今日の準々決勝
ぼくは野球部専用バスの窓際の席に座り、青々と茂った甲子園球場の蔦をみつめていた。
ぼくはしばしばデジャヴを見る。
「なんか、このシーン見たことあるな」
あの甲子園の蔦も、初めて見たはずなのに……なんだか見覚えがあった。
「終わったんだな」
ぼくがぼそっと呟くと、隣の席に座っている野球部キャプテンの誠がバスの天井を見上げながら言いった――後悔なんて全くないように。
「うん。終わったんだな。でも楽しかったな。しかしお前、あの打球よく捕ったよな」
あの打球とは、今日の順々決勝、三回表のあの打球のことだと僕はすぐわかった。
2アウト満塁、ボールカウントは3ボール2ストライク。ランナーはピッチャーが投げると同時にオートマティックスタートを切る場面である。
サードを守るぼくの右側へするどいライナーが飛んできた。
ぼくはその打球に飛びついた。そして捕った。序盤の大ピンチを僕が救ったのだ。アルプス席からは大歓声が沸き起こった。
ぼくは踊るようにベンチに向かい、ショートの誠とグローブでハイタッチを交わした。その時の土が今でも胸に付いている――洗いたくない――そんなことをふと思った。
「捕ったんじゃなくて、入ったんだよ」
親友の誠に対し、今さら謙遜する必要もない。でもぼくは何故だか少し謙遜した風にそう言った。「なんで謙遜した?」そう自分に問いかけると答えはすぐ見つかった。横っ跳びで左手を伸ばすとボールがグローブに入ったのだ。捕れるとは思っていなかった。自分の技術で捕ったのではなく、「入った」のだ。
そしてすぐ有紀美の顔が浮かんだ。今日は甲子園ベスト4をかけて戦っていたのだ。全校応援の為、有紀美も後ろのチャーターバスに乗っている。
「もしも、甲子園に行けたら、ぼ、ぼ、ぼくと……つ、付き合って下さい」
高校三年生になったばかりの放課後、ぼくは一学年下の転入生に一目惚れをし、告白したのだ。
彼女は「はい」と、満面の笑顔を僕に投げ掛け即答してくれた。その表情は今でもぼくの脳裏に焼き付いている。可愛かった。ほんとに可愛かった。
告白した直後、練習にも身が入った。サードのファールゾーンに飛んだ打球を無我夢中で追いかけ、フェンスに激突して鼻血を出した。それでもニヤニヤしていた。
今日ぼくが球場に入る前、有紀美が駆け寄ってきた。
「たっちゃん、頑張ってね」
有紀美は両手の指を胸の前で組み、ぼくを見上げてそう言った。
可愛い。可愛すぎる。「こんな可愛い子がほんとにぼくの彼女なんだ」そう思うと自然とニヤけそうになる。ぼくは口元に力を入れて答えた。
「うん。頑張るよ」
「あのね……」
有紀美は神妙な面持ちでぼくに話しかけてきた。
「もしもだよ。もしも満塁とかのピンチになったら一歩だけ私の方に近寄って守ってね」
「どういうこと?」
「いや……その……意味はないの。一歩だけ私に近寄ってくれれば、なんていうか……その、私も一緒に戦えるような気がするの。たっちゃんと一緒に戦いたい。それだけ」
「変なこと言うんだな。うん、わかった。今日は三塁側だから有紀美は俺の右後ろでラッパ吹いてるんだよな? 右斜め後ろに一歩下がってみるよ」
「ラッパじゃないから。サックス。アルトサクソフォン!」
「そっか。じゃあ球場に入るね」
「グッドラック!」
有紀美はぼくに向かってそう言いながら、左目だけを閉じた。
ぼくは試合前からとろけそうだった。彼女が可愛過ぎるというのも考えものだな。そんな贅沢なことを考えながら選手専用の入口に向かっていった――ニヤニヤしながら。
ぼくは甲子園に出たのだ。しかも全国ベスト8にまで昇りつめた。
甲子園出場を果たした瞬間から、有紀美はぼくの彼女である。
有紀美とすれ違った男性は誰もが振り向く。もちろんアニメの峰不二子ほど極端ではないが、豊満な胸元と、どうすればそこに繋がるのか理解できないほど引きしまったウエストの持ち主である。
しかし甲子園出場が決まってからは、練習の為まだ一度もデートなるものをしていない。そのことは有紀美も理解してくれている。
有紀美は吹奏楽部でサックスという金色の木管楽器を吹いているらしい。
「サックスって金色なのになんで金管楽器じゃなくて木管楽器なの?」
音楽に疎いぼくは有紀美にそう聞いたのだけれど、彼女は笑うだけで答えを教えてくれなかった――ぼくもその謎については深く追求する事はなかった。
今日もアルプス席でぼく達の為に必死で演奏してくれた。
初回、ぼくが打席に入るとルパン三世のテーマ曲が流れる――はずだった。
ところが、流れてきた曲はルパン三世のアップテンポな曲調ではなく、ゆったりとした前奏だったのだ――聞いたことのある曲だ。その静かな前奏に続いてアルプス席から大合唱が沸き起こった。
「ハッピバースデートゥユー、ハッピバースデートゥユー、ハッピバースデーディア達志、ハッピバースデートゥユー」
ぼくはそのサプライズに感動し、目を潤ませた――と、その瞬間、真ん中高めに甘いストレートが飛び込んできた。ファーストストライクから振ろうと思い打席に立っていたのだけれど、感動のあまり手が出なかった。その後、厳しいボールに手を出してしまい、あっけなくセンターフライを打ち上げてしまった。
その時は「甘い球を見逃した悔しさ」より「感動」のほうがぼくの気持の九割を占めていた。負けた今、その気持ちは半々になっているが、初球を見逃したことは後悔しないでおこうと決めた。
「そんな謙遜しちゃってえ。でもあれはほんとに美技だったよ」
「サンキュ」
いつもはぼくのことをほめたりしない親友からの最大の賛辞が嬉しかった。
「あっ」
ぼくはあることを思い出し、声をあげた。
「どうしたんだよ、達志」
「あっ、いや。なんでもない」
なんでもなくない。ぼくはまた有紀美の言った事を思い出していた。
あのピンチの時、有紀美のことを思い出し、一歩右後ろに下がっていた。そうしていなければあの打球は間違いなくレフト線に転がる走者一掃のツーベースだっただろう。
まあどっちにしろ負けてはいたのだが、1対0で負けるのと4対0で負けるのでは、後々大人になって振り返った時「頑張った感」が違って感じられるだろう。
九回裏、一死、一塁。右投げ左打ちの誠はいつものように左打席に立った。初球の超甘い、ど真ん中のストレートを見逃してしまう。そして二球目の厳しいボール球に手を出した。
それでも芯で捕えた誠の打球は、彗星のように後を引く痛烈な当たりだった。無情にもその打球は一塁手の真正面へのライナーだったのだ。一塁ランナーの吉岡は飛び出していた。ゲッツーに倒れたのだ。
ネクストバッターズサークルで打順を待つ四番のぼくに、最後の打席は回ってこなかった。