始めてのデート
千葉県にある高校までは、バスで八時間以上かかる為、夜十時に出発することになった。大型バス三十五台によるタンデムラン。
日付が変わったころ、最初のトイレ休憩がとられた。
「たっちゃん!」
そうぼくを呼んだのは、間違いなくぼくの彼女の声だった。
「なんで、バースデイソングのこと、言ってくれなかったんだよ」
全く責めるつもりはないが、つい口にでてしまった。
「だって、言っちゃ駄目だよって先輩に言われてたんだもん」
有紀美は口をとがらせた。その仕草がまた可愛い。
「その口、可愛いな」
「もう、何言ってんのよ。恥ずかしいな」
今度は頬が膨らんだ。
「そのほっぺ、超可愛いんだけど」
「もう、たっちゃんたらあ」
有紀美がぼくの胸をそっと叩く。
誰がどう見てもバカップルである。でもぼくは楽しかった。
トイレを済ませバスに向かう途中、喫煙所の前を通るとぼくを呼ぶ声が聞こえてきた。
「達志」
「あ、お父さん。ここにいたんだ」
「お兄ちゃん、お疲れ」
妹と母が煙草を吸い終わる父を喫煙所の側で待っていたようで、ぼくに気付き話しかけてきた。
夕食も別々だった為、試合後初めて家族の顔を見たのだ。
「おう。みんないたんだ」
「残念だったね。でもお兄ちゃん凄いよ。楽しかったあ。甲子園の土、わたしにも分けてね」
「おう。たんまり取ってきたから」
「やったあ!」
可愛い妹の声がサービスエリアに響き渡った。
バスに乗り込むと、ぼくの疲れた体を癒してくれる為なのか、あっという間に睡魔がぼくを寝かし付けてくれた。
外の騒がしさでぼくは目が覚めた。カーテンの隙間から夏の陽ざしが差し込んできている。その光は隣にいる誠の顔に直接当たり、眩しそうに左目を開けてからもう片方の目を開けた。
「眩しっ。なんだか騒がしいな」
カーテンを少し開けると見慣れた建物がぼくの目に入ってきた。どうやら学校に着いたようだ。しかしその見慣れた景色はいつものそれとは全く異なるものだった。たくさんの人々が集まりぼくらに手を振っている。
――この光景も見たことがある。
「すげえ人だぞ」
ぼくはそう言ってカーテンをいっぱいに開けた。
「うわっ」
その光景に誠も思わず声をあげたのだ。
おそらく百人近くはいたであろう。ラジオ体操帰りという「ついで」も手伝ったのかもしれない。ぼく達の凱旋を祝福する為に集まってきてくれたようだ。ぼくはスマートフォンを取り出し時間を確認した。朝の六時四十五分である。
ぼくらに向かって笑顔で手を振る人々。なんだかアイドルを見つけた人達と同じような表情だった。特に小学生らしき男の子の数が多かった。近所の女子中高校生らしき人達も多い。
バスを降りると握手を求めてきた人達に囲まれた。一番人気はエースの佐久間孝之。彼のまわりには女子中高生が多かった。どうやら二番人気はぼくのようだ。一回戦で逆転サヨナラホームランを打ったぼくに憧れてくれているのだろう。ぼくのまわりには野球少年達が集まってきていた。そして少しの女子中高生もいた。そして三番人気はキャプテンの誠である。決してイケメンではないが、彼の人懐っこいその風貌と笑顔は万人に愛される。とにかくいいやつである。そんな彼のまわりはおばさん率が異常に高い。
ぼくはようやく実感した。全国のベスト8に残ったんだと。その現実に鳥肌が立った。
◇
お盆休みの朝八時、ぼくは東京ディズニーシーにいる。隣にはもちろん有紀美の笑顔がある。ノースリーブタイプの白いワンピースを身に纏い、麦わら帽をかぶっている。朝の陽ざしが有紀美の白く華奢な腕を照らしていた。
ぼく達はゲートの前で手をつなぎながら並んでいる。三十分ほど前からこの場所にいるが、この待ち時間でさえ幸せな気分である。暑さの中、ただ手をつなぎながら二人で話をしているだけなのにとても楽しい。
