有紀美と叶夢
四月、ぼくは東京・八王子のワンルームマンションで一人暮らしを始めた。中央大学法学部に入学したのだ。野球部に入ることも考えた――プロ野球選手を目指す――しかし、そんな非現実的な夢より弁護士として安定した将来を見据えることにした。
これから年老いていく父や母を安心させたいという思いもあった。
自宅のある浦安駅から八王子駅までは電車を乗り継ぎ約一時間半。自宅からも充分通える距離ではある。ぼくを自立させる為、父が一人暮らしを勧めたのだ。
もちろん愛する家族や有紀美に会う為、ほぼ毎週末自宅へ帰った。それでも友達付き合いやゼミの関係で帰れないこともある。そんな週末はたいてい有紀美が部活をさぼり、ぼくのマンションへ来る。
――今週末は友達と用事があるから帰れないよ。
そう妹に無料通話アプリで連絡すると必ず、
――有紀美さんは来るの?
と、速攻返事が返ってくる。
――今週は部活休めないみたいだから、有紀美は来ないよ。
そう返事を返すと、
――じゃあわたしが行って掃除したりご飯作ったりしてあげる。来るなって言っても行くからね。
と返ってくる。
――大丈夫だよ。お兄ちゃん、それくらいのことは自分でできるから。
そう送っても一向に既読にならない。次に妹と連絡が取れるのは……。
――ピンポーン。
ぼくの部屋のチャイムが鳴った後である。妹が一人でぼくの部屋を訪れるのは二回目である。
七月に入ったばかりの金曜日の夕方、妹は制服のままぼくの部屋の前に立っていた。梅雨明けもまだ先だった。雨でずぶ濡れになりぶるぶる震えながら、妹は近所のスーパーのロゴが印刷された袋を重そうに持っていた。
「なんで連絡しないんだよ。傘持って迎えに行ったのに。ほら、早く入れ」
「いやー、急に雨が降ってきちゃって……」
そう言いながら叶夢はぼくの部屋を見回した。
「もう! やっぱり散らかってる。すぐ掃除してご飯作るから、お兄ちゃんは六法全書でも眺めてて」
「そんなこといいから早く着換えろ。風邪引いたらどうすんだよ。着替え持ってきたんだろうな」
「あっ、下着しか持ってこなかった」
叶夢はそう言って舌を出す。
「じゃあ、これ着ろ」
ぼくは有紀美のパジャマを叶夢に突き出した。
「何これ。彼女のパジャマでしょ? 嫌だ。お兄ちゃんのジャージ貸して」
叶夢はダボダボのジャージを着て掃除を始めた。
「よし! 綺麗になった。じゃあご飯作るね」
叶夢は鼻歌まじりでご飯を作りだした。妹の楽しそうな顔を見ていると、なんだかぼくも嬉しくなったりする。
叶夢は肉じゃが、みそ汁、ポテトサラダ、そして白いご飯を作ってくれた。スーパーで買ってきた沢庵も食卓に色を添えてくれている。
「うんまっ!」
肉じゃがを一口頬張った瞬間、ぼくは思わずそう叫んだ。
「ほんと? 良かったあ」
叶夢の頬が真っ赤に染まった。嬉しそうにしていた。ぼくの「おかあさんの味」とは、ぼくを産んでくれたおかあさんではなく、昭子おかあさんの味である。その味とそっくりだった。おそらくおかあさんに教わったのだろう。そうでなければこんなそっくりな味は出せない、ぼくはそう思った。
前回叶夢が来た時はピザを頼んで二人で食べた。叶夢はりきってハンバーグを作ってくれたのだが、真っ黒焦げになってしまったのだ。
「お兄ちゃん、ごめん。焦げちゃった」
叶夢は泣きそうな顔をしていた。
「じゃあ今日はピザでも頼もうか」
そんな流れでピザを頼むことになったのだ。
「今度は絶対上手に作るから」
そう言って涙をこぼしていた。
食後、叶夢は学校での出来事などを、弾丸のように話し続けた。ぼくは楽しそうに話す妹の顔を見ながら「うん、うん」とうなずいているだけだった。
十二時も過ぎ、叶夢はぼくのベッドに潜り込んだ。ぼくは前回と同じようにソファに枕を置き、掛け布団を被る。
「お兄ちゃん、一緒に寝ようよ。こっち来て」
「いくらなんでもシングルの布団に二人で寝るのはきついだろ。早く寝な」
叶夢は口を尖らせる。
「いいじゃん。ちっちゃいころはよく一緒に寝たじゃん」
こうなると妹は引かないのだ。
「はい、はい。寝てる間におっぱいに触れても文句言うなよ」
ぼくは叶夢の隣に横たわり、叶夢にお尻を向けて枕に頭を置いた。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「腕枕して」
「えっ? 恋人同士じゃないんだから」
「昔はしてくれたじゃん」
叶夢はそう言って足をバタバタさせた。ぼくは諦めて妹の頭の下に右手を置いた。
「これでいいのか?」
「うん。お兄ちゃん……あったかい」
妹はそう言うと、ぼくの胸に顔を埋めた。そして、ほんの数秒後には寝息を立て始めた。
「のびた君かよ」
ぼくはぼそっとつぶやく。
しばらくの間、可愛い妹の寝顔を眺めていた。「大きくなったなあ」そんなことを考えているうちに、ぼくも眠くなってきた。
カーテンを閉め忘れていたことに気付いたが、動いてしまうと叶夢も目を覚ましてしまいそうな気がした。真ん丸な月が真っ暗なはずのぼくの部屋を照らしていた。
ぼくはカーテンを開けたまま眠ることにした――お餅をつ搗いているうさぎさんに見守られながら。
