幸せの貯金 5
あまりの人の多さに愕然としつつ、それでもどうにか進もうとした健司だったが、さすがに断念せざるをえなかった。かなり早めに動こうと予定していたが、電車も混雑が激しく、こうなってしまったのだ。今いる位置からではまともな花火は見えそうにない。困り果てた健司がどうするかを悩んでいると、周囲を見渡すようにしていた春香が右側を指差した。
「あっちの方からならビルが少ないし、まだ見えるんじゃない?」
言われてみれば確かに角度的にビルがなく、まだここよりはいい感じで見ることができそうだ。健司は人の波を掻き分けるようにしつつ春香がはぐれないように手を引いた。躊躇なく手をつなぐ行為に焦りもするが嬉しくもある。そうして10分ほど歩けば人の波も随分と少なくなっていた。もう手を繋がなくてもはぐれることはないが、健司はそのままで歩き続けた。春香も何も言わず、繋いだ手から伝わる温もりを感じてドキドキしつつも黙って歩いた。そうして少し人の多い橋に差し掛かる。石でできた頑丈そうなその橋には、立ち止まって海の方を見ている人で一杯だった。健司はうまく間をすり抜けると人1人が立てるほどの場所を確保する。そのまま春香を橋の手すりの前に立たせ、自分はその後ろに立った。シャワーを浴びてきたようで、いい香りが鼻をくすぐる。
「あんた、見えるの?」
顔だけを後ろに向けてそう言えば、健司は黙って頷くだけだ。背の大きさもあって、春香の頭頂部がちょうどあごの位置にあるために問題はない。少し申し訳なさそうにしつつ、春香は健司の好意に甘えることにした。
「暑くないか?」
背後を人が通るためにやや密着した感じになっていることを気にしたのだ。春香は小さく頷くと、お互いが前を向いていて良かったと思っていた。健司の体温を感じ、胸がドキドキしている。顔も少し赤くなっていることを自覚できるほどに。なんでこんなに好きになってしまったのだろうかと考えるが、答えは出ない。いや、本当は分かっている。自分は明人を好きになったが、どうにも気持ちが見えず、明人も苺を好きなような感じもしていて最初から実らぬ恋だと自覚していた。そんなときに健司の優しさに触れ、心が動いてしまったのだ。明人と違って分かりやすい優しさ、それでいてさりげない優しさ。そんな健司の心に触れ、曇っていた明人への想いが健司に流れていったのだ。その結果が病室でのキスだ。どうしてあんなことをしてしまったのかは自分でも分からないが、そうした自分に満足もしていた。名誉の負傷、それに間違いはない。その感謝を込めてのキスであり、初めてのキスを贈るにふさわしいと思ったからだ。だから後悔もない。だが、健司に告白する勇気はなかった。振られたとはいえ、健司はまだ苺が好きだからだ。それに、そこを吹っ切ったからといって自分を好きになってくれるとは思えない。健司は自分のことを友達だと思っている、そう実感していた。今日のことも、予選落ちした自分を慰めるための行動だと理解している。それに健司に想いを寄せている女子の中には自分よりもずっと容姿がいい子もいる。性格も素直でいい子がたくさんいるのだ。
「飲み物でも買ってくればよかったなぁ」
背後でそう言う声に頷いて返す。健司はだよなぁと小さく言ったきり、何も言わなくなった。春香もまた黙り込む。そうして花火が撃ちあがるまでの30分間、会話は全くなかった。
*
「ここ、入ってもいいの?」
「一昨年はここで見ただろう?」
そう言う明人が立っているのはとあるショッピングセンターの屋上駐車場だった。3階というあまり高さはないが正面に障害物がないためにポイントとしては申し分ない。9時まで営業しているここは結構な穴場だが、それでいながら人も多い。明人と苺は一番前に立っているが、後ろはもう5列以上の列を成していた。あと30分ほどで花火が上がる。2人は腕と腕が触れ合うほど近くに立っているが、それは人ごみから苺を守るためでもある。そのため、苺も意識することなく立っている状態だった。
「みんなも来てるのかな?」
「木戸たちは行くと言ってたからな」
