【1.旅立ち】
後立山連峰。私は長らくこの山域に強い憧れを持っていた。
最初にこの山域を知ったのは登山を始めたばかりの頃である。その当時はまだ、山域というより、鹿島槍ヶ岳と五竜岳の二座に興味を持っていただけにすぎない。たまたまテレビでその二座を取り上げていたのを見て惹かれたのだ。どのような内容だったか、それは早くに忘れてしまったが、その番組によって、この二座の山は、山岳という強いイメージで私の中に植え付けられた。
私がまだ山歴一年目で関西近郊の低山ばかりを歩いていた頃、知り合った山友達に行きたい山を問われ、この二座を告げたことを覚えている。彼はそう聞いて、「後立山ですね」と言った。彼のその言葉、そして響きの良い「ウシロタテヤマ」という音韻が、この山域に対する私の方向性を決定づけたと言ってもよいだろう。私はまだ「後立山」という言葉を知らなかったので、彼から聞いたこの時が初耳だった。それどころか、立山連峰すら、私は言葉として知っているだけで、立山という山がどのような山なのかさえ、まったくの無知だった。
要するに、穂高岳・槍ヶ岳・剱岳といった、山を志す者ならば誰しも挙げる山々すらほとんど知らなかった時期に、すでに鹿島槍ヶ岳と五竜岳に興味を持っていたということである。
前述したテレビ番組によって、私はこの二座を、連続した一体の山岳として認識していた。内容は忘れたものの、二つの山を続けて歩くルートを紹介していたはずだから、二座を深く隔てる八峰キレットを通行する様子を必ず目にしているはずだ。すなわち私はその険しい山岳ルートに強く惹かれたのである。だから私にとっては、単にこの二座に登頂するということが目的ではなく、鹿島槍から八峰を経て五竜へ行くという縦走行程にこそ、意味があったのだ。
その後、経験や知識が広がるにつれて、後立山連峰の全体像に関する理解も深まっていった。すると当然の流れとして、不帰キレットを知ることになった。穂高連峰にある大キレットと並び、三大キレットに挙げられる難所のうち、八峰キレットと不帰キレットという、じつに二つものキレットがこの山域に存在しているのは興味深い。それほどに険しい山岳であることを示すと同時に、登山者がそこに強い憧れを抱くのは当然のことであった。いつか機会を得てこの山域に登りたい、そしてそれらの険しい難所を攻略したいというのが、私の夢であった。
私は前年の七月に休暇を取って、富山県の折立から岐阜県の新穂高へ、四泊五日の北アルプス縦走を行なった。そしてその二ヵ月後に、鹿島槍から八峰を経て五竜へ行くという計画を実行する予定だった。しかしながらその計画中(八月)に、周辺エリアが近年まれにみる雪の少なさであることを知り、急遽、行き先を黒部の下の廊下に変更した。下の廊下は多雪期には通行できないリスクがあるから、そちらを優先したのだ。そのため、鹿島槍と五竜の山行計画は、一年先送りすることになった。
北ア縦走と下の廊下という、二度の長期山行で私が得たものは大きかった。それはまず、七月の北ア縦走において、七月の高山を経験できたことである。それまで私は八月の夏期休暇でしか縦走を行なっていなかった。初めて七月の縦走を経験して、七月は八月に比べて様々な違いがあることに気がついた。それは、八月に比べて閑散期であること、日が長いこと、そして、気温が低いこと(多少ではあるが)である。
閑散期であることは、目的地までの交通渋滞のリスクが少なく、遅延によるロスの発生が抑えられる。そして山においては狭隘部での渋滞が少なく、テント場の場所取りについても余裕があることを意味していた。また日が長いことは、日光の下で行動できる時間帯が長くなることになり、安全性が高まる。そして気温に関しては、熱中症等の体調面はもちろんのこと、急激な気温上昇による午後の雷雲の発生にも関係してくることであった。これらの諸条件は、後立山を縦走する上ですべて重要であった。逃げ道のない難路が、連続してしかも長距離にわたって続くのである。その行動中にリスクとなり得る事象を少しでも抑えられるのだから、七月に実行するのが理想だと考えた。
