少年との出会い
九月に入り二学期が始まった。バイトを始めてからも何度となく有紀美とデートを繰り返した。
何度も手をつないだ。何度も有紀美の唇に触れた。何度も何度も彼女を抱きしめた。でもその先に進めないぼくがいた。
有紀美のことが嫌いになった訳ではない。好きだ。大好きだ。できることなら今すにでも一線を超え、彼女を抱きしめたい。
でもこんな気持ちのまま彼女とそういう関係になるわけにはいかない。男としても最低である。
九月半ば、誠がぼくの家にお泊りに来たのだ。誠の中学時代の野球部はヤンキーだらけで、仲間は真面目に練習してくれなかったらしい。木更津で生まれた誠はイケメンではないが、とにかくもてる。なんでこいつの女性歴が五人でぼくの女性歴が一人なんだ。
女性歴という定義が良く分からないが、キスまでしかしていない有紀美をその歴に数えても良いのだろうか? それでも、どうでもいい十人の女の子と付き合うより、たった一人の有紀美と付き合うぼくのほうが上だ。そんな風に自分に言い聞かせながらぼくは納得していた。
誠がお泊りに来たのは野郎二人でディズニーに行くからではない。ぼくの相談に乗って貰う為にお願いして呼んだのだ。
「で? どこまで進んだの? お前達」
誠はストレートに聞いてきた。
ぼくも誠の直球に対し直球で答えた。
「キスは何度もした。何度も抱きしめた。でもエッチはしてない」
「馬鹿かお前は。その葉月さんとやらは年上なんだろ? お前なんか相手にしてくれる訳ねえだろうが。あんなに可愛い女の子、二度とお前となんか付き合ってくれないぞ。悪いことは言わないから有紀美ちゃんを大事にしろ。いいな」
「だよな」
ぼくはうつむきながらそう答えた。
「まあ難しく考えるな。お前は有紀美ちゃんのことが好きだ。よな?」
「うん」
「だったら有紀美ちゃんのことだけ考えろ」
「お、おう」
誠の話にたいした説得力はなかったけれど、ぼくはなぜか納得していた。有紀美が好きだ。他にどんな綺麗な女の子が現れようが、有紀美を愛する気持ちは変わらない。
「ちょっと走りに行こうぜ」
夜九時頃、誠が唐突にそんなことを言ってきた。
「走るって、どこを?」
「ディズニー周辺のホテル街とかどう?」
「野郎二人でホテル街かよ」
「ホテルに連れ込んで襲ったりしねえから」
「ならいいけど……」
「ならいいけどって、お前なあ」
ぼく達は笑いながら走りに行った。身長百七十五センチの誠はぼくの中学時代のジャージがぴったりだった。小学生のころチビ助だったぼくの身長は、中学三年のころからみるみる伸びた。夏の甲子園予選直前に計った時は百八十四センチだった。
有紀美とディズニーシーに行った後、夏風邪を引いて近くの個人医院に行った。その時身長を計ると百八十四センチ三ミリだった。まだ伸びるんだろうか? そんなあり得ないことを考えながらぼくは誠の背中を追いかけた。
ぼく達は江戸川沿いを走っていた。浦安市の富士見と舞浜の境目に少し盛り上がった場所がある。ぼくは前を走る誠を追いかけるのを辞め、川の向こうを眺めた。
川の向こうは大都市、東京である。右手に東京スカイツリーがドヤ顔をしてそびえ立っている。首を左に向けると葛西臨海公園の観覧車が色とりどりな衣装を身に付けゆっくりと回っていた。
眠らない街を右手に見ながら、再びぼくは走りだす。しばらくすると左にディズニーランドの入口が見える。更に進むとサンルートホテルのネオンが見えた。
誠は豆粒のようなサイスで悠々と足を進めている。ぼくは加速した。そしてヒルトンホテルの手前で誠に追い付いた。
そのまま真っ直ぐ進むとディズニーシーの入口が見えてくるが、ぼく達はヒルトンホテルの手前の信号を左に折れた。ベイNKホール、第一ホテルを横目に走る。そしてシェラトンホテルの手前でUターンし、ぼくの家に向かった。
