表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いちごいちえ  作者: 夏みかん
第1章
5/52

寄せ集めの色 4

店を出た春香が時計を見れば、バスが来る5分ほど前だった。この時間は割と短い間隔でバスが来るが、そう待たずに乗れるのはありがたい。


「じゃぁねー!木戸!あんた明日、やりとり全部チェックするからね!」


ビシッと指をさされた京也はガックリと肩を落とした。


「ええ~・・・勘弁してよぉ」


大げさに声を上げる京也に満面の笑みを残し、春香は小走りでバス停へと向かった。


「とりあえず毎日お昼休みにチェックだね」

「志保美さんまで・・・」

「あきらめろ」

「だな」


明人と健司のダメ押しに京也も観念したのか、肩を落としながらも何も言わなかった。そのまま自転車に乗り手を振って去っていく京也の背中を見てから、残った3人は駅へと向かう。京也のことを話題にしつつ改札に降りれば、タイミングよく電車もやってきた。3人は電車に乗り込み、苺と健司は京也のネタに花を咲かせている。明人は2人の会話には入らず、腕組みをしたまま扉にもたれ、外の景色を見ていた。だが、頭の中では別のことを考えている。千石久遠、普通の教師だが、普通でない。冷たい目、そして何か得体の知れない黒きオーラのようなものが出ている、そんな気がする。そしてもう一つ気になるのが、それに京也も気づいているような節があるということ。明人が京也と歩の関係が気になっているのは京也自身に興味があるからだ。普段はああいった感じの京也だが、時折見せる不思議な感じ、それこそが京也の正体ではないかと思っている。ただの思い過ごしかもしれないが、気になって仕方がない。


「でもさ、一番早く彼女が出来るのが木戸君って、何か不思議だよね」

「だよなぁ・・・」

「大体イケメン2人がダメすぎるんだよぉ?」

「そう言われてもなぁ・・・なぁ、明人?」

「別にまだ彼女じゃないだろ?」


ここだけは聞いていた明人がそう返せば、健司は大きく頷き、苺はふくれっ面をしてみせた。明人は既に景色に目を戻している。そんな明人を見つめていた苺を複雑な想いで見やる健司。京也と歩、そして紀子がどういう関係になるかはわからないが、自分と明人、そして苺の関係もどうなるかわからない。もし、健司が苺に告白すれば明人も動きを見せるかもしれない。だが、どう転んでも自分が振られる未来しかないためにため息しか出なかった。それに、健司を含めた全員が春香もまた明人を好いていることを知らない。もつれる四角関係がさらにもつれていくのか、それともあっけなくほどけていくか、それはまだ誰にもわからない。



駅で健司と別れた明人と苺は会話もなくただ並んで歩いているだけだ。これはもう何年も同じなので気にはならない。だが、こうなってしまった原因が自分にあることだけは自覚している苺は、だからこそ自分から明人に話しかけることをあえてしなかった。みんなでいるときはわいわい騒いで話しかけもするが、2人きりではそうではない。その原因、小学2年生の時に自分が襲われた忌まわしき事件。結果として何もされなかったが、その事件は苺にも、そして明人にも心に深い傷を負わせていた。あの日以来、明人はほとんど感情を表に出さず、苺とも積極的に話さなくなった。勉強に、運動に、空手に全力を注ぎ、それなりに気の知れた友達も出来ていた明人だったが、本心は心の奥に封印しているような状態だった。結果として成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗、家はお金持ちというパーフェクト・ガイという称号を得るに至ったが、苺としては明人の目指しているものがそれではないとこと理解していた。おそらく、これは苺の勘でしかないのだが、かつて自分を助けてくれた『あの人』になることが明人の到達点なのだろう。それが自分のためなのか、明人自身のためなのかは分からない。けれど、明人が空手で最も得意としていたのは蹴り技、特に左右の連続蹴りだ。大会を何度も見に行ったからこそ、そしてあの時自分を助けてくれたあの人が使った蹴り技を見ているからこそ、明人があの人を目指していると思えていた。明人にとっての目標はあの人なのだろうと。並んで歩いている2人を、何も知らない人は恋人同士だと思うかもしれない。だが、実際はそんな関係にはほど遠い、ただの幼馴染でしかない。無言で歩く2人。苺は明人を見ることをせず、これはいつもの状態であるように歩いている。しかし、今日は京也のことがあったせいか、どうにも明人を意識してしまっている。そのせいか、前を見て歩いている苺を、明人がチラチラと横目で見ていた。それに気づいている苺だが、視線を合わせることもない。いつもと同じで会話もなく、ただ並んで歩いているだけだ。だが、ここでいつもと違うことが起きた。