また、下の廊下における山行では、荷物の縮小に成功したことが大きい。相当の装備を削り、二泊三日のテント泊を、なんと三十リットルのザックで実行できたのである。これらの経験を活かして、七月に後立山を縦走することを計画しようと考えた。
縦走日程については、七月の最終週を実行時期とする予定にしていた。今年は大雪であるから、おそらく七月中旬ではまだ雪の影響があるだろうし、またその頃であれば梅雨も明けているだろうと考えたのだった。
もともと前年九月に後立山の縦走を目論んでいたので、登山計画はすでに立案済であった。それは扇沢から入って、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、そして唐松岳を縦走し、八方尾根を下山するという二泊三日の計画である。ところが、計画書が一年前に出来上がっていて実行時期も決まっているという状況が、私を甘くさせ、ルートの調査をほとんど行なわずに春を終えてしまっていた。
そんな私を動かしたのが、「山と渓谷」の七月号であった。夏山シーズンを前に六月中旬に発行されたそれには、北アルプスの岩稜ルート特集と題して、ちょうど後立山連峰の岩稜ルートが紹介されていた。後立山に関連するコース例としては二つのモデルルートが挙げられており、言わずもがな、鹿島槍から八峰キレットを経て五竜岳へ縦走するルートと、唐松岳から不帰嶮を経て白馬岳へ縦走するルートである。いずれも難関コースとして取り上げられ、不帰嶮に関しては多くの写真とともに、コースの主な核心部が解説されていた。鹿島槍から八峰キレットを経て五竜岳へ縦走するルートはまさに今回目指すルートであり、もう一つのモデルルートである不帰嶮の方も、いつかやってみたいという憧れをかき立てられた。
それが予定日の一ヵ月前である。ようやく、準備に本腰が入った。「山と渓谷」を何度も読むと同時に、所有しているガイド本も読み直した。そのガイド本はごく一般者向けに書かれたものだったから、不帰嶮はおろか八峰キレットも記載がない。鹿島槍の登山ルートは、扇沢からピストンするルートで紹介されていたし、五竜岳は、八方尾根から上がって唐松から縦走し、遠見尾根へ下るというルートであった。
私はなにげなく前後のページを見ていて、気になる記述を見つけた。それは、鹿島槍ヶ岳の前ページ・白馬岳の紹介ページである。そこには、大雪渓を登り詰めてからの白馬三山縦走と鑓温泉への下山という、魅力的な王道ルートが紹介されているだけだった。いや、紹介されているだけのはずだった。しかし私は、それまで見落としていたコラム欄に目を見張った。そこには、「一日追加して、鹿島槍ヶ岳・五竜岳とつなげて歩くこともできます」と書かれていたのだった。
私はその記述を目にして、まず疑った。そんなことができるのかと。「鹿島槍~八峰~五竜」と「唐松~不帰~白馬」のエリアは、連続する区間ではあるものの、これまで二つの別の次元で捉えていた。充分な日数を確保できれば可能であろうが、元々計画していた二泊三日に一日追加するという単純な足し算では、その山行を想像することができなかった。
一方で、一気に踏破できるならば、これほど痛快なことはないと感じた。一年前に作成していた登山計画の固定観念は捨てて、調べてみようと思った。
私が所持している五竜岳付近の地図には、唐松岳の北部にかろうじて不帰嶮の最低鞍部までのルートは記載されていたが、それより北の山域は掲載範囲の外であった。私は「山と渓谷」から概念を得るとともに、北部の地図から想定エリアの情報を入手したり、ネット上での山行計画作成機能を使ってシミュレーションしたりして、一気に踏破することが本当に可能なものなのかどうか、研究を重ねた。
