メディテレーニアンハーバー
甲子園予選、初戦を前日に控えた夜、有紀美から電話が掛かってきた。
「もしもし。有紀美、どうした?」
「あ、たっちゃん。あのね、私のパパ、子どものころからずっと野球やってたのね。それで、わたしが甲子園で演奏するのを楽しみにしてるの。明日戦う成田第一高校の須藤ってピッチャーのことを調べてきたんだって」
「そうなの? やつの高速スライダーが厄介なんだよね」
「それでね、ちょっと信じられない話かもしれないんだけど……」
有紀美は何か言おうとしているらしいが、少し言葉を詰まらせた。
「有紀美? どうした?」
「あ、うん。もしも終盤、チャンスでたっちゃんに打席がまわってきたらね、二球は見逃してほしいの。それで三球目にカウントを取りにストレートが真ん中高めにくるから……あ、いや、真ん中高めにくる傾向のあるピッチャーみたいだから、そのストレートを狙い打ちしろってパパが言ってたよ」
ぼくはきょとんとした。なんだか彼女の言っている意味がよく分からなかった。
「あ、うん。そういう場面がきたら……」
「約束ね」
「うん」
彼女は電話を切った。ぼくは彼女の言った話を整理した。
終盤。野球で終盤といえば七回から九回のことだ。
そこでチャンスが来てぼくが打席に立つ。
二球見逃す……でも2ストライクと追い込まれ、不利になるかもしれないよな。
三球目のストレートを狙い打つ。
なんだか意味が分からずその日は早めにベッドに入った。
有紀美の言葉が気になって寝付けなかった。初戦から成田かよ。そんなネガティブな思いが頭をよぎった。
ぼく達千葉英明高校は春の県大会でベスト4に残り、夏の大会のAシードを獲得した。本来それは、しばらくは強豪と戦わなくて済むという権利のはずである。しかし、甲子園に何度か出場したことのある強豪の成田第一高校はエースの怪我により、春季大会で二回戦敗退。ノーシードとなってしまった。
抽選会でキャプテンの誠が引いたカードの隣の山は成田第一高校対弱小公立高校である。ぼく達の初戦はその勝者と戦うことになるのだが、間違いなく成田第一が勝ち上がってくる。ノーシード校の中では一番強い高校だろう。
まさか初戦で当たるとは我らが鬼監督も思っていなかったのだろう。六月に成田第一との練習試合を組んだのだ。エース須藤は完全に完治したようで、4対1で負けてしまった。その一点も須藤から取ったわけではない。九回に二番手投手がマウンドに上がると、誠がライトスタンドに運んだのだ。結局須藤からは一点も取ることができなかった。
ぼくは誠のくじ運を呪ってやった。あのくそヤロー、死んじまえと。甲子園に行けずに有紀美を彼女にできなかったら一生呪ってやる。
そして試合当日、須藤は得意の高速スライダーがきれていた。ぼく達はなすすべもなく九回裏の攻撃を迎えたのだ。1対0と1点のビハインド。ここまで五番バッターの有光昴だけが気を吐き三打数三安打。四番のぼくは高速スライダーに惑わされ三打数無安打だった。
ベンチ前で円陣が組まれた。鬼のような形相で工藤監督がぼく達に指示を与えた。九番の佐久間に代え、代打の切り札である高山を送るも1アウト。続く一番もショートゴロで2アウト。
二番の浜田がセイフティバントで出塁し、ぼく達の夢をつないでくれた。
三番の誠は今までにないくらい集中していた。センターを大きく超える快心のツーベースを放ち、2アウトながら二、三塁のチャンスをお膳立てしてくれた。
成田第一はマウンドに伝令を送った。おそらく、今日ノーヒットである四番のぼくと、三安打している五番の昴を天秤にかけているのだろう。ぼくを歩かせて満塁策をとるのか、それともぼくと勝負してくるのか。
ぼくは身震いした。もしぼくと勝負してくるなら、ぼくのバットでみんなの運命が変わるのだ。勝負してこい。
ぼくは緊張しながら長方形の白線の中に入った。キャッチャーは座ったままである。ぼくとの勝負を選択したようだ。
スタンドからはルパン三世のテーマソングが軽快に響いてきた。あの中に有紀美もいるんだな。そう思うと少し肩に力が入った。いかんいかん。自分をリラックスさせるようにぼくは肩を上下に動かした。
そして有紀美の言葉が頭に浮かんだ。今のこの状況のことだ。終盤も終盤。大終盤である。二球見逃していいんだろうか? そんなことを考えているうちにど真ん中にストレートがきた。
――しまった。
そう思った瞬間、その球は急ブレーキを掛け、すとんとボールゾーンに落ちていった。高速スライダーだったのだ。二球目も計りで計ったように同じコースから同じ弧を描いてキャッチャーミットに吸い込まれていった。