昨日メールした限り、京也は歩と行くとの連絡が来ていた。健司と春香に関しては曖昧な返事しか来ていない。その曖昧な文章から2人で来ることを悟った明人だったがそこは何も言わない。苺が2人は用事があるのだという認識をしているためにあえてそれを言うことはないと判断していたのだ。最近、春香が健司を意識していることは知っている。そして少し前は自分に好意を寄せていたことも。知っていてあえて知らない振りをしていたのだ。無感情無表情、その裏で恋愛に関しては弱い面を持っていた。苺を好きでいながら自分の目標のためにそれを抑えてきた。その結果が無感情なのだ。好きな気持ちをひた隠しにするために、常日頃から鉄仮面ともいうべき無表情を貫いている。
「歩ちゃんと木戸君って、どこまで進んでるのかなぁ」
相変わらず余計な詮索をする苺だが、あの京也と歩が早々進んでいるとは思えない。
「まだ一枝は千石が言うところの商品価値が高い方だろう」
「処女ってこと?」
せっかく濁して言った言葉が台無しだ。小声だったとはいえ周囲も怪訝な顔を向けている。明人は何も言わず前を見ていた。ガツガツしている感じの健司ならいざ知らず、京也がそういう感じにも思えない。歩が積極的でも、彼女をとても大切に想っているのを知っているだけに、あの2人のペースはゆっくりだろうと思っていた。そう考える明人を見つつ、苺は自分がそうなった時のことを想像した。明人と恋人同士になれば、多分自分はすぐにでもそうなりたいと思うだろう。身体の繋がりが全てではないが、それでもしっかりと繋がっていたいとは思う。けれど明人はどうだろうか。あまりそういうことに関心がないようにも思えるだけに、苺の気持ちだけが暴走しそうな気もした。ただ、悲しいかな今の2人の関係は幼馴染でしかない。ため息をつく苺をチラッと見た明人は少し口元を緩めるとすぐに前を見るのだった。
*
花火大会の開始を告げるアナウンスの後、音楽に合わせて花火が上がる。打ち上がる様がはっきりと見える位置にいる京也たちは歓声をあげ、大輪の華を咲かせるための筋が空中に舞うのを見る明人たち、そして大きく開く花火を見て声を上げる健司たち。3組が3組とも異なる場所で同じ花火を見る。盛大に上がる花火を見つつ、時折見つめあって微笑みあう京也と歩は社長が用意してくれていた小さな冷蔵庫の中にあったジュースを飲んでいた。
「来年も、こうして花火が見たいですね」
「そうだねぇ。来年まではここを使えそうだけど、卒業して今のバイトを辞めたら早い時間に来て場所取りしないとね」
「そうですね」
そう言って微笑みあい、今日何度目になるかわからないキスを交わす。花火の明かりに照らされながら、少し時間を掛けたキスをし、名残惜しそうに唇が離れた。やがて2人は花火をそっちのけでキスを続け、結局花火を見に来たのかキスをしにきたのかわからない状態になるのだった。その頃、橋の上の春香と健司も身体をくっつけあって花火に見入っていた。身を乗り出すようにする春香の身体を片腕で支えつつ、健司は春香の背中に自分の身体をくっつけていた。暑さもまた花火を盛り上げる材料になっている。
「綺麗だね?」
顔を自分の方に向けるが、密着しているために表情は見えない。
「ああ」
言葉しか聞こえないが満足そうにした春香が花火を見つめる。そんな春香を感じつつ、健司の中で何かが揺れ動く。それは苺への気持ちが揺らせているのか、春香への気持ちが揺らせているのか。ただ、苺と一緒にいるときにはない満足感は自覚している。だからこそ、健司は自分の気持ちに向き合う決意をした。苺に振られた現実を見て、今いる春香とのことを考えようと。そんなことなど知らない春香は花火が上がるたびに一喜一憂していた。そしてそれは苺も同じだった。一発一発にはしゃぐために明人は集中できない。やがて無意識的に自分の腕に絡みつく苺に気づくが、そのままにしておく。苺の体の柔らかさを感じつつ、自分が苺を好きだという気持ちが高まっていく。それでも表情には一切出さない。
