成る願い、叶う夢
家に着くと、妹の叶夢がバスタオルを胸に巻きお風呂から出てきた。
ぼくの名前の由来が「成る願い、達する志」ならば、妹は「成る願い、叶う夢」ということになりそうだが、これはただの偶然である。
ぼくがやっとひとりで歩けるようになったころ、母は病気で亡くなったらしい。だから母の顔は写真でしか見たことがない。もちろん「母の温もり」というものも覚えていない。
小学三年生のころ、父がぼくに話しかけてきた。
「なあ、達志。今度四人でピクニックにでも行かへんか」
「四人?」
不思議に思ったぼくは父にそう問いかけたが、その時父は言葉を濁した。
ピクニックの当日、支度を終えた父とぼくは車に乗り込んだ。ピクニックに行くはずなのに、父はお弁当を作った様子はなかった。残りの二人を迎えに行く為に十分ほど車を走らせると古いアパートの前で父は車を止めた。アパートのドアの前には、会ったことのない二人が笑顔で立っていたのだ。
一人はすらっとした体型の綺麗なおばさんで、手には竹製の大きなバスケットを持っていた。
もう一人はぼくより年下のボーイッシュな女の子。キャップを斜めに被り、背中にリュックを背負っていた。
女の子は父の顔を見ると「清志おじちゃん、こんにちは」と言って手を振った。
二人が後部座席に乗り込むと、父はぼくに向かって彼女達を紹介してくれた。
「こちらが叶夢ちゃんで、こちらがお母さんの昭子さん」
「達志兄ちゃん、こんにちは。富田叶夢です」
無邪気に微笑みながら女の子はぺこりと頭を下げた。
相模湖ピクニックランドに着くと、叶夢ははしゃいでいた。何度も父の腕に摑まり、じゃれたりもしていた。三人で何度も合っていたんだとすぐに分かるほどなついていたのだ。
父を取られてしまったような、なんだか少し寂しい気分になったことを今でも覚えている。
しかし、叶夢はぼくにもすぐ懐いてくれた。
その翌年、父とおばさんは結婚したのだ。おばさんもぼくに優しかったし、叶夢も可愛かった。
でもぼくはおばさんのことを「おかあさん」と呼べなかった。おばさんのことは大好きだった。ただ単に恥ずかしかったからである。
一緒に生活をするようになってから半年ほど経ったある日の夕方、ぼくは野球の練習を終えて家に向かい歩いていた。すると人気のない江戸川沿いの道路で、気の弱そうな小学生の男の子――ぼくと同い年くらいか、少し年下くらいだろう――が学ランを着た中学生にいじめられていた。
もちろんいじめられることになった理由は分からなかった。理由はどうあれ、体の大きな中学生が三人がかりで小学生を殴る蹴るというのは許されることではない。だからといって小四のぼくが止めに入っても中学生達にボコられてしまうのは目に見えていた。
ぼくは見て見ぬ振りをして通り過ぎようと思ったのだけれど、少年は腫れた瞼を必死に開きぼくに助けを求めている。
「辞めない? そんなこと」
ぼくが立ち止まってお兄さん達にそう言うと、当然のようにいじめの対象はぼくになった。ぼくは抵抗したが勝てるわけがない。顔やお腹を殴られ、腰や足を蹴られ、とうとう道路に倒れ込んだ。
すると誰かが走ってこっちにやってきた。殴られた目は痛く、ぼくはそうっと瞼を開くが目の前に映る景色は霞んでいる。そのシルエットから大人の女性であることは分かった。徐々にその姿にピントが合う。
「おば……さん」
ぼくは力なくそう呟いた。
おばさんはぼくのバットを拾い上げ、中学生達に食ってかかっていく。
「あなたたち、なにやってんのよ! 中学生三人が小学生相手に寄ってたかって……恥ずかしくないの? 喧嘩するならサシでやんなさいよ! しかも自分より大きな相手とね! どうせあんたらにはそんな勇気なんてないだろうけどね!」
