理想の行先 2
春香からのメールを受けた京也はバイト先に休みが欲しいと連絡を入れ、すぐに学校へ向けてUターンをしたのだった。そしてすぐに数学準備室に戻れば、床の収納が動いているではないか。どうやらさっきまで開いていたようで、今はそれが閉じようとしているところだった。ギリギリでそこに飛び込めば、下からは話し声と泣き声が聞こえている。そして慎重に階段を下りてみれば、そこに広がっている悪夢のような光景が目に飛び込んできたのだ。血を流して倒れているのは富沢で、うつぶせになって血を流す健司。台の上には春香、奥には紀子が気を失っている。どす黒い気を放つ千石がいて、その後ろに歩、さらに奥には血まみれの明人を抱きしめた苺がいた。阿鼻叫喚の地獄絵図に身震いしつつ、千石を睨みつけた。
「ヒーローは最後に登場か?木戸」
「お前・・・」
「俺がやったよ、全部な」
「暗術使いは、やっぱり先生だったんですね?」
この状態でも先生と呼び、敬語を使う京也にさすがの千石も苦笑した。
「そうだ」
そう言うと千石は京也を正面に捉えた。
「戸口の強さは知っていた・・・襲撃させて実際の動きも見たしな」
その言葉に苺に抱かれている明人がピクリと反応した。あの時自分を襲撃させたのは苺をさらうためではなかった。自分の力量を測るために差し向けたただの捨て駒だったのだ。
「だが、問題はお前だった・・・木戸京也、木戸無双流の繋ぎの継承者」
そう言われても何の反応も見せない京也と違い、明人は少し身を起こして京也を見た。聞き慣れない流派、その名前に反応したのだ。
「お前が『ゼロ』と同じ実力を持っていないかヒヤヒヤしたが、調べれば、ただのカスだ。安心したよ」
明人はその『ゼロ』という言葉に、いつぞやインターネットで調べた『ゼロ』と『魔獣』の話を思い出していた。まさかここでその名を聞くとは思っていなかっただけに動揺が走る。それは京也も同じだった。
「俺は無双流とは関係ない」
「だが血は受け継いでいる、俺と同じ人殺しの血がな」
「黙れ」
いつもの京也にはない鋭い声が飛んだ。歩の前でそれだけは言われたくなかった。たとえ自分はそうでなくても、自分の中に流れる血は代々人を殺して糧を得てきた血だ。忌まわしい血筋、それだけは歩に知られたくなかった。
「さぁ、どうする木戸?戦うか?」
その言葉に歩を見た。怯えた目を千石に向けている。あの明人が敗れる様をその目で見たのだろう。明人が勝てない相手に、自分が勝てるはずもない。だが、今、歩やみんなを救えるのは自分しかいないのだ。京也は震える足を一歩踏み出した。たとえ勝っても、千石を殺す結果が待っているかもしれない。歩にその姿を見られることだけが心苦しかった。だが、勝つか負けるかで言えば自分が負ける確率の方が遥かに高い。
「俺はその昔、『魔獣』の戦いを見て、あまりの実力の違いに戦わずして逃げた。それからさらに数年修行を重ね、今度は『ゼロ』に挑んだが、豪天龍昇によって二の腕の骨を折られて敗北し、命からがら逃げ延びた」
過去の屈辱を吐き捨てるようにそう言い、千石はゆっくりと構えを取った。
「あいつとは実力に天と地ほどの差があるが・・・あの時のリベンジはさせてもらう。勝つのがわかっているのがつまらんがな」
もう逃げ道は塞がれている。床の収納は閉じ、奥の鉄扉も千石を倒して鍵を奪わない限り開かないだろう。京也には戦う以外に選択肢はない。実戦経験が全くない以上、負けることも決まっているようなものだ。それでも、京也は一歩前に出た。そうしてめがねを外す。その行為を見た歩の脳裏にあのゲームセンターでのやり取りが頭をよぎった。
「2つ訂正させてもらいます」
そう言う京也にさすがの千石も怪訝な顔をしてみせた。明人は苺に抱かえられるようにされながらその様子を見る。歩はぎゅっと胸を前で手を組みつつ、ただ京也だけを見つめていた。
「1つは、俺は繋ぎの継承者なんかじゃない・・・ただの木戸京也」
それを聞いた千石の表情がバカにしたようなものに変化した。
「そしてもう1つは、確かに俺は弱い、先生や明人よりも・・・それでも、負けません」