久しぶりにかいた汗はとてもは心地良く、誠も満足そうな顔をしていた。
翌日、ぼくは誠と一緒に市のコミュニティバス――通称百円バス――に乗り、新浦安駅に向かう。堀江中学校のグランドが見える場所にバス停がある。野球少年達の大きな声を聞きながらバスに乗り込んだ。二十人も乗ると満席になってしまう小さなバスである。比較的空いていたのでぼく達は隣合わせで腰を下ろした。ぼくは誠の左に座った。でも、なんだか違和感があった。違和感の理由はすぐに気付いた。
「誠、場所交代してくれ」
ぼくは誠を引っ張り、無理やり誠の右側に腰を下ろしたのだ。しっくりきた。誠もなんだかしっくりきたような表情に変わっていた。
ぼくは三塁手で誠は遊撃手。いつも誠はぼくの左にいたのだ。やはりこの並び順がしっくりくる。
しばらくすると席が全て埋まっていることに気付いた。病院近くのバス停で五人ほど降りたが、その倍ほどの人達が乗ってきた。おそらく病院帰りの人達だろう。杖をつきながら乗ってきたおばあちゃんもいた。打ち合わせでもしていたかのように、ぼくと誠は同時にすっと立ちあがった。ぼくが座っていた席にそのおばあちゃんが座り、ぼく達に向かって話しかけてきた。
「ありがとうね」
顔いっぱいに皺を寄せ、人懐っこそうな笑顔だった。
「いえ、もうすぐ降りますから」
誠がそう言うと、おばあちゃんが何かに気付いたように少し驚いた顔をした。
「あなたたち、この前甲子園に出てた子たちでしょ?」
「はい。千葉英和野球部主将の……あ、いや、主将だった片桐誠です。こっちは四番だった成願達志です」
「わあ、やっぱり。私、昔から高校野球が好きでね。毎年楽しみにしているのよ。いい成績で良かったわね。握手してもらえるかしら」
おばあちゃんはジャニーズのアイドルにでも会ったかのように目を細めていた。
「はい」
誠はそう言っておばあちゃんと握手した。
誠に続いてぼくも握手した。小さいけれど、暖かい手だった。
すると周りにいた乗客もぼく達に気付き、握手を求めてきたのだ。バスの中は混んでいたので、すぐ近くにいた五人ほどの人たちと握手を交わした。
すると奥の方から見慣れた野球帽をかぶった小学生が人をかき分けぼく達の方へ近寄ってきた。ぼくが小学生の時に入っていた野球チームの帽子だったのだ。佐々木監督元気かな。恩師の顔がよぎる。バスが揺れ、少年は少しよろけそうになったが近くのポールを掴んで体勢を整えた。
「あの、サイン貰えませんか? 甲子園でホームラン打ったお兄ちゃんですよね?」
「うん。観ててくれたんだね。ありがとう。あ、でもお兄ちゃんプロ野球選手みたいなかっこいサインなんてないよ」
「それでもいいです。お願いします」
そう言って黒いマジックをリュックから取り出した。
「よくマジックなんて持ってたね」
「今から友達のお家で運動会のポスターを書くんです」
「なるほどね。高校名と名前だけでいいのかな?」
「お兄ちゃんの背番号もお願いします」
「分かった。で? どこに書けばいい?」
少年はくるっと後ろを向き、ぼくに背中を見せた。
「このTシャツの背中にお願いします」
「えー? お母さんに怒られない? まだ新しそうなTシャツじゃんか」
「大丈夫です。お願いします」
少年は後ろを向いたまま、ぼくとは反対方向にぺこりとおじぎした。ぼくは誠の書くスペースを考慮して、黄色いTシャツの上の辺りに「千葉英和高等学校 成願達志 5」と書いた。
マジックを誠に渡すと、少年は、
「ありがとうございました。ぼくもホームラン打てるように頑張ります」
そう言って誠からマジックを取り上げた。
ぼくは誠の方を見て、ぷっと吹き出した。肩すかしをくらったように誠は苦笑いを浮かべていた。
「どういたしまして。野球頑張ってね。お兄ちゃんも君と同じ「浦安ファイターズ」の出身なんだよ」
「そうなんですか? すげー」
少年は嬉しそうに目を輝かせていた。