幸せの貯金 3
クーラーの効いた部屋は涼しいが、空気が重い。7月の末の快晴な午前中とは思えぬ重苦しい空気に苺は苦い顔をして目の前にある宿題を睨みつけていた。英語の文章が並んだそれを見ているだけで眠気が襲い、頭痛がする。そんな苺は大きくため息をついた矢先、目の前にいる明人の鋭い視線を感じてあわてて口を閉じると宿題のプリントを凝視した。
「よく読めば簡単な問題だ。1枚5分で片付けろ」
氷の言葉に泣きそうな顔をする。そんな苺から自分の宿題に目を移した明人の進み具合はもう終盤だった。毎年7月の終わりにはほぼ全ての宿題を終える明人にしてみれば、毎年ギリギリになって泣きついてくる苺が煩わしことこの上ない。なので今年は毎日ほぼ付きっ切りで一緒に宿題をしていることもあって、苺の宿題はこの英語と読書感想文を残す程度になっていた。ただ、目の前の家庭教師は厳しすぎる。苺は泣きそうになりつつも目の前のプリントに集中した。そうして昼過ぎには英語の宿題も終わり、これで残りの一ヶ月は遊んで暮らせる身に大きく万歳をした。
「海、約束したよね?海!海~!」
「で、いつにするんだ?」
「明日!花火大会もあるしさ!」
どうせならどっちかにして欲しいと思う明人だが、一気に済ますのも悪くないかと思う。怪我も癒え、医者からの了解を得て既に夏休み前から毎日のトレーニングも再開している。そして一昨日からは京也のもとで『幻龍脚』の練習も始まっていた。いつものへらへらした京也にはない鋭い視線に口調。そのおかげか、身も引き締まる思いで練習に力が入っていた。もともと『幻龍脚』に近いことができていただけに、マスターも近い。この技を習得しない限り本命の左右同時の蹴り技である『亀岩砕』に移ることはできないのだ。それに、京也には内緒にしてるが、朝晩のトレーニングの中に千石と戦った際に京也が見せた技の練習も加えてあった。技の名として知っている『螺旋』、名は知らないが、横殴りのパンチから肘を折りたたんでそれを突く『陽炎』も密かに練習しているのだ。さすがに『穿』は使えない。驚異的に握力を鍛えたからといってああも簡単に人の体に穴を穿つなど出来るはずもない。あれこそ、4百年の血と遺伝子がもたらすものだと思う明人はその先にある千石を倒した技『裏雷閃光』も除外していた。あんな技こそ神技としか思えない。
「明人君さ、木戸君から技を習ってるって本当?」
ちょうどそのことを考えていただけに明人は少々動揺したが、顔には出さない。黙って頷くだけだ。
「へぇ、あの凄い蹴り技だよね?昔見たヤツ」
その言葉に頷き、明人は漫画がズラリと並んだ本棚にもたれるようにしてみせた。ここは自分の部屋だけにくつろげる。日替わりでお互いの部屋を行き来して宿題をしていたこともあって、今日は明人の部屋になっていた。いや、明人の部屋なのにベッドの上に転がる苺の方がリラックスしすぎだと思う。ミニスカートから下着が見えそうだが、明人はなんとも思わない。苺が好きでも、こういう部分に関しては理性が勝つというよりは煩悩がないといった方がいいか。それがたとえ好きな相手でも。
「でも木戸君、その技、使えないって言ってたよね?」
今思い出しても震えがくる。時折あの時のことを夢に見て泣きながら目覚めることもあった。迫る千石の顔、殺される悠、倒される明人、血を吐いて倒れる千石、そして血に濡れた手を見つめる京也。全てが恐怖の対象でしかない。
「使えなくても使い方は分かる。使えるのと知っているのとでは意味が違うからな」
「ふぅん・・・じゃぁさ、明人君が木戸君と戦ったら、やっぱり明人君が勝つの?」
好奇心がありありなのか、足をぱたぱたしながらそう聞いてくる苺から視線を外した明人は少し考え込むような仕草を見せた。純粋な強さからいけば自分が上なのは間違いない。ただ、京也には圧倒的なほどの特殊能力、凄まじい空間認識能力がある。ならばスタミナで勝る自分が攻撃に徹すれば、勝機はあるだろう。ただ、掴まれた腕や足に『穿』を食らえばそれは致命傷になる。それにあの奥義、あれは驚異的だ。ただ戦い慣れている分、自分が勝つ算段が大きいか。