その言葉に千石の眉がピクリと動いた。根拠もないその自信がどこから来るのかわからないが、不愉快なことこの上ない。京也はそのまま春香が寝ている台に近づくとそこにめがねを置いた。
「それに、守ると約束したし」
その言葉に歩の表情が変わった。何かを思い出すようにした目をしながら組んだ両手を口に当てた。小さな小さな約束。それを守るために、京也は今、命を賭けた戦いに身を投じようとしているのだ。
「約束なぁ・・・できもしない約束など、するなぁ!」
苛立ちが最高潮に達した千石が一気に間合いを詰めた。電光の動きで突き出す右の人差し指。だが、到達点に京也はいなかった。すでに横に飛びのいている。しかもそれは明人のような優雅さはない。必死で逃げたような感じのものだった。
「必死だな」
よけられたことなど気にせず、千石が構える。そんな千石に対し、立ち上がった京也が駆けた。大きく飛び上がり、右の回し蹴りを千石の頭をめがけて放つ。明人のそれに比べればキレも速度も鈍い。軽々避けた千石が反撃に出ようとした瞬間、振り切った右足の反動を利用して半回転した左の踵が迫ってくる。しゃがんでよけながら舌打ちをした千石が今度こそと反撃に出ようとすれば、さらに半回転した右のつま先が飛び込んできた。空中での3連続の回し蹴り。大きくそれをよけた千石が京也を見れば、着地と同時に離れた位置に逃げている。
「『螺旋』を使えるとは・・・な」
忌々しいように吐き捨ててそう言う千石が今使った技の名前を知っていたことに驚く京也。
「『ゼロ』のそれに比べたら、キレもスピードも全然だが、驚いたよ」
その言葉に百零もまた『螺旋』を千石に使ったのだと悟る。
「だろうね。どうも足技は苦手で」
随分離れた場所に立つ京也の言葉に、千石は噴出すように大笑いをしていた。空間を揺さぶるような大笑いに苺は両手で耳を塞ぐ。歩は震える体を我慢してただ京也だけを見つめていた。
「打撃、投げ、関節技全てを使える木戸の血を持つ男が蹴りが苦手?これは笑える!」
明人は京也の動きに驚かされつつ、今の蹴りのキレとスピードの鈍さには気づいていた。それでも、苦手という言葉を口にすることで相手の意識の中から蹴りを除外する心理的な作戦かと考えていた。
「さすが繋ぎの継承者だよ」
「そうじゃないって言ったでしょ?」
「だったな」
そう言うと千石は間合いを詰めて蹴りを出す。これこそが蹴り技だといわんばかりの早さだ。だが京也はそれを大きな動きでかわしていく。何度も何度も繰り出す蹴りを全てかわしているのだ。その大げさな動きに千石もリズミカルになる。
「そらそらそら!」
回し蹴り、突き出す蹴り、下段、中段、上段。繰り出す蹴りはキレもスピードも十分だった。だが京也はギリギリながらもそれをかわす。見る限り必死な様子で華麗さの微塵もない。
「どうした?当たるぞぉ!」
鼻先をかすめる右足が通り過ぎたとき、京也はパンチを繰り出す。どう見ても素人のパンチに千石もそれを難なくかわした。
「ほれ、攻撃してみろ」
千石は攻撃をやめ、かかってこいと指を動かす。最早遊んでいるようだ。京也は蹴りに拳にと繰り出すが、どう見ても素人に毛が生えた程度のものだ。それがわかっている千石は必要最低限の動きで軽々とそれをかわしていった。京也は横からの右拳を繰り出す。これまででは一番のスピードとキレにさすがの千石も回避が間に合わず左の二の腕でそれを受け止めた。その瞬間、京也は肘を折りたたみ、凄まじい速度の肘うちを鎖骨目掛けて繰り出した。あわてて後ろに飛んでかわした千石の背中に嫌な汗が流れる。さっきまでの蹴りやパンチにはない技のキレ。一体何なんだと思う。一方で自分が使える数少ない技である『陽炎』をかわされた京也は心の中で舌打ちをしていた。
「自分の使える技だけ、キレがいいのか?」
「そういうことです」
「なるほど」
そう言う千石の顔から笑みが消えた。
「腐っても無双流、か」