それは、可能であった。
しかしそれは、体力や集中力の持続といった能力面を全く無視して、コースタイムを単純に机上で加算しただけの結論であった。ある日には一日のコースタイムの合計が十時間を超えていた。コースタイムには休憩時間を含んでいないし、岩稜が連続する区間であるから、体力・集中力ともに最高の状態をキープしたまま、それだけの長時間を歩くことができるのかどうか、はなはだ疑問であった。しかも二つのキレットは、私にとっては大きな難所である。計画は作ったものの、果たしてそんなことができるのであろうかと我ながらぞっとした。そうしてできた計画が、以下の通りである。
【前 夜】夜行バスで京都から扇沢へ移動。
【一日目】扇沢から入山、爺ヶ岳を経て冷池山荘でテント泊。
【二日目】鹿島槍ヶ岳から八峰キレットを通過。さらに五竜岳へ進出して五竜山荘でテント泊。
【三日目】五竜岳から唐松岳へ進出、不帰嶮を乗り越え、白馬岳頂上山荘でテント泊。
【四日目】白馬岳へピストンした後、白馬大雪渓を下って猿倉へ下山。
この計画は、机上の計算のみによって、可能な限り先へ進出することを前提としている。元々の鹿島槍・五竜の計画では、上記の泊地よりも手前のテント場を宿泊予定地としていたが、四日で白馬岳まで縦走するためには、一日あたりの歩行距離を伸ばし、この距離を進出することが必須条件であった。万一雷雲が発生したり体力が限界であったりで予定地まで到達できなかった場合は、三日目で唐松岳に到達するのがやっとであり、その場合四日目は従前の計画通り八方尾根を下山するしかなかった。私はむしろ、それが現実的な結末になるだろうと思ってもいた。
最大の問題は三日目だった。先に述べた、一日の行動時間が十時間を超える日というのがまさにこの日である。五竜岳から唐松岳への行程が約三時間、しかもグレードの高い岩稜帯を越えてゆくルートである。まずこれを攻略し、しかる後に、さらに不帰嶮へ進入するのである。三時間の岩場ルートを越えて初めて、この計画上最も困難で危険なエリアに突入するわけだが、果たしてその時点で充分な体力と集中力が残っているだろうか。そして不帰嶮を無事に通過した後に待ち構えるのは、白馬岳までの長大なルートである。最大高低差が四百メートル以上ある「天狗の大下り」を登り、さらに二百メートルを登って白馬鑓ヶ岳に登頂、しかもその先に杓子岳その他のアップダウンを経て、ようやくテント場に辿り着けるわけだ。それほどの行程を、果たして踏破できるのだろうか。
私は万一の場合を考え、天狗の大下りを登り切った場所にある天狗山荘に着目した。三日目に白馬岳頂上山荘へ到達できない場合に、ここでテント泊を行なうとしたら最終日に下山できるのだろうかと計算してみると、四日目に早立ちすれば猿倉への下山はできそうであった。そこで、天狗山荘をオプションの選択肢として持っておくことにした。
雪解けが本格的に進む七月に入り、現地の情報収集を始めた。私はそこでまた、驚愕の事実を知った。なんと、大雪の影響によって天狗山荘が倒壊寸前であり、今年の営業は行なわないというのだ。テント場については環境が整い次第営業するとのことであったが、まだ雪に覆われていて時期は未定という。
私はあらためて計画を考えさせられた。長距離ルートである三日目に不帰嶮へ突入しても、その後に天狗山荘という予備拠点の存在があればこそ、終盤の不安に対してはそれほど神経質にならなくて済むのだが、それが使えないとなれば、必ず白馬まで到達しなければならない。不帰嶮へ突入した場合、退くこともできないだろうから、唐松岳に到着した時点で、不帰嶮へ進むかどうかの決断を下すしかないということだ。