「すっごいね!綺麗だね!」
「ああ」
時々自分を見て興奮しきりの声を上げる苺を見てふと表情が緩む。こういうところは子供の頃から何も変わっていないと思う。親を交えて家の庭で花火をしたときもそうだった。そんなことを思い出しながら、明人も花火を見つめ続ける。来年は今とは違った関係でいたい。そういう決意を胸に花火を見つめ続ける明人だった。
*
毎年恒例の花火大会が終われば8月になる。夏休みだからといっても春香と歩が部活のために6人で遊ぶことは多くはなかった。それでもプールに行ったりボウリングに行ったりして遊んではいた。もちろん京也と歩は2人きりのデートもしている。関係はほんの少しだけ進み、大人のキスをするようになった。だが、それ以上は進んでいない。一方で、健司と春香も2人で出かけることが2度ほどあった。プールに行って真剣に泳ぎの対決をしたり、映画を見たりして楽しんでいた。残る明人と苺に関しては2人きりで出かけることはなかったものの、暇つぶしにお互いの家を行き来してゲームをすることが多かった。そうして思い出の多い夏休みもあっけなく終わりを向かえ、新学期になる。千石によって大怪我を負った新城も復帰し、千石の替わりの臨時の数学教師もやって来た。一方で事件に関しては進展はなく、牧田以降に保護された女子生徒はまだいない。その牧田だが、精神状態が不安定ということもあって自主退学となり、東京の大きな大学病院に入院していた。心身共に大きなダメージを負っているとの噂が流れたが、真相は誰にもわからなかった。そんな新学期も一週間も経てば夏休みボケしていた体も学校に慣れてくる。今日も今日とて放課後の屋上で紀子と話をしていた京也は、背後の扉が開く音を聞いてそちらへと顔を向けた。
「ありゃ?」
「やはりここにいたか」
予想通りという感情が込められた明人の言葉に京也の顔が疑問を表す。そんな京也の横に立った明人は一瞬紀子を見たが、何も言わずに京也に体を向けた。そしておもむろに上履きを脱ぐと、片方を手に取って空中に投げた。その瞬間、右の蹴りが舞い上がり、次いで左の足が舞う。上履きは一瞬空中で動きを止めた後で右側に飛び、離れた場所に落下した。明人はほとんど同じ場所に左足を下ろすと息も乱さないで上履きへと視線を走らせた。
「ほぇ~・・・完璧な『幻龍脚』じゃないか」
「これで課題はクリアか?」
「そうだねぇ、OKだね」
その言葉に表情は変わらないが、どこかホッとしたような気配を見せる。そんな明人を見た京也は上履きを拾うと明人の足元にそれを置いた。
「よくそんなことができるわね」
感心したような紀子の言葉に京也は苦笑するが、明人は無表情だ。そんな明人が京也を見て口を開く。
「確か『亀岩砕』は奥義だったな?」
「そうだよ」
「なら、それにも裏の奥義があるのか?」
「そうなるね」
「なんなの、その、きがんさいってさ」
京也は明人の質問の後でそう聞いてきた紀子を見た。そこで一つ何かを考えるようにしてから説明を始める。
「『亀岩砕』っていうのは木戸の蹴り技で奥義。由来は、どこかにある亀岩っていう変わった石があることから始まるんだよ」
その昔、日本の沿岸地方の海に亀岩と呼ばれる岩があった。かなり大きなその岩は海を後ろに前へ向かって貫通する形で穴が開き、波の高い日はその穴を勢いよく海水が通過していたという。その波を亀の頭になぞらえて亀岩と呼んだらしい。木戸の技を持つある時代の男がその亀岩の前に立ち、通過する海水を蹴り付けた。だがどうにも波の勢いが強く、蹴りが負けてしまうのだ。そこで左右ほぼ同時に蹴りを撃てば波にすら負けない威力の蹴りになると考えて編み出したのが『亀岩砕』だというのだ。
「そして、木戸無双流には裏の奥義がある。もちろん『亀岩砕』にもね」
そう言うと明人の顎をめがけて京也の左足が舞う。それは千石ほどのキレはないせいか、避けるには問題ないスピードだ。だが、避けようとした明人の頬をかすめるのは右の蹴り。左足を舞い上げながら右足で顔を凪ぐように同時に蹴る。半歩後ろに下がって打ち上げられる蹴り避けて、さらに右の蹴りをブロックした明人だが、次の攻撃を予測する前に京也は派手に背中から倒れる体をどうにか片手で支えていた。わざとではなく、本当に倒れたのだ。足技が苦手なためか、それともまともに習っていないからかはわからないが。