「もうすぐ誕生日だな」


前を見たままそう言う明人を見上げた苺は一瞬止めかけた足を動かし、小さいながらも頷いた。こういう話はメールでこそすれ、話をした記憶はここ数年ない。


「明人くんも、だけどね」

「そうだな」


緊張気味に言葉を発した苺と違い、明人の返事はいつもの明人らしさが出ていた。2人は家が隣同士で生まれた月も同じ。明人が5月9日で苺が5月15日だ。そのまま会話も終わり、家が見えてきた。古めの一軒家が多い地域を抜けた所にある新興住宅地、といっても20年前のものだが、そこに2人の家があった。駅からここまで歩いて10分の距離だ。明人の家は居並ぶ家の中でも特に大きい。門に庭、そしてゆったりとした外観を持つ洋風の家。屋敷とまではいかないまでも、隣に建つ苺の家の倍はある大きさだ。苺の家にも門はあり、小さい庭の横には車2台が止められるスペースがある。普通に考えれば十分大きな家だが、それでも隣の家のせいで小さく見えてしまっていた。


「また明日な」

「うん、ばいばい」


明人と苺が疎遠にならず、毎日一緒に学校へ行っているのは明人が誘っているからだ。あの事件の後、明人はこれまでと違って毎朝先に苺の家のインターホンを鳴らし、彼女が出てくるのを待っている。帰りは一緒だったり別々だったりもするが、誘い、誘われる関係に変わりはなかった。ただ会話がないだけで、幼馴染の関係に変化がない。それは苺にとっては嬉しくもあり、悲しくもある話だ。小さく手を振る苺を見てから門を開けて家に入った明人はただいまと言うとまずは2階の自室へ向かい、かばんを置いてジャージに着替える。そして階段を下りて洗面所へと向かい、手を洗ってからリビングに顔を出した。


「おかえり、今日は遅かったね」


大きめのソファに寝転がりながらせんべいをかじってテレビを見ていた妹の紗奈が顔だけを向けて明人にそう言った。


「みんなとドーナツ食ってきた。走ってくる」

「ふぁ~い」


グレーのジャージに着替えた明人は濃い赤のスウェットを来た紗奈に対してそれだけを言うとリビングを後にした。帰宅後、夕食までの間にジョギングをするのが明人の毎日の日課だ。それがどんなに遅い時間だろうと、どんなにひどい天気だろうとも欠かしたことはない日課だった。中学2年の紗奈にしてみれば、よくそうまでして身体を鍛えられるなと感心してしまう。なら、ずっと空手を続けていればいいのにとも思うが、さすがにそれは口にできない。紗奈にとって明人は自慢の兄だったが、それと同時に絶対的な存在でもあった。寡黙で無表情、感情はほとんど出さない兄が怖いということも少しはある。だが、それだけではない。両親の間違った思想を違うと真っ向から否定し、悪いことをした自分を親以上に怒り、良いことをすれば何も言わずにただ頭を撫でる兄。成績はよく、運動もできる。同級生から羨ましがられ、紹介してくれとせがまれることもほぼ毎日。学校でPGと呼ばれていることも知っているし、その呼ばれ方に納得もしていた。自分も容姿がいいという自負はあるが、隣に住む苺に比べれば落ちると思っているし、何より容姿だけを褒める男子がいることに対しては怒りを禁じえない。成績もそこそこ、運動もそこそこの紗奈にしてみれば、容姿しか取り得がないのかと思ってしまうのだ。だからか、幼い頃から明人の存在は紗奈にとっての自慢であり、絶対的存在となっているのだ。そんな明人と苺がさっさとくっとけばいいのにと思っているのは内緒の話でもある。どう見ても苺は明人に惚れているし、明人が苺に対して時折見せる優しい感じは好意と取れるものだと思っている。気心の知れた2人ならばなんら問題はなく、紗奈にとっても幼馴染の苺はいいお姉さんでもある。変に気取った彼女を作られるぐらいなら一途に兄を想ってくれている苺の方が紗奈的にも自慢できる。そんな妹の心中など全く察せず、明人は玄関のドアを開けた。曇り空だが雨が落ちそうな重たいものではない。軽いストレッチをした後、明人はいつものコースを走り始めた。そんな明人の様子をちょうど玄関側に面した自室の窓から見ていた苺は小さなため息をついてから薄いピンクのカーテンを閉めた。明人がこうしたジョギングをするのはあの事件の半年後から始まっていた。小学生の頃はすぐ近くの川沿いにある公園を走る程度だったが、今ではかなり遠くにある公園まで走っていることを知っている。そこで簡単な技の確認や、空手の稽古のようなことをしていることも知っている。そう、全てはあの事件から少しずつ何かが狂い始めたのだ。明人が無口になり、自分に関してもほとんど感情を表に見せなくなった。苺は制服を脱いで下着だけになると、ベッドに置いた部屋着を手にとってからベッドに倒れこんだ。2人がただの幼馴染でしかない今の関係になってしまったのも自分のせいだ。明人が変わってしまったのも、今より進んだ関係になれないのも、全部。苺はのそのそとした動きで寝転がったまま器用に着替えを済ますと、枕に顔を埋めた。そして思い出す。3年前の冬の日の、あの出来事を。