装備についても準備を始めた。私は仮想装備を背負い、近隣で二度の訓練登山を行なった。特に一度目は、高低差約千メートルの鈴鹿山系を八時間ほど歩くもので、実戦により近い想定条件の下で行なった登山であった。しかしそれを終えて、私の自信はもろくも崩れてしまった。それは、有態に言うとシャリバテしてしまったのだ。三時間ほどの登りの間ほとんど休憩らしい休憩を取らなかったミスにもよるが、四時間ほどでぐったりとなってしまい、しばらく寝転がって休養をしたほどである。
私は前年の北アルプス縦走を思い返した。あの時もまた、毎日が激しい渇きとの闘いであり、三時間を超えるとその先は気力で歩ききった、本当につらい縦走だった。それでも、それほど危険地帯がないルートだったため、ただ歩きさえすれば何とか目的地に到達することができたのだが、今回は八峰と不帰という、日本三大キレットの二つを越えなくてはならないのだ。しかも、それぞれ、その日の出発時刻から三時間後にキレットに進入するのであり、ちょうどシャリバテの兆候が出始める時間帯だ。本来なら最高の条件で進入しないといけないのだが、低下した身体条件で踏み入ってよいのだろうか。
エネルギーをいかに持続させるかという観点で訓練登山をしなければならなかったが、装備の重量にばかり意識を向けてしまっていたのは訓練の失敗だった。あまつさえ、前年以来、ほぼ一年の間、テント泊を経験していなかった。しばらくの間、山小屋泊縦走と日帰り登山しか行なっておらず、言わば軽装登山に馴れきってしまっていたものだから、ほとんど訓練らしい経験を積まないまま、ぶっつけ本番のような状況で、厳しい後立山縦走に臨まなくてはならないのだった。
少しでも身体への負担を減らすため、ザックの軽量化と重心バランスの最適化を行なった。シャリバテを避けるために、カロリー計算もしてみた。しかしテント泊縦走の場合、必要カロリーと軽量化とは相反関係にある。軽量化を追求した結果、食糧のほとんどをフリーズドライに頼っている状況では、画期的にカロリーを向上させることはできない。結局、場合によっては山小屋で食事をしようと考えただけで、多少の行動食を補っただけにとどまった。
重心バランスに関しては、試行錯誤をして、最も背負いやすいパッキングを見出した。それでも絶対的に重かった。ルートの特性上、今回は軽アイゼンやヘルメットなどを装備するため、それ以外の装備を軽量化しても、装備全体としては前年の北アルプス縦走とさして変わらない重量になってしまっていた。
その頃、目的ルートに追加した不帰嶮以北のエリアの研究に余念がなかった私は、大雪によって白馬大雪渓がかなり危険度の高い状況であることを知った。そもそも不帰嶮の先へ向かうかどうかは、三日目までの行動の結果を見て唐松岳で最終判断することになる旨は既に述べたが、もし断念するとすれば、軽アイゼンは全く無用となるわけで、そうなれば一キロ弱の重りを三日間も背負い続けるという、意味がないことになる。どのような装備を持っていくかという点においても悩みが尽きなかった。
それでも状況は日に日に変化していった。七月第二週には、稜線上の雪はほぼなくなった。特に、八峰キレットと不帰嶮の岩稜ルート上から雪がなくなったことは朗報だった。そして天狗山荘だが、その後に情報収集したところ、どうやら雪渓をくり抜いて、水を採取できるような場所を設置してくれたことが分かった。山荘を経営する会社に問い合わせたところ、水もトイレも持参するならば勝手にテントを張ることは差し支えないとのことだったので、最悪の場合には天狗でテント泊するという選択肢がまた復活したのだった。
なお、水についてはこのルートにおける最大の関心事のひとつであった。なぜならば、前半部分においては出発地点の扇沢が最初で最後の水場であり、その後は白馬岳に至るまでの間、一切水場がないのである。もちろんそれは、天然または開放された水汲み場がないというだけであって、途中の山小屋で「購入」することはできる。しかしながら山小屋は随所にあるわけではなく、山小屋自身も下界からのヘリ補給に頼っている。キレット小屋にいたっては、渇水期には通過者に対して水の販売を断ることもあるというのだから、水の確保については大きな留意が必要だった。