「今のが裏の技、『斬亀岩砕・流水』・・・見た通り俺には使えない技だよ」
「裏・・・流水・・・」
「『亀岩砕』であってそうじゃない奥義だよ。我流で習得するのは無理だからね」
言われてみればそうだ。鋭い蹴りが2つ、下から打ち上げるものと横から薙ぐもの。同時に来れば対処は難しい。キレがあれば、どちらかはまともに喰らう可能性が高かった。それに京也は最後のひと蹴りを出せていない。本来の流水は蹴り上げた足を振り下ろして、避けて反撃してくる相手に踵落としを見舞うものだからだ。習得は難しいと考えるようにしている自分に対して念を押すようにそう言った京也を見た明人は頷きもせず見つめていた。座り込んだままにんまり笑う京也を見た紀子はただただ驚くばかりだった。
「行くぞ」
そう言うとさっさと背を向ける明人。
「『幻龍脚』はマスターした。なら、次は奥義だろ?」
「せっかちだね、君は」
やれやれといった感じで立ち上がると、紀子に苦笑を残して屋上を後にした。残された紀子は明人が見せた技も京也が見せた技も現実味がないような印象を受けていた。ただ、京也が千石を倒したという話は信じられる、そう思える技だった。
*
顧問に呼ばれていたこともあって職員室にいた春香は屋外プールへと向かっていた。今月半ばまでは屋外プールでの練習になっているため、屋内プール側にあるロッカーではなく部室で着替えている。改造工事も完了した科目棟だが、そこを通るのはまだ少し怖い気がする。紀子はそうでもないが、苺などはいまだに近づけないほど精神的ダメージを負っているほどだった。その為、科目棟側を通れば近道になるが校舎内を通って部室に向かう。そうしてちょうど1年生の教室がある廊下に差しかかった時、話し声が聞こえてきたために思わず足を止めた。
「ずっと先輩のことが好きでした」
告白だと思う春香がそっと角から顔を出す。そこにいたのはかなり可愛い顔をした1年生だ。何故この子がキューティ3選挙で上位に来なかったのかが不思議で、千石が狙わなかったのも気になる。夏服のためによくわかるかなり大きな胸もしていた。苺のそれより大きいと思う。そんな1年生の前に立っているのは健司だった。1年の頃からこうして時々健司が告白されている場面を見ることがあった春香だが、今日はいつもと違う心境だった。以前の自分であれば告白を受けるのか受けないのかなどは気にならず、ただニヤニヤしてその様子を見てこれた。だが、健司を好きな今は違う。その返事が気になって仕方がなかった。
「あー、うん、ありがとう」
ゴクリと唾を飲み込み、再度そっと顔を覗かせた。女子生徒は恥ずかしそうに顔を真っ赤にしつつやや俯き加減ながら健司を見上げるようにしている。一方で健司は困ったような顔をしているが、どことなくニヤついているようにも思えた。
「私を彼女にしてください!」
はっきりそう言った彼女の真剣な目はその横顔からでもはっきりと分かる。ドキドキしながら健司を見る春香だが、息は荒く喉がからからになっていた。
「ゴメンな。気持ちは凄く嬉しいんだけどさ、それは凄くありがたいんだけどさ。俺、好きな子いるからさ」
頭を下げつつそう言う健司に涙目になった女子は小さく頷いた。
「でもありがとう。君みたいな可愛い子に好かれて、嬉しかった」
小さく微笑んでそう言う健司に一礼し、女子は少し泣きながらこっちへやって来た。ヤバイと思った春香は、今ここへ来ましたよという風に歩いているよう芝居をした。女子は涙を拭くようにして自分の前を通り過ぎ、昇降口の方へ消えていった。少し振り返ってため息をついた春香がホッとした顔を見せる。
「何やってんだ?」
その声に全身をビクつかせた春香が声のした方を見れば、健司がすぐそこに立っていた。どうやら歩いてきた振りをしながら女子に気を取られていたせいで、角から出てしまったのだ。