そう呟く千石は気を引き締めた。確かに京也は素人に近い。だが、マスターしている技に関しては『ゼロ』に匹敵するのだ。こういう相手はやっかいだ。早めに勝負を仕掛ける必要がある。そう判断して明人に見せたあの前傾の構えを見せた。京也もまた構えを取る。
「千年の技、見切れるかな?」
「どうだろう?」
「4百年の血じゃ、年数が足らんなぁ!」
言いながら突進する。突き出す指をかわす京也。何度も何度も突き出される指をかわす。そんな中、大きく一歩を踏み出した千石がさっきに比べればややゆっくりした動作で京也の額の手前数センチのところに拳を置いた。いや、一瞬そこで動きを止めたのだ。
「ダメェ!」
ハッとして絶叫する歩の声と同時に数センチだけ拳が進む。そうしてピタリと京也の額に拳が当てられた。目を閉じる歩に顔を伏せる苺。目を見開く明人に、何故か焦る千石。京也は後ろへ吹き飛ばず、逆に千石が後ろへ大きく飛びのいた。京也はやや俯いたまま小さく微笑んでいる。
「え?なんで?」
顔を上げた苺が呟き、明人は息を呑んだ。歩はそっと目を開くが、京也は立ったままで千石が離れていたことに安堵する。
「貴様・・・」
「七暗道の1つ、『朧』、でしょ?」
その言葉を聞いた千石の顔色が明らかに変わった。京也を睨む目に殺意が浮かぶ。
「先生が木戸の技を知っているように、俺も七暗道の技を知っています」
舌打ちし、再度前傾の構えを取った千石はさっきとはまるで違う狂気に似た気をまとっていた。
「拳を添えた状態でありながら、最大の力で殴りかかった時と同じ力が出せる技、それが朧。体の芯を通し、数センチ動かすだけでその芯で捉えた獲物を粉砕する、違いますか?」
そう、その通りだ。踏ん張った足を軸に、目には見えないほどの微妙な動きでありながら体中の筋肉や筋を動かし、絞り、縮ませ、それを拳の先に集中させて放出する。振りかぶる余計な動作がない分、その威力は100%相手に伝わるのだ。内心で舌打ちをしたまま、京也のその言葉が終わる前に千石が前に出た。突き出される指。だが京也はそれが来るのが分かっていたのか、その右手を掴むとグイっとその突進力を利用して自分の方に相手の体を引き寄せた。千石がそのまま左手の指を京也の腹部目掛けて突き出そうとするが、鋭い肘が顔に迫るのを見たためにあわててそれを引いて掴まれている腕の方へと身をよじった。右肩をひねる痛みに耐えつつ、そのまま京也の後頭部めがけて蹴りを放つが、京也はすでに千石の腕を放して地面を転がりながら間合いを取っていた。千石はそれを追い、立ち上がる京也めがけて手刀を振るう。裏山で木の棒を斬ってみせたあの技、そう、たしか『刃風』という技だ。京也は頭をのけざらせてそれをかわしつつ、右足を振り上げた。『刃風』を使った動きのせいで仕方なくそれを腕でブロックした刹那、京也の左足も舞い上がる。千石の腕と京也の右足が繋がった瞬間にそこを軸として左足を上げたのだ。その動きに明人は目を見開いた。今自分が練習している技を目の前の京也がやってみせているのだ。舌打ちした千石が後ろへ飛び、京也の左足は空を切った。そのまま体を伏せがちにしつつ千石の様子を伺った。だが、迫り来る様子がないためにゆっくりした動きで立ち上がる。
「今のが『魔獣』が最も得意とした技、『亀岩砕』か?」
「いや、そうじゃない・・・今のは『幻龍脚』、『亀岩砕』を習得する前段階の技だよ。それに左右同時のその技は奥義・・・俺に『亀岩砕』は使えない」
「足技は苦手、だったな?」
その言葉に京也は苦笑した。そんな京也を見る明人は呆然としていた。自分が目指す左右同時の技を京也が知っていたのだ。悔しさと、言い知れない嫉妬が全身を駆け巡る。ならば、自分を助けてくれたあの人は木戸の技の継承者だったのだと理解した。
「それに、今のが『亀岩砕』だったなら、もう勝負はついてますしね」
「ハッ!言うことだけは一人前だなぁ!」
殺気を含んだ目で睨む千石に対し、京也のそれは緊張だった。疲労感も増すばかりだ。
「明人君・・・木戸君、強いよ!」
明人を支えながら驚きつつも少し笑顔になる苺だが、明人は険しい顔をしたままだった。
「いや、強くはない・・・が、弱くもない。ある種の技のキレは達人レベルだが、それ以外はまるで素人だ」