「7対3で、俺が勝つ」
冷静に判断した結果、そう口にした。
「3は負けちゃうんだ・・・」
その言葉に完勝を信じていた苺を見た明人は小さく微笑んだ。いくら京也が千石を倒したぐらいに強いとはいえ、そこは完勝するといって欲しかったのが本音だった。
「あいつは千石に勝って、俺は負けた。その上で相手の技を知っていた強みを引いて考えれば、そうなる」
「知っていれば、明人君も勝てた?」
「わからんが、勝つ確率はかなり上がっただろうな」
「そっか」
そう言う苺に苦笑し、明人はため息をついた。実際は違う。そうは言ったが、千石に勝てたかどうかと言われれば、答えはノーだ。あの時の自分の理想、発想、考え方では決して勝てなかったと思う。今の自分なら5分以上の勝機があると思えるが、それでも絶対に勝てるとは言えないだろう。
「心配するな、今度は絶対に守る」
たとえ命に代えても、そう心の中で呟いた明人は赤い顔をしてチラチラ自分を見ている苺を無表情な顔をして見つめるのだった。
*
暑い日ざしに熱い砂、目の前に広がる青い海。これぞ夏というべきシチュエーションに荷物を置いた京也の口元が緩んだ。今日は歩との久々のまともなデートである。これまでは部活でろくなデートも出来ず、夕食だけやら、夕方だけ家でゲームやらといったこじんまりしたものでしかなかった。今日明日は歩の部活もなく、今日は海水浴で明日は花火大会という連続デートの第1弾である。パラソルを砂に差込み、シートを敷いて荷物を置いた京也は既に水着に着替えている。電車ではなくバスを乗り継いできたために少々時間が掛かってしまったが、ほとんど乗り換えなしにここに来れたのが大きい。それに早めに出発したこともあって十分楽しめるだけの時間もあった。ここは穴場の海水浴場で、人もそう多くはない。遠浅の海で向こう100メートルは膝程度で、そこから先が深くなっている場所だ。家族連れは少し離れたいわゆる白い海岸沿いにいて、ごつごつした石の多いこの辺りに人は少なかった。
「お待たせしました」
そう言って近づく声の方を見れば、オレンジを貴重とした水着に身を包んだ歩の姿がある。まぶしいほどに輝く美貌に見とれていた京也を見て恥ずかしそうにする歩だったが、京也の笑顔を見て嬉しそうな笑顔に変わった。ビキニの水着に目が行くが、歩は恥ずかしそうにしながらも自分の荷物を置く。すぐ近くのホテルで着替えてきたために遅れていたのだ。
「なんていうか・・・似合ってるし、可愛いね」
そう言って照れた顔をした京也に顔を赤くしつつ、歩は京也の手を取った。
「さあ、早速行きましょう!」
「そうだね」
付き合い始めて2ヶ月が経つが、歩は2人きりの時でも敬語のままだった。それが2人の距離感となっていると春香に指摘されていたが、当人たちは気にもしていない。遠浅の海をずんずん進み、随分沖まで来たところでようやく腰まで水に浸かる。不思議な感覚に歩ははしゃぎ、京也もまたそれを楽しんだ。
*
「夏といえば、海」
「海といえば、青春」
「青春といえば・・・・・・・・・・・夏!」
「イエーイ!」
そう言って駆け出す男女1組。端から見れば痛々しい会話だが、周囲に人はいない。駆け出す男、健司は両手一杯の荷物を持ち、石がごつごつした砂浜に大きめのパラソルを広げて突き刺した。その影の部分にシートを敷く女は春香だ。今日は健司と約束をしたデートの日である。明日は明日で花火大会を一緒に見ることになっている。ダメ元で誘ってみた春香だったが、意外にあっさりと健司はOKしていた。健司のズボンは既に水着ということでTシャツを抜いて上半身裸になる。今は帰宅部のわりにはかつて陸上をしていた名残か、たくましい体つきをしており、それを見た春香は少々ドキドキしつつ自分も下に水着を着て来たために服を脱いでいく。その仕草がセクシーに思える健司はじっとそれを凝視していた。春香は白に赤が混ざったビキニタイプの水着を着ており、あまりないと思われた胸も膨らみを見せていた。