2ボールノーストライク。次だ。
有紀美の言った通り甘く力ないストレートが真|ん《・》中《・》高めに吸い込まれるようにやってきた。ぼくは迷わず振り抜いた。感触はなかった。ド真芯でボールを捕えると打った感触がないのだ。ぼくは確信した。レフトスタンドへ突き刺さると。
ぼくは今までしたこともないような派手なガッツポーズをベンチで見守る仲間に向けてしてみせた。あたかも決勝戦でサヨナラ勝ちを収めたかのように仲間はぼくを迎えてくれた。たかだか初戦に勝利しただけなのに、ぼくは涙を押さえることができなかった。仲間からの手荒い祝福を覚悟し、ホームベースを踏んだ。
「なんかこの大会で俺が打ったホームランてさ、三本とも有紀美のお父さんの助言で打てたんだな。ほんと感謝してもしきれないな」
「今日有紀美を送り届けたらちょっと挨拶しとこうかな」
すると有紀美は慌てたように、
「ううん。大丈夫。パパもたっちゃんに感謝してるし、それに……」
そう言って少し言葉を詰まらせ、困ったような顔をした。
「あ、それにパパ、今日飲み会だって言ってたからまだ帰ってきてないと思うし」
「そっか。じゃあ、よろしく言っといてね」
「うん」
有紀美に笑顔が戻り、ぼくはほっとした。やっぱり有紀美には笑顔が似合う。ぼくは頬杖をつきながら有紀美の顔を見ていた。
「何よ?」
有紀美の頬が膨らんだ。
「なんでもないよ。ただこの可愛い子が俺の彼女なんだなあってしみじみ実感してただけ」
「もう! やめてよ。恥ずかしいな」
正面に座っていた有紀美は少し腰をあげ、両手でぼくの目をふさいだ。
ぼくは体を右に傾け有紀美の両手の横から再び有紀美の顔を覗き、にこっと笑う。
「もう!」
そう言って有紀美は両手を再びぼくの目の前にもってきた。ぼくはその手を握った。そして有紀美の瞳を見ながら言った。
「有紀美。大好きだよ」
ぼくは自分にびっくりした。そう言った瞬間、恥ずかしさでぼくの目が泳いでいるのに気がついた。
「私も。たっちゃんのこと……大好き」
なんだか照れくさかった。でも幸せだった。有紀美も照れくさそうにうつむいていた。
「そろそろ行こうか。メニテレーディアンハーバー」
有紀美はくすっと笑った。
「なにそれ。子どもじゃないんだから。ウケる。ちょっともう一回言ってみて」
ぼくはなんで有紀美が笑っているのか分からなかった。
「メニテレーディアンハーバー」
有紀美は吹き出した。
「なんで笑ってんだよ。感じわりいな」
ぼくは口を尖らせた。
「だってえ、面白いんだもん。もっかい言って。お願い」
有紀美は腹を抱えて笑いだした。
「嫌だよ。もう言わない。で? なんで笑ってんの?」
どうやら壺に入ったらしく有紀美の笑いは止まらない。こんな大笑いをしている彼女を見たのは初めてだった。この大笑いしている有紀美も可愛くてしょうがなかった。
「ちゃんとパンフレット読んでみてよ」
ぼくは場内ガイドを広げた。なんとそこには「メニテレーディアンハーバー」ではなく「メディテレーニアンハーバー」と記されていたのだ。
ぼくは恥ずかしい思いでいっぱいになった。なにせ、七歳で初めてシーに来てからずっとメニテレーディアンハーバーだと思っていた。家族のみんなもそう呼んでいたのだ。
確かに「コミュニケーション」が正しいのか「コミニュケーション」が正しいのか、今でも分からないでいる。今さら誰かに聞くのも勇気がいるし、わざわざググって調べるほどのことでもないと思っていた。
「たっちゃん、可愛い」
有紀美はそういって頬杖をつき、ぼくの顔をまじまじと見ている。やられた。仕返しされてしまった。
「うるせえし」
ぼくはつんと横を向く。
「ひょっとしてたっちゃん、子どものころさあ、とうもろこしのこと、トウモコロシとか言ってた口でしょ?」
小悪魔のような顔をしてさらに追い打ちをかけてきた。くそ! でも当たっている。確かにトウモコロシと言っていた気がする。有紀美の小悪魔のような顔も、また可愛かった。怒る気がしないのだ。
「行くぞ、メニ……メディなんとか」
ぼくはレシートを鷲掴みにし、とっとと会計へ向かっていった。
後ろから有紀美が小股でちょこちょこぼくに付いてきているのがわかった。有紀美はぼくの右腕にちょんと摑まり、笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。くそ! 可愛い。