最後のキス
卒業式も終わり、ぼくはバイトを頑張った。ぼく達三年生は二月に入ると学校へはあまり行かなくてもよかったのだ。二月もかなりの日数仕事をすることができた。大学に入学するまでにお金を貯め、夏休みに車の免許を取る為である。
二ヶ月ほど前に起きた事件――ぼくの浮気事件――の翌日、その日もぼくはバイトに入った。そこにはもちろん葉月さんもいたのだ。バイトは夜なのだが「おはようございます」ぼくがいつものように挨拶をすると、キッチンから葉月さんが出てきた。「おはよう」そう言っていつもの笑顔を見せてくれた。
「達志君、昨日はごめんね。わたし昨日ね……」
店長も近くにいる。まさか店長の前で昨日のことを話すつもりなのだろうか? ぼくはどきどきした。口から心臓が飛び出しそうだった。
「あ、いや。ぼくの方こそ……」
ぼくはそう言うのが精いっぱいだった。
「わたし、全然昨日の記憶がないの。達志君と自転車引いて歩いて帰ったでしょ? 清流神社の前を通り過ぎたあたりまではなんとなく覚えてるんだけど、その後の記憶がまったくないのよ」
「あ、そうなんですか」
ぼくはほっとしたような、それでいて少し残念なような複雑な心境だった。昨日、葉月さんが眠ってしまった時と似たような感覚である。
「そう、それでね、朝目が覚めるとわたし……」
葉月さんはちょっと意地悪そうな顔で続けた。
「上半身素っ裸だったのよね。達志君、ひょっとしてわたしのこと襲った?」
襲ってきたのは葉月さんの方である。ぼくは顔をひ引きつ攣らせる。
「え? いや、そんなこと……してないですよ」
「ふふっ、冗談、冗談。達志君、顔真っ赤よ。かわいっ。でも達志君とならなんかあっても良かったんだけどなあ」
小悪魔がぼくを楽しそうにいじめている。
「おい、おい、葉月君。純粋な未成年いじめたらあかんやろ」
店長の助け舟により、ぼくはいじめから解放された。
ぼくは何もしていない。いや、何もというのは語弊がある。キスもした。胸にも触れた。でも一線は越えていない。しかし、もしもあの時葉月さんが眠らなければ間違いなく……。
反背しなければ……。
葉月さんは覚えていない。ぼくだけの秘密にしておこう。ぼくはそう思った。
「いらっしゃいませ」
葉月さんの透き通った声が店内に響いた。
今日もぼくはバイトに来た。葉月さんの笑顔もすぐそこにある。
お店の前を行き交うサラリーマン風の人達はせわ忙しなさそうに歩を進めている。年度末だからなのだろうか。そんなことを考えているとあっという間に席が埋まっていく。店内には入りきらず、お店の外に置いてあるテーブルにもお客さんが座っている。
「中のお席が空きましたら、中の方へご案内しますので」
ぼくはそう言って注文を取った。春が間近に迫っているとはいえ、外は肌寒い。
忙しいと時間が経つのが早い。十二時を十五分ほど過ぎたころ、お店の暖簾は降ろされた。しかし洗い物が追い付かず洗い場はごった返していた。普段ならぼくはここで帰るのだが洗い物や掃除を手伝った。
「あと十五分働いて帰れば三十分の時給が付くから、手伝っていかへんか?」
店長のそんな配慮もあったのだ。
ぼくは二ヶ月ぶりに葉月さんと一緒に帰ることになった。自転車に乗り、ぼくは葉月さんの前を走った。風は冷たかった。あと僅か一ヵ月で本当に温かい季節がやってくるのだろうか。そんな疑念さえ感じさせるほどの冷たい風だった。
しばらくすると四回建ての茶色いマンションが見えてくる。
「お疲れさまでした。じゃあぼく、帰りますね」
「達志君、あのさ。この前……襲っちゃってごめんね。ていうより、寝ちゃってごめんね。かな?」
ぼくは目を大きく見開いて葉月さんを見つめた。
「えっ? 酔っぱらって覚えてないんじゃ……」
「ふふっ、ちゃんと覚えてるよ。顔を合わせるのがちょっと恥ずかしかったから、覚えてない振りをしたの」
「そう……だったんですか」
「今日も上がっていく?」
ぼくが困った顔をしていると、葉月さんはプッと吹きだした。
「冗談よ。冗談。もう襲ったりしないから安心して。大好きな彼氏もいるし」
葉月さんはそう言うとぼくに近寄り、ほっぺにキスをした。ぼくは近づいてきた葉月さんから逃げようともしなかった。
「これが最後のキス。おやすみ」
そう言ってマンションに入っていった。
ぼくはしばらくその場に茫然と立ち尽くした。ふと我に帰り四階を見つめると、葉月さんの部屋に灯りが灯った。
ぼくは再びサドルにまたがる。頬に残った葉月さんのやわらかい唇の感触を楽しみながら、ゆっくりペダルをこぎ出した。