おばさんはそう言ってバットをぶんぶん振り回した。中学生達はおばさんの剣幕に圧倒され逃げていったのだ。
おばさんは振り向きぼくの方へ駆け寄った。そして倒れたぼくを抱きしめた。
「達志君、大丈夫? お兄ちゃんも大丈夫?」
そう言って隣で倒れている少年にも声を掛けた。
「大丈夫。ありがとう……おかあさん」
初めてぼくが「おかあさん」と呼ぶと、ぼくを見つめるおかあさんの瞳はいっぱい涙を貯め始めた。堪え切れなかったおかあさんの瞳から、それはわっと流れ出た。その時は、おかあさんがなぜ泣いたのか、ぼくには分からなかった。
不思議と恥ずかしさはなく、自然に呼ぶことができたのだ。ぼくを抱きしめたおかあさんはとても温かかった。ぼくはその時初めて「母の温もり」というものを感じた。
一方、叶夢とはすぐに打ち解けた。人見知りなどという言葉は無縁の叶夢はいつもぼくの隣で笑っていた。一緒に生活をする前から「お兄ちゃん」と呼んでくれていた。ぼくは本当の妹のように叶夢を可愛がった。
「あ、お兄ちゃん。おかえり。今日はちょっと遅かったんだね。彼女でもできたの?」
そう言って少し口を尖らせ、いつものように思ったことをはっきり口に出してきた。妹の歯に衣を着せた発言など、ぼくは聞いたことがない。
「残業だよ、残業。それより叶夢、お前なあ、バスタオル巻くのはいいけど下の毛丸出しだぞ。いいかげん恥じらいというものを覚えろ。もうすぐ高三なんだぞ」
「はあい」
そう言ってバスタオルを下げると、今度は小ぶりな胸が露わになる。
「あちゃ。駄目だなこりゃ」
ぼくはそう言って目をおお覆った。
妹はぼくの一つ年下で、活発、且つ積極的。ぼくと同じで音楽センスは皆無だけれど、スポーツセンスは甲子園に出場したぼくでさえ羨むほど抜群である。中学時代は陸上部で全国制覇を果たした。百メートルなどの短距離を得意とし、11秒60の中学女子日本記録まで打ち立てたのだ。
小さな胸のことに関しては、
「しょうがないじゃん。陸上で短距離やってたんだから」
そんな風に納得している。
ぼくと同じ高校へ進むと同時に陸上は辞め、他の部活にも入らなかった。いわゆる帰宅部というやつである。陸上を辞める理由を訊ねると「練習が面倒だから」の一点張りだった。
彼女がいることは妹には言えずにいる。有紀美と付き合う前、ぼくはもてなかったわけではない。何人かの女の子から告白されていた。そのことを妹に話すといつも機嫌が悪くなる。
そしてぼくに告った女の子の名前を知りたがる。名前を教えると次の日その子のことを調べだす。
「あの子にお兄ちゃんは似合わない。ダメ、ダメ」
いつもそうやって女の子の品定めをするのだ。
ぼくがお風呂から出てくると、叶夢が何か言いたそうにこちらに近づいてきた。
「お兄ちゃん、今日さあ、ちょっと噂を聞いたんだけど……」
叶夢はそう言って少しうつむいた。父と母はリビングのソファで映画を観ている。こちらの声は聞こえていない。
「どうした?」
「あの……さあ。本当は彼女いるんでしょ? あのおっぱいの大きい有紀美さんて人と付き合ってるんでしょ?」
叶夢らしいストレートな質問に観念したぼくは話すことにした。
「う、うん。付き合ってるよ」
「あそ。お兄ちゃんの馬鹿」
叶夢は静かな口調でそう言うと、部屋に入っていった。
彼女ができたことを内緒にしていたぼくに対し怒ったのだろう。ぼくは叶夢の部屋のドアを叩いた。
「叶夢、ごめんよ。お兄ちゃん、お前に内緒にしてた。ごめん」
「ばーか! お兄ちゃんなんて嫌い!」
「そんなに怒るなよ。今度からはちゃんと叶夢に話すから。な? 機嫌直せよ」
「もういい! どうせわたしはただの妹よ! わたしの誕生日だって……」
ぼくは妹の怒っている理由が分からなくなった。
それからしばらく、叶夢は口を利いてくれなかった。




