの天候ではあまり生ビールもうまくないだろうと思って、缶ビールでささやかな祝杯にしようと思ったのだ。
私は、濡れたものを全て脱ぎ捨てて軽やかな格好になって、ビールを開けた。ごろごろしている石の一つが、いい具合の腰掛になっている。足は素足のまま砂利に置いた。冷たい地面が、疲れた足にたいへん心地よかった。今日はどこにいても眺望はないから、色とりどりのテントを見ながらビールを味わった。こんなにたくさんのテントに囲まれたのは、今回の山旅では最初で最後のことだった。眺望はないが、この、山のテント場独特の雰囲気が好きである。私はテント場の中の自らの一角で、自分だけの世界に浸ることができた。周りの人々までもが景観の一部として見える時がある。これも単独行の醍醐味だと思った。
(テント場でのひととき。これもまた登山の楽しみである。)
ときに、二時半である。本日の行動時間は九時間だった。コースタイムも同じく九時間であるが、そこには休憩時間を含んでいないから、一時間程度は早く歩けたということになろうか。しかしそんなことよりも、あの雨の中、不帰嶮の難所を無事に通過できたことが何より大きな興奮となって、あらためて思い出されてきた。
そしてまた、偶然の重なりのように思われたことが、もし前日に唐松岳まで進出していなかったとしたら、思わぬ今朝の雨によって、きっと不帰嶮は断念しただろうということである。昨日もし五竜山荘で泊まっていたとしたら、白馬まで長駆するために、今朝よりもずっと早い時間に起きていたはずだ。そしてあの雨の中、ずぶ濡れになって唐松岳にたどり着いたであろう。つまり、私が不帰嶮を通過した後の状態である。そのダメージを負った状態では、不帰嶮へ進もうなどとは考えなかったに違いない。今朝の雨は不運な出来事であったが、その中でも、昨日の行動があったからこそ、今日の行動に結び付けることができたのだと思った。