「ちょっと・・・見すぎじゃない?」
さすがに少し恥ずかしい春香の言葉に我に返った健司がとぼけた顔をして背を向ける。その両肩に痛々しい傷跡を見た春香は黙り込み、そのまま海を見た。見た限り人は少ない。近くにいる親子連れの他には沖の方ではしゃいでいるカップルがいるぐらいか。
「よし、行くか」
「その前に、これ」
小さめのビニール製のボードを取り出して健司に差し出す。折りたたまれていることからして空気を入れろということだ。
「まだそんなに力は出せないんだけどね」
そう言いながら健司は空気を入れ始めた。胸の骨折は完治している。骨も綺麗にくっついてはいるが無理はまだしないように医者から言われてもいた。とりあえずゆっくりしたペースで空気を入れていくが、春香は黙ってそれを待っていた。そうしてそのままそっと背中の傷跡に触れる。健司は一瞬そっちを見たが何も言わずに空気を入れ続ける。ざらっとした感覚に一旦指を引っ込めるが、またそっと触れてみた。
「指で刺すってさ、凄いよな。やられてみて言うのもなんだけど」
空気を入れ終えて栓をしながらそう言う健司にどういった顔をしていいか分からない春香。そんな春香にボードを差し出した健司は小さく微笑んだ。
「ま、いい経験したよ」
「・・・でも、痛かったでしょ?」
「まぁな。さあ、行こうぜ」
暗い顔を見せたくはない。健司はそう言うと強引に春香の手を引っ張った。触れ合った部分が熱く感じる。健司は膝まで足をつけるとそこにボードを置いた。そしてそれを指差した。
「乗れよ、引っ張ってやる」
そう言われ、春香は一瞬ためらいをみせたがゆっくりと倒れないようにボードの上に腰掛けた。ボードは沈むが足が着く為にバランスは保てる。それを見た健司はボード先に付いている白いひもを引っ張って歩き出す。肩の傷が見えるが、春香はそこから視線を外した。やがて足が着かなくなり、ボードを押さえていないと波で転覆しそうになってきた。すると健司は持っていた紐を離すと春香の方を向いてにんまりと笑った。嫌な予感が走った瞬間、健司はおもむろにボードをひっくり返し、悲鳴を上げた春香は横から海へとダイブしていた。水面から顔を出し、膝立ちで顔の水を払う。そんな春香を見てケラケラ笑う健司にムッとした顔をした後でボードを健司に差し出した。
「今度はあんたね」
「いやいや、されると分かっていて乗るバカはいないけどな」
「乗れって言ってんの!」
「無理矢理乗せてみろ~!」
そう言って膝上までの水に浸かった状態で逃げる健司、春香はボードを振り回しながらそれを追い、そのままボードを振って健司の頭を殴りつけた。健司は水面を蹴って水しぶきを春香に浴びせ、春香はボードを使って反撃した。自然と笑顔になる2人がそこにいた。はしゃぎあい、笑いあう。少し疲れた健司が動きを止めた矢先、春香がダイブして健司の背中にのしかかってきたために健司は水面に倒れこんだ。勢いに乗ったこともあって春香も同じように水面に浸かる。ほぼ同時に水面から出た2人は胸元まで水に浸かるようにしながら座り込み、笑いあった。
「ボード、忘れてますよ、お2人さん?」
その言葉にすみませんと言いながらそっちを見れば、ニヤニヤした顔の京也がボードを差し出している。その横ではにこやかな顔をした歩が立っていた。目が飛び出そうになる健司に言葉も出ない春香。京也は歩を見て微笑むと、ボードを肩に担ぐようにしてポンポンとしつつ驚きすぎている2人を見たのだった。
*
呆然とする健司と春香を残し、京也と歩は人が多い白い砂浜がある方へと歩き出した。受け取ったボードを手にそれを見送る健司は春香が立ち上がる気配を感じてそっちを見る。春香は少しもじもじしつつ困った顔をしていた。健司はあわてて京也を呼び止めると波を掻き分けてそっちへ向かった。