「やぁ、苺!」


昇降口で下履きに履き替えていた苺は名前を呼ばれて振り返る。その振り返った右頬に、今、苺の名前を呼んだ人物の人差し指がめり込んだ。振り返る苺の頬に指を突き刺すよう、最初からそこに指を準備してから声をかけたのだ。露骨にため息をついた苺は手でその指をどけながらもう一度深いため息をついた。顔を見ずとも声の掛け方、こんな子供じみたことをするそのやり方からして、思い当たる人物は1人だけだった。


「そういうの止めてね、しげちゃん」

「その名で呼ばないの!」

「え?あー、ごめーん」


てへへと頭を掻きつつ謝る苺に対し、今度はしげちゃんと呼ばれた人物が深いため息をついた。その人物の名は椎名茂美しいなしげみ。苺の友達である。


「天然の苺だから許すけど・・・ホント、止めてよね」

「はいはい、しー、で?」

「一緒に帰ろうかと思ってさ」


にかっと笑った茂美は親しい人には自分のことを『しー』と呼ばせるようにしている。しげちゃんでは、まるでおじさんのような呼ばれ方で好きではないのだ。


「あれ?美杉さんとか、関口君とかと帰らないの?」

「あんたねぇ、家が隣や斜め向かいだからって毎度一緒に帰る?だいたいあんたも戸口と帰ってないじゃん」

「んー、そっか、そうだね」

「マジ天然か!優美で慣れてるとはいえ、疲れるわ!」


その言葉に苦笑いしつつ、茂美が靴を履き替えるのを待つ苺は一瞬だけ校舎に繋がる階段へと目をやった。


「なんだ、戸口を待ってたの?」


その一瞬を逃さないのがこの茂美である。ムードメーカーともいえる明るさを持ちながら、時に鋭い洞察力を発揮することを知っているだけに、苺は言い訳をせず素直な思いを口に出した。


「んー、待ってるわけじゃないけど・・・会えるかなって」

「おーおー、恋する乙女だねぇ」


まさにしげちゃんと呼ばれるおっさんのような口調だが、そこはいつものことなので気にしない。


「しーだって、関口君と帰りたいでしょう?」

「あー、パスパス!あんな思春期まっさかりで邪険な目をされたんじゃ、一緒に帰る気にもなりゃしない!あんたらの関係が羨ましいぐらい・・・それにあいつに恋愛感情とかないしね」


吐き捨てるようにそう言いながら、茂美は苺を促して校舎を後にした。茂美の幼馴染で斜め向かいに住んでいる関口貴人せきぐちたかとは茂美を毛嫌いするかのように意図的に避けているのを知っている。自分とは普通に話せるのだが、同じく幼馴染でお隣に住む美杉優美みすぎゆみのことも同じように避けていることから、どうも幼馴染2人と絡むことが恥ずかしいと思っているのかもしれないと考えられた。同じ思春期でも、明人は毎日苺と登校し、タイミングが合えば一緒に帰ることもある。そういう関係がどこか羨ましいと思いつつ、今の貴人を好きではない茂美は距離の置かれた今の関係に不満もなかった。優美は貴人を好きでいるためにかなり落ち込んでいるが、慰めはしても貴人を諌めることはしない茂美だった。こういうものは時期的なものだと、どこか大人びた目で貴人を見ているからこその考えだった。