ぼくが住んでいるのは千葉県浦安市にある富士見という町である。最寄駅は地下鉄東西線の浦安駅である。家からディズニーリゾートまでは自転車で十五分ほどの距離。有紀美も浦安に住んでいるのだけれど、彼女の家はJR京葉線の新浦安駅の近くである。
今日は富士見交番のあるT字路の交差点で待ち合わせをし、自転車でディズニーシーまできたのだ。
開門されたようで少しずつ前に進んでいく。足を前に進める集団はもれなくわくわくしたような表情をしている。
チケットをゲートの穴にすっと差し込む。そのチケットが数十センチ向こうの穴からひょっこり出てくる。再びチケットを手に取ると、
「いってらっしゃーい」
ディズニーの制服を着ている可愛らしいお姉さんが満面の笑みでぼくらを迎えてくれた。教育されて「作られた笑顔」であるはずなのだけれど、そんなことは微塵も感じさせない百点満点の笑顔だった。
「さすがだな」
そう呟いてお姉さんの顔をまじまじと見ていると、有紀美がぼくの二の腕をつねった。
「痛っ」
「もう! あの綺麗なお姉さんのこと見てたでしょ!」
これがやきもちってやつか。いい。なんかいい。愛されている感がたまらなかった。
「あ、違う。違う。なんか見たことある人だなって」
――違わない。確かに見ていた。見惚れていたの方が正しいかもしれない。
「早くいこっ」
有紀美の機嫌はすぐ直ったようで、ぼくの手を引っ張りながら笑顔で走りだす。
ゲートのお姉さんより断然可愛い笑顔だった。
まずぼく達が並んだのは「タワーオブテラー」である。頭上から悲鳴が聞こえてくると、
「いや、怖い」
有紀美はそう言ってぼくに抱きついてきた。やわらかい何かがぼくの胸の下の辺りに押し付けられた。
――なんなんだ、この柔らかさは。人間の身体の中にこんなにも柔らかい部分があるのか?
有紀美もそれに気付いたようで、慌ててぼくから離れると、白い頬が紅く染まっていった。
なんで君はそんなに可愛いんだ。
なんでそんなに可愛い君がぼくの恋人なんだ。
朝、待ち合わせをしてから一時間ほどの間に何度も幸せな気分にしてくれたのだ。
十二時をすぎるとレストランも込みそうだったので、ぼく達は少し早めの昼食をとることにした。
「けっこう歩いたね」
有紀美は右のふくらはぎを揉みながらそう言った。
「足、大丈夫? 痛いの?」
「ううん。大丈夫。でも運動不足痛感。って感じ」
痛感って感じ? その言葉が日本語として正しい使い方なのか、ぼくは違和感を感じた。
ん? 違和感を感じるってのもおかしくないか? まあどうでもいい。
ぼくの目の前で苦笑する有紀美も可愛かった。
「痛くなったら言ってね。そういえば、有紀美のお父さんにはほんとに感謝してるよ。凄いよね、お父さんの洞察力っていうか分析力っていうか……。お礼言っといてね」
「うん。言っておく。私のダーリンが感謝してたよって」
「えっ? お父さん、俺のこと、彼氏って知ってんの?」
「知ってるよ。たっちゃんは私の大好きな彼氏だよって言ってあるよ」
大好きとか、もうとろけるんですけど。もう一度聞きたくて聞こえなかった振りをしてしまった。
「えっ? 何?」
しっかり聞こえていたのにごめん。頼む! もう一回言ってくれ。
「成願達志は私の愛する彼氏だよって言ってあるよ」
「大好き」から「愛する」に変えやがった。くそー、もう死んでもいい。いや、駄目だ。死んだらこの笑顔が見られなくなってしまう。
「門限厳しいわりに、そういうところはオープンなんだね」
有紀美の門限は九時らしい。八時半ころから始まる花火も見たいが門限に間に合わない。
門限破りなどとなれば、お父さんの恩を仇で返すことになってしまう。必ず九時には家の前まで送り届けなければ……。