「でも、あの技、よくわかんないけど、手を添えてくるあの技は木戸君にはきかなかったよ?」
「知っていたからな、からくりを」
知っていれば自分もそれを喰らうことはなかった。いや、知っていたからといってあんな受け方が出来るかは疑問だ。数センチだけ拳を動かし、体の芯を通した破壊力を放つあの技。京也は突き出されるタイミングと同じ動き、同じ速度で顔だけを同じ距離だけ後ろに下げたのだ。さらに伸びきった、力の抜けた拳を額に当てる芸当までして。一つ間違えれば頭蓋骨が割れるリスクを背負っていた。いや、京也は全部わかっていたのだろう。あの拳がどれだけ動くのかを。それに、今さら気づいたこともある。
「千石の攻撃、ここまで何一つ木戸には当たっていない」
明人の言葉にハッとなる苺。そしてそれは千石も同じだった。全てが事前に察知されているかのようによけられている。かすりもしなければ受け止めることもされていない。しかも相手の避け方はめちゃくちゃだ。それなのに当たらない。
「お前、ありえないほどの空間認識能力を持っているのか・・・それがお前の能力か?」
『変異種』という言葉が千石の頭に浮かんだ。遺伝子的に変異を起こした超能力者。過去様々な能力者がいたことは知っている。現在は政府がそういう人間を保護するという名目で狩りを行い、目立った能力者はいない。いわば京也の能力もそれに近いか、あるいはそのものか。
「そこにある配置を見ただけで距離感を瞬時に掴む絶対的な認識能力・・・俺の腕の長さ、拳の配置で瞬時にそれを判断し、安全圏に逃げることができる、のか?」
その言葉に京也はいつものにへらとした笑みを浮かべた。そんな京也を見て、歩は思い当たることに気づいた。UFOキャッチャーの腕前、あれこそが今千石が言った言葉の証明になる。見ただけでどこをどうすれば景品が取れるのかが分かると言った京也の言葉。何より、今はめがねを外している。あの青いフィギュアを取るのは難しいと言いながらも、めがねを外して見事に一発でゲットしたあの神技。それは近視でありながらも千石の動きを見切るために外したのだと理解できた。
「やっかいな・・・」
動きはまるで素人で、実戦経験がないのは見ればわかる。だからといって攻撃しても全てが見切られた上に突然身に染み込んだキレのある技が飛んでくる。どこまでの技を習得しているのかは分からないが、木戸の技の威力は百零と戦った際に身を持って知っている。足技が苦手と言った事が真実だろうが、打撃技の最高峰である奥義『天龍昇』を使えるとすれば油断は出来ない。千石は一気に勝負を決める覚悟をした。幸いにも京也のスタミナはそうあるわけでもなさそうだ。今見ただけでも少し息も上がってきている。所詮は繋ぎの継承者なのだ、そのため今はもう修練は積んでいない。そんな千石をじっと見据えつつ、少し足がガタついてきていることを自覚している京也もまた自分が持つ最大の技を出すタイミングを狙っていた。だが、歩の前でこの技は使いたくない。人を殺す技、それを使う自分を見て嫌われることが怖い。だが、彼女を守れないことはもっと怖い。歩を守ると約束した。小さな、ただの会話の流れからの約束にすぎない。それでも守りたい。歩と、歩と交わした約束を。
『お前の最大の武器は、その目だ』
『目?』
『技は継がなくていい、俺が継いだからな・・・でも、もし戦うときが来たら、まず相手を、全てを見ろ』
『全て?』
『相手の身体、周囲にあるもの、全てだ。お前の目は奇跡の目・・・その目があれば、お前は強くなる』
『分かった、見る!』
『ああ。京也、お前は、真っ白でいろよ?』
幼稚園の時に交わした、百零との最後の会話。親すら自分のその能力には気づかなかったのに、滅多に会うことのない百零がそれに気づいていたことに今更ながらに驚かされる。それに気づくほど百零は天才だったのだ。しかし、次に会った時の百零の目はもう以前の百零のものではなかった。木戸の名を継ぎ、人を殺すことに慣れた狂気の目をしていた。自分が好きだった、優しかった百零はもういないと悟ったときがそれだった。だが、百零の残したその言葉は今でも鮮明に覚えている。だから、京也は千石を見た。そしてこの空間全てを、明人と苺のいる位置、歩との距離、全部を見た。