「そういやさ、健司って、膝、また痛めたらしいね」

「・・・そうなんだ?」


有望な陸上選手である健司だが、少し前に左膝を痛めてからは頻繁にそこを痛めるようになっていた。ちゃんと治癒しないうちに練習することもあって、それはそれで仕方がないとは思う。いつも明るい健司はそんな様子も見せず、今日も部活に励んでいるだろう。


「まぁ陸上バカだからねぇ」

「走ってる健司君ってカッコイイよね」

「おやおやぁ?浮気かな?」

「ち、違うって」

「あっはっは、分かってるっての」


苺の背中を叩きつつ笑う茂美に苺も一緒に笑った。気兼ねなく何でも話せる関係がそこにある、それだけで嬉しい気持ちになった。他愛のない話をし、気が付けばお互いに分かれ道に差し掛かる。まっすぐ行けば茂美の家、右に曲がれば苺の家だ。


「ま、じっくり行きなよ?じゃぁね、また明日!」

「うん、ばいばい」


何度か振り返った後、茂美はやや早足で去っていった。そんな茂美を見つつ角を曲がった苺は少し先のコンビニから出てきた明人に目を留めて同時に足も止めた。そんな不自然な動きに気が付いたのか、明人は顔だけを苺に向けるとそのままそこに立ち止まる。そのことが自分を待っているのだと気づいた苺があわてて駆け寄ると、明人は苺に並んで歩き始めた。茂美を避ける貴人を知っているだけに、そういうことがなくて良かったと心から思える。会話はなくても隣にいられるだけで幸せを感じることができるからだ。


「あのさ、明人くんって・・・私を避けないよね?」

「・・・避ける?何故?」

「思春期だから」

「・・・・・思春期だと、お前を避けるのか?」

「そういう人もいるんだよ」

「ふぅん」


まるで興味がない返事だが、それが苺には嬉しかった。幼馴染としてこうして一緒に帰ってくれる。恥ずかしがらずに。それがただ嬉しかった。


「避けられるなら、もっと前から避けてるよね?」


その苺の言葉に反応した明人は無表情の顔を苺へと向けた。その明人の顔を見た苺は少し戸惑いつつも、立ち止まりかけた足を動かして前へと進んだ。


「ほら、やっぱさ・・・・あんなこと、あったし」

「避ける理由にはならない」

「そっか・・・」

「避けて欲しいのか?」

「ちがっ!違うよ!避けて欲しいんじゃない!一緒にいたいもん!ずっと!」


思わず足を止め、ムキになって叫んでいた。人通りのない薄暗い道の真ん中で、幼馴染の2人は立ち止まり、互いに見つめあった。苺の胸の高鳴りは最高潮を越えているといえよう。一方の明人はいつもどおりの涼しい目をしたままだ。


「ずっと一緒にいたいと思ってる・・・・好きだから」


何故ここで告白をしたのかは分からない。パニックになっていたのもある。だが、自然と出たのは間違いない。自分が告白をしたことに気が付くまで数秒を要した苺が顔を真っ赤にして伏せてしまった。そんな苺を変わらぬ目で見ていた明人は一瞬だけ苺から目を離した。その目にはどこか困惑の色が出ていたが、顔を伏せていた苺がそれに気づくはずもなかった。


「一緒にはいてやる。でも、そういう関係じゃない」


明人の冷たい声に、顔の赤みが一瞬で引いていくのが分かる。さっきまでとは違ったドキドキが胸をしめつけていく。振られたと分かるのにそう時間は掛からなかった。明人はそっと苺の背に手を置くと歩くように促した。この後、2人は無言で家に帰った。どうやって着替え、何を食べ、風呂に入ったかどうかも分からぬままベッドに入っていた。暗い部屋の天井を見上げていた苺の目から涙が溢れてきた。苺は泣いた。自分の恋は終わったのだ。一緒にはいてくれるということは、幼馴染の関係は維持できるということだ。それだけが唯一の温かみだった。