「お前らも来てたんだな」
「そう。まあ、偶然にしちゃ出来すぎだよねぇ」
「あのさ、俺たちは別に・・・」
「友達だろ?」
「あー、うん」
京也の言葉にどこか歯切れの悪い答えを返す。そんな健司の後ろにやってきた春香がいつもの顔をしながら横に並んだ。
「世間って狭いね」
「そうですね」
春香の言葉に微笑む歩。その言葉に春香も微笑んだ。ため息をついた健司はせっかくだから4人で遊ばないかと提案し、京也と歩もそれに賛同した。そうして4人で少し沖に行き、水を掛けあったりボードに乗ったりして遊ぶ。結構な時間、水に浸かっていたこともあって休憩を取ることになって浜へと上がった。健司は京也たちのパラソルの位置に自分たちの荷物を移動させてくっつける。健司が濡れた体を拭きつつ座れば、歩と春香が立ったまま会話をしつつバスタオルで顔を拭いていた。健康的に日焼けした春香は水泳をしていることもあってやや筋肉質な体形をしている。それに日焼けした競泳水着の跡の上からビキニを着ていることもあってアンバランスさが浮き彫りになっていた。それでもスタイルはいいと思えた。対してその横に立つ歩のスタイルは抜群で出るところは出て、腰はきゅっとくびれている。セミロングの髪を濡らしたその姿は妖艶ささえ漂わせていた。2人を見ていた健司の横に腰掛けた京也がかばんから保冷ケースにいれたペットボトルを歩に差し出す。前かがみになってそれを受け取る歩の胸に目が行く健司は鼻の下を伸ばしに伸ばしながら真横で何かが上がる気配を感じてそっちを見れば、大きく足を振り上げた春香の姿があった。それが意味するところが分かりつつも、股間へと目が行くのは男の性か。そして頭に炸裂するかかと落とし。後ろに倒れこむ健司を冷ややかな目で見る京也。思わず目を閉じて痛そうな顔をする歩。
「今井春香流、悶絶煩悩殺し!」
腕組みをしつつそう言う春香は腕組みをして健司を見下ろしていた。健司は頭を押さえつつ起き上がると春香を睨みつけた。
「お前は!暴力的すぎるんだよ!」
「前よりは手加減したあげたけど?だいたいね、やらしー目で歩ちゃんを見るからでしょ!私のここも見てたくせに!このエロバカ!」
そう言って自分の股間を指差す春香もどうかと思う。健司は頭を撫でつつあぐらを掻くと不満そうな目を海へと向けた。そんな健司に苦笑しつつ冷えたジュースを飲む京也は、この2人こそお似合いだと思っていた。
「ジュース買ってくるね」
春香はそう言うとバッグから財布を取り出す。どうやらこちらのカップルは飲み物は現地調達のようで、小銭を取り出した春香は同じようにしている健司を見た。
「買ってきて欲しい?」
さっきのことがあるだけに目を細めてそう言うが、健司は小銭を持ったまま立ち上がると春香の手から強引に小銭を奪い、さっさと行ってしまった。それを見た京也も立ち上がってその後を追う。残された春香が不満そうな顔をして座ると、歩もその横に座りこんだ。
「ゴメンね?あいつ、ホントにデリカシーなくてさ」
「いいです、今井先輩の必殺技が出たし」
その言葉に春香も笑い、歩も笑った。
「あのさ、前から気になってたんだけどさ、私らのこと、そんなにかしこまって呼ぶことないよ?」
「え?あ、はい・・・」
「名前でいいって。もう友達でしょ?」
その言葉に困惑した顔をしつつも頷く。年下の自分を友達だと言ってくれたことは嬉しいが、だからといってそう馴れ馴れしくしていいのかとも思う。
「木戸の彼女なんだしさ、それが普通」
歩の心情を察した春香の言葉に微笑む。
「でも、あんたみたいな子がなんでまた木戸をって思ってたけど、まぁ、あの話を聞いたら納得だわね」
あの話というのが坑道でのことだと分かり、歩は微笑を強くした。春香は明人や健司、苺からもその話を聞いている。実際に見ていないだけに想像しかできないが、苺はともかくあの明人でさえも怖いと思ったという京也を前にお礼を言える歩を凄いと思える。
「でもさ、最初に会った時から木戸一筋だったよね?」