「百零さん・・・ゴメン、俺、白くなくなるよ」
そう呟く。だが、それでもいい。歩を守れるのなら喜んでこの手を汚そう。自分は死んでもいい、歩が無事ならば。リスクなど度外視で技を出す。そう決意した京也の目つきが変わる。鋭さの中に宿る光。さっきまでなかった気が全身から立ち上る。それを見て汗を流すのは明人も千石も同じだった。千石は前傾の構えを取り、京也は拳を上げる。睨み合った2人は動かない。苺は2人の気に押されて恐怖の表情を浮かべ、明人はさらに険しさを増した表情を浮かべる。歩は祈るように胸の前で両手を組み、不安そうな顔を京也に向けていた。一瞬の静寂、その後、千石が駆けた。上から頭を目掛けて振り下ろす右手の位置が一瞬で変化し、そのまま下に移動して京也の心臓を狙って突き出された。その変化は見えていたが、瞬時に対応するにはタイミングが合わない。咄嗟に2本の指を立てて千石の突き出した指を受け止めた。あの日、裏山で見せた攻防の光景が再現された形となる。だが、全く同じというわけにはいかない。『挟刃』で千石の指を自分の指で挟みこんで受け止めるが、千石の突進は止まらない。そのまま京也を押しながら左の指を突き出す千石の胸を押さえるようにしてふんばる京也。お構いなしに後ろに押しつつその指が京也の額に突き刺さる、はずだった。何故か動きが鈍くなった千石のおかげで大きく顔を逸らし、頬を掠める指が通過する。そのまま地面を後ろに転がって壁にもたれた京也に対し、千石は大きく後ろに飛びのいた上にさらに2、3歩後ろに下がった。いや、よろめいたというべきか。その証拠に千石は片足を地面に着け、少々荒い息をしながらYシャツを破るようにして自分の左胸を見た。
「な!」
「ヒィ!」
明人と苺の声に驚きが表現されていた。歩は両手を口に当てたまま信じられないといった目をしている。千石は震える手でそこに触れ、流れ出る血を指ですくうようにしてみせた。胸から流れる5つの血。明らかに指の先がそこにあったと思われる赤い穴。そこから流れる血。
「貴様・・・指で、俺の胸に・・・穴を?」
「肉体を極限まで鍛えているのは先生だけじゃないよ。木戸無双流も、七暗道も人を殺す技を使うのなら、発想は同じ。そっちは指を鍛えて芯を通して人を刺す。確か『錐』って技だよね?」
言いながら立ち上がる京也はしゃべりながら息を整えていた。
「こっちは握力を徹底的に鍛えて相手の喉を握りつぶすんだ・・・効率がいい人の殺し方。リスクを最小限にして最大の成果を得る・・・その発想は同じ」
恐ろしいことを平然と言う京也に恐怖を覚える苺。そして京也の使う技の恐ろしさを改めて認識する明人。歩は何も言わず、ただ不安そうな顔をしていた。千石はよろめきながらもまた前傾の姿勢を取った。
「宗家にはない木戸無双流オリジナルの技、『穿』。接近戦で有効な技です」
その言葉に密着しての攻防は不利だと悟る。相手のダメージはなく、スタミナが減っているぐらいだ。逆にこっちはスタミナはあれどダメージを受けた。だが、勝利は揺るがない。相手はほとんど素人。次で決着をつける。密着せずに殺す技はまだ残っている。
「き、木戸君・・・勝てる、よね?」
「わからん」
怯えつつも京也の勝利を願う苺だが、明人はまだ予断を許さない状況だと睨んでいた。あまりに手の内を見せすぎだと思うからだ。足技が苦手だと言ったことに加え、さっきの技の解説。暗殺術を駆使して犯罪を犯してきた千石に対してそれは与えてはならない情報だ。ためらいなく悠を殺した非情さ。おそらく、今までの京也の動きや言葉から最良の殺し方を模索しているはずだ。そう考える明人の顔が曇った瞬間だった。千石が前に出た。京也は下がろうにもすぐ後ろは壁だ。千石はそれを計算に入れて左拳を突き出すようにしつつ、右手の人差し指を同時に出す。一瞬どちらに動くか迷った京也が取った動き、それは大きく右足を踏み出すものだった。