『フラれたようでフラれてないような曖昧な返事だねぇ』


翌日に報告した際に発した茂美の言葉は今でも覚えている。確かにそうだが、苺としては振られたと認識している。あれからも変わらずの関係が続いているとはいえ、『そういう関係』ではないのだから。でも、いつか、もう一度ちゃんと告白しようとは思っている。今はそのために勇気を蓄えているところだ。そう考えれば、ほとんど告白のような感じで京也に接した歩の行動力は尊敬に値する。たった一度、自転車を直してくれただけで京也に好意を抱いた歩に対し、長い間一緒にいるのに関係を進展できない自分との差が大きいと感じてしまう。かといって一度は振られた身だけに、そうそう行動できないのもまた事実だ。振られても、自分は明人が好きなのだから。あの明人が、PGと呼ばれて人気ナンバーワンの明人がいまだに彼女を作らないという事実。健司からの情報によれば、好きな人はいないという。現にナンバーワンの美女である紀子と噂になっても真っ向から否定し、ラブレターの類や告白も全て断っている。他人に興味がないといえばそれまでだが、まだチャンスはあるのだ。苺は卒業までには何とかもう一度告白したいと考えていた。



まったく人気のない暗い公園。その闇を切り裂く鋭い連続の蹴りが宙を舞う。足が地面に着けばすぐさま拳が舞い、そのまま右足が前に上がり、その右足が頂点に達した瞬間に左足が上がった。上体が安定せずバランスが取れない。このバランスが取れない限り、次の段階には進めないだろう。明人は息を切らせながら何度も何度もそれを反復する。左右同時の蹴りを完成させるために。そして30分程度の時間を全く休まず練習し、元来た道を戻りだす。川沿いにある公園に差し掛かった明人は桜が満開だったついこの間までのここの景色を思い浮かべていた。春休み、まだ5分咲きの中で健司たち5人で花見をした。思わず口元に笑みが浮かぶが、それは一瞬のことでしかない。明人は黙々と走り続け、約1時間半の練習は帰宅という形で幕を下ろした。玄関を開ければ、まだ父親の靴はない。そのままリビングへと向かうと紗奈がソファの上にあぐらをかきつつテレビを見ながら濡れた髪を乾かしていた。すぐ横のキッチンにあるテーブルには今日の夕食であるメンチカツが準備されつつあった。


「あ、おかえり。お風呂空いてるよ?」

「あぁ、入る」

「ご飯もうすぐだから、さっさと入ってきなさい」

「ああ」


相変わらずの素っ気無い返事だが、家族にとってはこれがいつも明人だ。逆に愛想がいい方が怖い。紗奈は髪を乾かしながらもテレビから目を離さず母親の光子に怒られる。これもいつもの光景だった。明人は脱衣所で素早くジャージを脱いで洗濯機へ放り込む。風呂場に入る明人の身体はまったく無駄のない引き締まった肉体をしていた。鍛え上げられた筋肉がアピールを存分にしているといった感じか。一旦シャワーで体を流し、湯船に浸かる。今朝教わった蹴りの極意を頭の中で思い浮かべる明人は、やはりもう少しあの人と話をすればよかったと後悔していた。前に両足を上げることによって上半身のバランスを鍛えることは教わったが、肝心の横からの蹴りを行う際のポイントを聞いていないからだ。深いため息をつきつつ頭の中で考えてみるが、頭の中で出来ても実際に身体を動かすこととは全く違う。とにかく今は言われたとおりにするしかない。


「左右同時に蹴りが出せれば・・・・・俺は・・・・変わる」


あの日見た光景。襲われる苺、倒された自分が見た夕日、左右同時に舞う蹴りを放つ人物、その笑顔。あの人のようになりたくて今日まで頑張ってきた。独学で放とうとした左右同時の蹴りだが、9年の実績があるせいか、今朝のアドバイス通り前に同時に出すバランスを保つ動作はすぐにマスターできそうだ。この蹴りが出来て、ようやく自分はスタートラインに立てる、そう思っていた。その時こそ、自分はようやく一歩を踏み出せるのだ。


「もう少しだけ、待っててくれ」


誰にかけた言葉かは分からない。それを知っているのは言葉を発した明人だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