「な、何って・・・顧問に呼ばれててさ、今から部活」
「ほぉ」
「だから、別に何も見てないし」
そう言った春香はあわてて両手で口を塞いだ。その行為を見た健司は苦笑しつつ壁にもたれるようにしてみせた。それを見た春香は口を押さえた手を下ろしつつそっぽを向いた。顔が少し赤いのは照れか、それとも別の要因のせいか。
「お前、苺ちゃんに似てきたな」
「うっさいわね」
「見てたなら見てたって言えばいいのに」
「見てた」
「だよな?」
「ムカッ!」
睨む春香に苦笑し、健司は腕を組んだ。
「ま、見ての通り振ったよ」
「慣れてるんでしょ?」
「慣れてても、いやな気分にはなるよ」
そう言うと健司は壁から離れた。少し疲れたような顔をしている。
「でも、あんな可愛い子を振っちゃうとは」
「しゃーねーじゃん、好きな子、いるんだし」
「そのあんたの好きな子よりも大きな胸してたね」
「あー、ま、そうなるな」
そう言ってチラッと自分の胸を見た健司に目を細めた春香はずいと一歩健司に近づいた。
「悪かったわね、私はなくて」
「まぁ、思ってたよりはあったけどな」
その言葉にあの海での出来事が頭をよぎった春香が力いっぱい健司の右足の甲を踏みつけた。絶叫する健司を残し、鼻息も荒々しくその場を立ち去る春香。そんな春香の背中を見つつ、大きなため息をついた。さっきの告白を断る際、頭に浮かんだ好きな子は春香だった。もう間違いない、自分は春香を好きになってしまっている。そう自覚せざるを得なかった。
「胸はないけど、魅力はあるんだよな・・・気も合うし」
ため息混じりにそう言うと昇降口へと向かう。そんな健司は海で不可抗力ながら春香の胸を揉んだ右手を見つめた。
「胸を掴んで惚れたってわけじゃないけどさぁ」
柔らかかった感触は今でもはっきりと覚えている。だからと言って色欲に駆られて好きになったわけでもない。そう考える健司は再度深いため息をつきながら下駄箱の前に立つのだった。
*
目の前に並ぶ3色のドーナツを前に満面の笑みを浮かべる苺は両手をすり合わせるようにしてどれから食べるかを決めかねていた。苺味したピンクのものか、茶色いチョコレートのものか、それともクリームの入った白いものか。どうせなら全部を味わいたいと思う苺は3つのドーナツを重ねていく。まるでハンバーガーのように積み重なったそれを見て満足そうに笑うと、それを掴もうと手を伸ばした。
「斬新な食べ方だな」
鋼鉄の中に含まれる冷たい声が背後から聞こえてくるが、振り向かずとも分かるその声の主。苺は目だけを動かすが、完全に真後ろにいる相手の表情は見ることはできない。変な汗は暑さのせいではない。身動き1つ取らずにいる苺の前にある積み重なったドーナツの乗ったトレイの横に、チョコレートのドーナツとアイスコーヒーが乗せられたトレイが置かれた。それでも動かない苺の前に座る明人が冷たい視線を苺に向けていた。
「食べないのか?」
「あはは・・・今日は、普通に食べる」
声のトーンがガタ落ちだ。明人はそんな苺を見ずにアイスコーヒーにシロップを入れつつかき混ぜる。優雅な手つきの明人とは対照的にやや緊張した手つきでドーナツを解体してく苺。
「それにしても、食べすぎじゃないのか?」
「ぁえ?そ、そうかな?今日は水泳があってさ、お腹が空いたんでさ・・・」
「そうか」
それしか言わずにドーナツを食べる。実にいつもの明人だが、それがどうにも不気味すぎた。
「明人君は、なんでここに?」
そういうのが精一杯だ。とりあえずアイスレモンティーを飲みつつ落ち着こうと考えたが、明人の視線を受けて余計に変な汗が出てきた。
「確か夏休みも目標は、ダイエットだったな?」
苺の質問には答えずにそう聞く明人のその言葉にストローの中身を逆流させた苺は顔を伏せたまま動けない。予想通りの反応を見せる苺に明人は目だけを向けるが、苺には切り返せる力はもうなかった。
「な、夏休みは頑張ったもん」
「家族で行ったディナーバイキング、美味しかったな」