「そうですね・・・なんか、京也さんだけは他の人と違ってて、でも出会った時から好きになってました」
「ボサボサにめがねのあいつをねぇ・・・」
「今まで何度もいろんな子に好きだと告白されたけど、みんな可愛いからとかいう理由だったんですよね」
春香にしてみれば羨ましい限りだと思うが、歩は本当にそれが嫌だった。外見が可愛いから好きだと言われ、内面や長所は見ていない。何かにつけてアピールしてくる男子は気安く体に触れてくる。いろいろ用事を手伝ってくれるのはいいが、やたらと見返りを要求してくる。だから漫画やアニメのキャラクターにのめり込んでいった。彼らは外見だけでなく内面で女性を選んでいる。フィクションなので当然なのだが、それこそが歩の理想の姿だった。
「事故とかで外見が壊れたら好きにはなってくれないのかなって思うと、どうにも男子を信用できなかったんですよね」
「で、木戸は違った?」
春香の言葉に頷いた歩は水平線を見た。
「自転車のチェーンを直してくれて、アドバイスをくれた。手を真っ黒にして、それでいて何も言わずに笑って去っていったんです。私の名前も聞かず、自分の名前も言わず。だからかな、凄く気になって気になって、多分、もう好きになってた」
微笑む歩の笑顔がまぶしい。入院中の明人が言っていた言葉を思い出す。歩は真っ白でまっすぐだと。だからこそ京也の全てを受け入れて、どんな京也でもあっても愛情を持って接している。たとえ血に染まった手をしようとも、それは自分を守ってくれたという証であるという風に。
「友達には変わってるって言われましたけどね。私は男の汚さも知らない真っ白でまっすぐなだけの女だって・・・でも、それが私だから」
「木戸を好きな気持ちは、まっすぐか・・・・凄いね」
「普通です」
「そうじゃないと思うけど?」
「好きな人にはみんなまっすぐだと思いますよ?ただ、それを素直に表現できるかできないか。私はお子様だからそれが出来たんだってその友達に言われましたけど」
その言葉に春香は沈黙し、海を見つめた。確かにそうだと思う。自分も健司への想いはまっすぐだと思う。好きになった原因はわからない。ただバイクで毎日送ってくれた健司を好きになった。明人の気持ちが見えずにいた時に健司の優しさに触れたからかもしれない。それでも健司の優しさは受け取っている。水泳の予選大会でも、それを感じていた。ただ、自分は素直にそれを表現できていないのだ。いや、自分だけではない。告白して振られた健司も、明人を好きでいながら身動きが取れない苺も、そして何を考えているのかわからない明人も、みんな同じだ。だからこそ、ちゃんと自分の気持ちに素直だった歩の凄さが浮き彫りになった。
「お子様かもしれないけど、尊敬に値するよ」
その言葉に歩は微笑み、春香もまたその顔を見て微笑み返すのだった。
「それにしてもまぁ、よく何も言わずに待ったね、返事」
そう聞かれた歩は膝を抱えるようにして海を見つめる。乾いた肌が焼けてじんじんとしているのが分かった。
「だってさ、もしかしたらずーっと保留にされてたかもしれないでしょ?デートはしつつ、そういう関係に近い感じでずっとさ?」
「ずっと待つ気でいましたよ?でも、直感的にそんなに待たされないって気はしてたけど」
「勘?」
「勘っていうか、もう確信。しかも絶対にOKされるって気がしてたので、楽観的ですね」
そう言って笑う歩にポカーンとした顔をすることしか出来ない。根拠もない自信に満ちて返事を待った。督促もせず、ただ京也に全てをゆだねて。自分を信じて。
「待ってる間の期間は貯金かなって。愛情の、想いの、幸せの時間を貯金してるんだって思ってました。もちろん、今も貯金してます」
屈託なく笑う歩のまっすぐさを理解し、だからこそこうまで強い心を持っていられるのだと理解した。自分もそうありたいと思う。春香は今の歩の言葉を噛み締めつつ、自分の中の健司への気持ちを大切にしようと思うのだった。