また、白馬岳では軽アイゼンを現地でレンタルしていることを知った。白馬山荘で千円を支払ってアイゼンを受け取り、下山後に白馬駅で返却すれば三百円が返ってくるという仕組みである。これはまさに光明であった。徒労になるかもしれない軽アイゼンの重量に三日間も苦しめられることなく、必要な場合に調達できるのであれば、これほど便利なことはなかった。念のため問合せてみたが、数が足りなくなることはまずないとのことだったし、万一白馬駅で返却できなかった場合は、三百円を放棄するだけのことであって購入扱いになるとのことだったから、事後の行動には何の制約にもならないわけである。まさに今回の縦走にはうってつけのサービスであった。
梅雨明けの時期がなかなか明確にされなかったが、七月第三週初頭の三連休には梅雨明けが発表され、種池や冷池のテント場は大賑わいだったという記事を読み、否が応でも期待が高まった。
しかし出発予定日の二日前、週間天気予報が全て雨マークになった。雨天下の不帰嶮など、危険すぎて想像だにできない。私はやむを得ず計画を延期し、代わりに、二日ずらした火曜日の夜行便を予約した。しかし、たった二日程度の延期では、天候はそれほど変わるべくもなかった。
出発予定日の二日前(つまり当初の出発予定日)になっても天気予報はあまり変わらず、初日が雨で、それ以降は曇の予報となっていた。仮にその予報通りだとすると、初日のハイクアップで雨に濡れたとしても、その日に山小屋で泊まって服を乾燥させることができれば、その後は問題なく行動をすることができる。危険地帯である八峰キレットと不帰嶮が雨天でなければ、計画を実行することができるだろうと思った。
するとその翌日に、山の天気予報が一気に好転した。それはまさに奇跡と言うべきであり、むしろ疑問に感じて天気図を見たところ、前線がさらに南へ下がる予報となったことで、後立山よりもっと南部の地域に、雨の予報が移動したのだと分かった。私はその予報を見て、決行することに決めた。
私は、集めておいた食糧をすべて開封して再パッキングし、ザックに詰めた。水を満タンにした場合、およそ十五キロの重量となった。十三キロを切らなければ思うように行動できないのだが、まあなんとか行けるだろうと思った。また降雨に備えて、完全装備したザックに、ザックカバーを試験装着してみることも忘れなかった。
当日、バスがやってくる一時間前には京都駅に着いて待っていた。遅い時間帯で電車の本数が限られているから、京都駅までの電車が万一遅延した場合を想定して、必要以上に早く到着していたのだ。充分余裕があるから、付近のコンビニで翌日の朝食を購入した。いつもは簡単なおにぎりしか買わないのだが、今回の困難なルートを想定し、チキンの入ったサンドイッチを購入した。
バスは定刻通り、二十三時五十分に、京都駅八条口の指定バス乗場にやってきた。私は扇沢で下車する旨を告げて、トランクルームにザックを入れた。外が暑くて半袖一枚で乗り込んでいたから、冷房の効きすぎた車内はやや寒かった。夜行バスは例によって快適ではなかった。体勢が全然固まらずに苦しんだ。なんとか眠ろうと努めたが、脚は伸ばせないし頭が固定できないしで、身体がどこかしら常に緊張した状態であった。隣の空席と合わせて二席を使用し、膝を抱えて座ってみて初めて首が固定できた。それで一時間ほどまどろんだが、脚が疲れてきて目が覚めるのだった。それからまた左右逆の体勢になってはまどろむということを繰り返し、二時間か三時間くらいは眠れたであろうか。睡眠とは程遠い乗車であった。