その言葉にギクリと体を揺すった。お盆に明人と苺はお互いの家族も一緒にホテルのディナーバイキングに行ったのだ。そこで紗奈と2人でほぼ全品を平らげた苺にどこがダイエット中なのかと問えば、今日は特別だと言い訳をしていた。
「暑いからってアイスを食べてたよな?ほぼ毎日、何本も」
夏は暑いから水分を取らないと死ぬと言い訳して、毎日棒つきのアイスを何本も食べていた。
「今日は帰ったら俺の前で体重計に乗ってもらう」
「いやぁぁぁぁぁ!」
有無を言わせぬ鋭い声に苺は悲鳴を上げた。他の客が注目するのもお構いなしに明人は黙々とドーナツを食べる。苺は食欲を失うが、涙目になって明人を見つめた。
「うう~、それだけは、それだけは許して~」
うるうるした目をした苺を冷たい目で見た明人はストローを掴んだ。
「明日からちゃんとダイエットするのなら、今日は黙認してやる」
「ほ、ほんとぉ!?」
「ああ」
「じゃ、じゃぁ、今日はOKね?」
「ああ」
その言葉に天にも昇りそうな顔をした苺は意気揚々とドーナツを重ね始めた。それを見た明人が口を挟むよりも早く大きな口が3つのドーナツを一気にくわえた。さすがの明人も呆れた顔をするが、苺はご満悦な顔をしてもしゃもしゃと味を噛み締めていた。
「うん、おいひい」
そんな苺に何も言えず、明人はため息をついてコーヒーを飲んだ。
「あー、もう、しあわせ~」
うっとりしつつそう言う苺を見た明人の口元が緩んだ。
「夏休みに行った海、覚えてるか?」
唐突なその言葉に再度3段のドーナツをかじりつつ、苺は大きく頷いた。明人はコーヒーを口に含んでから苺を見て、それから続きを口にした。
「胸より腹が出てたぞ」
その言葉に口の中のドーナツを噴き出す。明人にもそれがかかるが、実に冷静な明人はコーヒーにそれが入らないように手で蓋をしていた。ただ顔にドーナツの欠片が飛んだがそれはどうでもいいようで、近くのペーパーを取ると冷静にそれを拭いていった。むせ返る苺が慌ててレモンティーを飲み、涙目で明人を睨む。明人は涼しい顔で全てを拭き取るとこちらもアイスコーヒーを飲んだ。
「ひっどいよ明人君!そこまで酷くないもん!」
「そうか?」
「そうだよ!」
「冗談だ」
「じょ、冗談でも酷いもん!」
「悪い」
かすかな笑みを浮かべてそう言う明人を睨みつつ、ふと我に返る。明人がこんな冗談を言うのはいつ以来だろうか。まずここ数年は聞いていない。それにさっきまでにはなかった柔らかい雰囲気もまた珍しい。
「そういうのは、冗談でも言わないで」
「了解した」
口元の笑みはそのままにそう言う明人がドーナツを食べた。食べ終えた後は笑みは消えていたが、雰囲気は柔らかいままだ。
「なので、明人君には賠償を請求します」
「賠償?」
「慰謝料だね、罰ゲームみたいなの」
「傷ついたのか?」
「あったりまえでしょう!」
「ほう」
無表情でそう言い、明人は苺を見据えた。その視線を受けてドキッとするが、負けてはいられない。
「で、何をすればいい?」
「そうねー、今日は一緒に寝る、とか?」
絶対に明人が嫌がることをと思ってそう言い、ニヤリと笑う。そんな苺を見た明人は表情一つ変えず、最後のアイスコーヒーを飲みきった。
「わかった」
「・・・え?」
「なんだ?」
「・・・いや、その、いいの?」
「嫌なら他のにしろ」
「・・・・・・・・・あう」
「なら決まりだ」
「ぁえ?」
*
壁の方を向いて目をパチクリさせる苺は金縛りにあったかのように動けなかった。ベッドの隅に寝転がり、タオルケットを腰に巻いている。ゆっくり動いているクーラーの音以外、しんと静まる自分の部屋。そんな静寂の中に規則正しい寝息が真後ろから聞こえていた。目だけを動かすがもちろん後ろは見えない。かといって振り返る勇気はない。ギンギンに目が冴えている苺はどうしてこうなったかを考えていた。自分が出した条件を明人が飲むのは計算外中の計算外、予想もしていない出来事だった。これではまるで自分が罰ゲームを受けているようなものだ。