翌週末もぼくは実家に帰ることができなかった。バイト先でどうしても人が足らず、シフトを入れられてしまったのだ。ぼくは五月から八王子のホテルで働いている。と、いっても直接ホテルに雇われているわけではない。配膳会事務所に所属し、ホテルのラウンジやレストラン、宴会場で披露宴などのサービスをするというものである。学生のぼくは主に宿泊者の朝食のサービスをしていた。朝働いてから大学に行くことが多かった。しかし今週末は披露宴が多く、そちらのスタッフとしてかりだされることになったのだ。
というわけで、妹からは、
――今週も行く。
という連絡があったのだが、
――今週は有紀美がくるからダメ。
と連絡すると、なにかのキャラクターが「フンッ!」とそっぽを向いているようなスタンプが送られてきた。
――そんなに怒んなよ。
と返信をしても既読にならない。
――ピンポーン――ドアを開けると有紀美が立っていた。二週間ぶりに見る有紀美の笑顔がみるみるぼくの目の前に近付いてくる。そしてぼくの唇はまたたく間にふさがれた。
「たっちゃん、逢いたかったよ」
彼女はそう言って何度も何度もぼくにキスをした。
付き合いだしてから、二週間も逢えなかったことなどなかった。その二週間を埋めるかのようにぼくたちは愛し合った。
彼女の手料理を食べた後、二人でソファに座りまったりとした時間が流れた。
――ピンコン――ぼくのスマートフォンが音を立てる。
葉月さんから連絡が来たのだ。
――来週浦安に帰ってくるのかな? ちょっと、大切な話があるから時間もらえる?
そんな文章の後ろにハートマークが付いている。
「うわっ」
ぼくは慌ててハートマークを隠すように、彼女にスマートフォンの背を向けた。
「どうしたの? なんか怪しい。誰?」
あからさまなぼくの態度に彼女は不審を抱いてしまったようだ。
「な、な、なんでも……ない。い、妹。そう、妹。なんか……好きでもないやつに告られちゃったみたいで……」
妹が好きでもない男性から告られて「うわっ」なんてリアクションをとる兄なんていないだろう。ぼくの取って付けたような明らかに嘘だと分かる言い訳にも、
「そっか。叶夢ちゃん、もてそうだからね。相談に乗ってあげてね。お兄ーちゃん」
有紀美は可愛く頭をかたむ傾け、ぼくの肩にもたれかかった。ぼくのことを信用してくれているのか、それ以上ぼくの不審行動について詮索しようとはしなかった。
ぼくはそんな彼女のことをいと愛おしいと思った。もう絶対きみのことを裏切らないからね。
「そろそろ寝よっか」
「うん」
先週、妹とぼくを照らした月は少し欠けていた。それでも有紀美の寝顔を眺めるには充分な明るさをぼくの部屋へ運んでくれていた。
「有紀美、愛してるよ」
寝息を立てる彼女に向かって、ぼくはそう呟いた。
目が覚めると香ばしい珈琲の香りがした。エプロン姿の彼女がキッチンで忙しく動いている。
「おはよう」
彼女はぼくの声に振り返る。エプロンを外し、無邪気にぼくの胸に飛び込んできた。
「たっちゃん、おはよ」
今日も有紀美の笑顔がぼくの目の前できらきらしている。彼女は甘えた声で、
「ちゅうして」
そう言って目を閉じた。
ぼくはそっと彼女の額にキスをした。
彼女は嬉しそうに、
「もうすぐご飯できるよ」
飛び跳ねるようにベッドから降り、ぼくの手を引っ張った。
しばらくするとテーブルには、カリッと焼かれた食パン、ハムエッグ、グリーンサラダ、湯気の立った珈琲が所狭しと並べられた。
「紅茶が良かった?」
「ううん。どっちも好きだから。それより今日の午後、俺バイトに行っちゃうけど何してる? 十二時から披露宴を二本やるから、帰ってくるのは夜の九時くらいだよ」
「従業員食堂でご飯食べてこないでね。わたし、ご飯作って待ってるから。昼間はこれ読んでるから時間は潰せるし」
「お、またミステリー小説か? 見せて」
彼女はその小説をぼくに突きだした。
「鬼畜の家? 凄いタイトルだね」
ぼくはその小説に巻かれている帯を見た。
『おとうさんはおかあさんが殺しました。
おねえさんもおかあさんが殺しました。
おにいさんはおかあさんと死にました。
わたしはおかあさんに殺されるところでした……
我が家の鬼畜は、母でした』
「なんだこれ? すげえな」
「ふふっ。面白そうでしょ?」
「うん。読んだら貸して」
「いいよ」
ぼくは昼前にマンションを出てバイトに向かった。
仕事を終えると、ぼくは自転車をかっ飛ばしてマンションに戻る。マンションの鍵は持ってきたのだけれど、ぼくは敢えてチャイムを押した。
「はあい」
エプロン姿の彼女が満面の笑みを浮かべて出てくる。そして玄関でキス。ただ単にこの新婚さんぽいことがやりたかっただけである。「お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ・た・し?」この件がなかったことが少し残念ではあるけれど、まあ満足である。
日曜の夕方、楽しい時間というのはどうして早く通り過ぎてしまうんだろう。ぼくはそんなことを考えながら八王子の駅で彼女を見送った。来週また逢えるのだ。しかし彼女は寂しそうに一粒の涙を流した。
「来週、帰るから。じゃあまたね」
彼女はこくりと頷いてホームへ向かっていった。