そのまま踏み出した右足を曲げて片膝立ちになった状態で両手を前に出す。両肩を舐めて通り過ぎる千石の両腕。その千石が左腕をそのまま振り上げて肘を曲げ、それを京也の背中にめがけて振り下ろす。だが、京也の伸ばした両手は千石のわき腹付近に当てられ、そのまま指先に力を込めた。瞬時にめり込む京也の10本の指が千石の肋骨を砕き折る。それと同時に背中に凄まじい衝撃を受けて前に倒れこみそうになるが、片膝立ちの足に最大の力を込めて踏ん張ると、そのまま突き刺した指を腕ごと内側に回転させた。まだ致命傷には指の入りが浅いと分かっていても、それでもこのチャンスは逃せない。皮膚を裂き、骨を砕き、筋肉を引きちぎる。その衝撃に千石は口から血を吐くとぶるぶると体を震えさせた。
「木戸無双流、裏の奥義、『裏雷閃光、紅月』」
口から、両方のわき腹から血を流しつつ、千石はよろよろと足を後ろに下げる。京也はその反動に任せて指を引き抜き、その反動で千石はフラフラしながら仰向けに倒れこんだ。腹部からは大量の血が流れている。
「・・・・裏の・・・・雷、閃光?・・・・・裏の・・・・お、う・・・ぎ?」
「宗家を倒すための、裏の奥義・・・俺が使えるただ1つの奥義です」
「・・・また、負ける・・・・のか・・・・俺は・・・き・・・ど・・・に・・・」
そううめき、千石は白目をむいたまま動かなくなった。大きく肩で息をしたまま、京也は自分の両手を見た。相手の血に汚れた手。紅く染まった、汚れた手を。京也は苦しげな表情を見せた後、斜め前に座っている苺と、苺に抱かれるようにして寝そべっている明人を見た。苺は怯えた目で自分を見つつ、目が合った瞬間にはヒッと小さく悲鳴を上げたほどだ。明人もまた口を半開きにしたまま異形の者を見るような目を向けている。無理もないかと思う京也は、もう一度血に濡れた両手を見る。これが自分の中に流れる血の宿縁なのだ。忌むべき技、忌むべき血。いらないと思っていたその技が皮肉にも仲間を救った。だが、感謝もされず、逆に怯えた目をされている。けれど、そんなことは戦うことを決意したときから分かりきっていた。それを分かっていた上であえて戦い、その技を使ったのだ。だからこそ、京也は右の奥に立っている歩を見れずにいた。自分を見る目を確認するのが怖かった。好きだと言ってくれた人が豹変する様を見たくなかった。だから、そのまま千石に近づいて鍵を探そうと足を動かしかけた時だった。
「先輩?」
愛らしい声は少し震えているように感じる。自分を呼ぶ歩の声に、京也はどうしていいか分からずにそのままでいた。だが、無視はできない。現実を受け止める覚悟をしてゆっくりとそちらへと顔を向けた。歩は胸の前に両手を組んだまま、少し口元を緩めていた。怯えも恐怖もない、ただ安堵した表情だけがそこにあった。京也はその顔を見てポカーンとし、明人は驚きの表情を浮かべている。苺に至っては呆然としていた。
「ありがとう」
「え?」
思いも寄らない言葉に、京也は困った顔をしつつどう返していいかわからない。そんな京也を見る歩の顔に笑顔が浮かんだ。
「助けてくれて、約束を守ってくれて、ありがとう」
たったそれだけのことが、ただただ嬉しかった。生きてはいるが、千石を瀕死の目にあわせた自分を見てお礼が言えるのかと驚くしかない。血に染まった手を見ても、恐怖も浮かべず礼を言える、そんな歩をすごいと思う。思わず目に涙が浮かんだ。自分を好きだと言ってくれたときと同じ、変わらない笑顔がそこにあった。救われたような気持ちの京也は困った表情のままで黙って頷いた。そんな京也を見た歩はにっこりと微笑む。その2人を見た明人は自分の目指していたものが間違いだったと気づかされた気分だった。京也がしたことは相手を守りたい、守ろうとした行動、ただそれだけのことだった。自分は歪んでいたのだ。左右同時の蹴り技で苺を守る。いつしか自分の理想はそう歪められてしまっていたのだ。だから自分は千石に敗れ、京也は勝った。実に単純な話だ。明人は全身を襲うこの痛みは罰だと思い、目を閉じるのだった。