結局あの後は無言でドーナツを食べ、無言で帰る。家の前まで来たところで明人は後でなと言い残して家に帰り、そのまま連絡はしてこなかった。どことなくホッとしたようなそうでないようなモヤモヤした気持ちのまま夕食を済ませて入浴する。そうしてリビングに行けば母親と話をしている明人を見て素早く、それでいて大きく後ろへ下がった苺だった。まるでゴキブリねと母親に言われたが、そんなことはどうでもいい。明人は無表情で苺を見、母親はニヤニヤしていた。その後は父親も交えて話をし、時間も時間なのでと苺が先に部屋に戻り、20分後に明人がやって来る。勝手にクーラーの温度を設定すると母親が渡したタオルケットを手にベッドに腰掛けると本棚に並ぶ漫画を見つめている。震える手で春香とメールのやりとりをしつつも緊張から何を打ったかは覚えていない。そうしていると明人が寝るぞといい、自分が壁側に寝てその向こうに明人が寝転ぶ。電気も消えて会話もなく背を向け合って寝転ぶ2人。そしてそのまま現在に至っている。いつも枕元に携帯を置く苺がギクシャクした動きでそれを見れば、時刻は午前2時になっていた。横になったのが11時半、もう2時間半もずっと動いていない。さすがに疲れた苺が寝返りを打つ振りをして明人のいる方に向けば、明人は苺の方を向いて寝息を立てていた。すぐそこに明人の顔がある。寝息を立てるその唇を凝視しつつ、苺はよからぬことを考えている自分と戦った。キスしたい、でもしてはいけない。葛藤し、悶える。1人でごそごそ動いていたせいか、明人は寝返りをうって向こうを向いてしまった。その結果キスは出来なくなったがホッとした自分もいる。ため息をついて天井を見た苺は顔だけを動かして明人を見た。どうしてあんな提案を受けたのかがわからない。こうして同じベッドで寝ていても何もしてこないことからして、明人は自分をただの幼馴染としてしか見ていないのかと思う。それは悲しくもあるが、それでもいいと思っている自分もいる。自分は明人が好きだ。ずっとずっと小さい頃から好きだ。だからといって明人もそうだと思わない。けれど、千石と戦った際の明人のあの様子、悔しさで涙を流したこと、常に自分を気遣ってくれたことは幼馴染以上の感情が出ていたようにも思える。だが、過去に自分が襲われたあの事件が原因だとも思えてくる。あの時、自分を守れなかったから、だからこそ今度は絶対に守る、ただそれだけだったようにも思う。ますます頭がぐしゃぐしゃになり、苺は疲れて考えるのを止めた。それでも目が冴えていたこもあって、結局窓の外が明るくなるのを見た頃、ようやく眠りについた苺だった。
*
いつもトレーニングに行く習慣からか、5時には勝手に目が覚める。かといって今日は苺の家に泊まっているのでトレーニングに出かける気はなかった。勝手に家を出ていくことは出来ないからだ。明人はまるで自分を抱き枕のようにして寝ている苺の腕をゆっくり離すとのっそりした動きでベッドに腰掛けた。おおきな欠伸をしつつ苺を見れば、すやすやと寝息を立てている。へそが見えるほどめくれ上がったパジャマを直し、タオルケットを掛けてやる。ついさっきまで起きていたこともあって爆睡状態だ。そんな苺を見て苦笑しつつ、明人は小さなため息をついた。
「やっかいな罰ゲームだ」
明人もまた眠れずにいたのだ。苺は寝ていると思ったようだが、実際は眠るどころではなかった。ただごそごそしたり、悶絶する苺のおかげで退屈せずにすんだが。眠い目をこすりつつ、苺の邪魔にならないように寝転がる。そっと苺の髪をすくようにした明人の表情が緩んだ。そんな明人に腕を絡めて体を摺り寄せてくる。またも抱き枕状態にされた明人が抱きついている自分の柔らかい体の感触を心地よく思っているとは知らず、苺はむにゃむにゃと口を動かした。
「なかなかキツイ罰ゲームを考えたな」
されるがままに目を閉じた明人もまた目を閉じれば、すぐに眠りに落ちてしまった。そうして抱きしめ合うようにして眠る2人が目を覚まし、抱き合っている状況に苺が悲鳴を上げるのはほんの少し先の話だ




