ロマネ・コンティ
季節は流れ、二〇一七年も一ヵ月以上過ぎていた。
ぼくはバイト先の葉月さんと店長の三人で居酒屋に行ったのだ。そして十八歳のぼくは初めてお酒を飲んだ。葉月さんと帰り道が同じだったので、酔っぱらった葉月さんを連れて帰ることになり、自転車を引きながら歩いて帰る。葉月さんのマンションの前に着くが、葉月さんは千鳥足。葉月さんに頼まれ、部屋まで肩をかす。
部屋に入るといきなり葉月さんにキスされ、そのままベッドへなだれ込んだ。葉月さんの体は白くて綺麗だった。胸の膨らみ方やウエストの引き締まり方も、有紀美そっくりだったのだ。しかも胸の下にあるほくろも全く同じである。
葉月さんに襲われて、断る男性なんてこの世にはいないはずだ。ぼくも例に洩れず、理性を抑えることなどできなかった。
しかし、葉月さんはことに及ぶ直前で眠ってしまった。ぼくは葉月さんに布団を掛け、複雑な気持ちで外に出ようとした。
「えっ? まさか、葉月さんて……」
いやでも今の二〇一七年には有紀美という分家がいる。過去にしかいくことはできないはずだ。有紀美より年上の葉月さんがいるわけがないのだ。ぼくはまだ有紀美の言ったことを整理できないでいる。
そしてぼくは家に向かった。風が気持ち良かったので、自転車を引きながら歩いた。
三月一日、春を目前にしながらも、陽が沈んだ後は冷えていた。少し厚手のジャケットを羽織り、ぼくは舞浜駅まで自転車を飛ばした。
今日というか昨日というか……彼女の誕生日である。ぼくはバイト代と父に援助してもらった五千円を財布にしまい、彼女の到着を待った。三月末に行われる定期演奏会の練習を少し早めに切り上げ、彼女は電車で舞浜駅に向かっているはずである。
七時を少しだけ過ぎたころ、彼女はぼくを見つけて手を振った。
「ごめんね。待った?」
「ううん。俺も今来たとこ」
定番の挨拶を交わし、ぼくたちは予約したフレンチレストランに向かった。料理の鉄人とかいうテレビ番組でフレンチの鉄人を務めたシェフがオーナーをしているお店らしい。
彼女が未来から来たという話をした半年前、ぼくは泣いた。彼女の腕の中でわんわん泣いた。
でもその後、そのことについてはあまり話をしていない。未来のぼくがどうなるのかを聞くのが怖かった。だからぼくもあえて彼女にその話題を振らなかったのだ。
彼女もまた、その話はしてこなかった。もちろん今日もその話は出てこないだろう。
アントレを食べ終えるとデザートがぼく達のテーブルに運ばれてきた。
「洋梨の……」でございます。
デザートを運んできた店員さんが料理の名前を言う。
「洋梨の」の後は、調理法の専門用語なのだろうか。その聞き慣れないカタカナはぼくの右耳から入ってきたのだけれど、左耳をすうっと通り抜けていった。目の前には色鮮やかな「洋梨のなんとか」が輝きを放っている。
店員さんは左手に三枚、右手に一枚、同じデザートの平らなお皿を器用に持っていた。残りの二皿はぼく達の左隣のテーブルに置かれた。
「美味しそう!」
彼女の瞳が二周りは大きく見開いたであろう。彼女はスマートフォンを取り出し、そのデザートを写真に収めた。
「カシャッ」という音に反応した隣のカップルがこちらを向く。隣の席の男性の彼女であろう女性もスマートフォンを取り出した。
――カシャッ。
有紀美と隣の彼女さんは顔を合わせ、にこりと笑顔を交換し合った。
デザートが運ばれると後を追うように紅茶も運ばれてきた。紅茶と同時に置かれた小さなお皿の上には二枚のレモンスライスが行儀良く並んでいる。どの角度から見ても皮の厚さは同じだった。「定規でも使って切っているのだろうか」ぼくはしきりに感心した。
ぼくの彼女も隣の彼女も目を細めながらデザートを金色のフォークですくい、その一片を頬張った。
甘くて美味しいものを食べると、女性は同じ顔をするんだな。そんなことを思いながら、ぼくは彼女――ぼくの彼女の方ですよ――の顔をうっとり眺めていた。
レストランのオーナーさんからプレゼントされた十七本の真っ赤な薔薇達はカスミ草という真っ白な衣装を身にまと纏い、彼女の後ろに置かれた特設サイドテーブルの上に飾ってある。
店員さんが彼女に花束を渡した時、無音で「おめでとう」と有紀美の誕生日を祝ってくれたおばさんは、ぼくの右のテーブルでアントレを食べ始めた。
ぼくたちが食べたお勧めコースのアントレとは違い、なんだか高級そうなお肉だった。おばさんが肉にナイフを落とすと、そのぶ厚いお肉はすっと切れた。特に力を入れてナイフをゴシゴシした風ではなかった。
か細いおばささんの腕――ちょっと嘘をつきました――か細くはないです。
脂身をたっぷり含んでいそうなおばさんの腕はたいした力を持っていないだろう。でも、おばさんがお肉にナイフを落とすと、すっと切れたのだ。
どうやらセレブ女性同士、お友達と二人でディナーを楽しんでいる常連さんのようだ。
おばさん達がアントレを食べ始めた時、黒服の店員さんがすっとおばさん達に近寄る。
「本日のワインもロマネ・コンティでよろしいでしょうか? 本日は一九九二年のワインをご用意致しました。お値段もお手頃で、二百五十万でございます。いかがなさいますか?」
「それしかないならしょうがないわね。じゃあ……それ、お願い」
婦人――おばさんと呼ぶのはやめにしよう――は顔色ひとつ変えず、二百五十万円のワインを注文した。
ぼくも彼女も、そしてぼくの左の彼も彼女もぶったまげていた。
「ローマのコント?」
ぼくは婦人に聞こえないような小さな声で彼女に問いかけた。
「ロマネ・コンティ! 超高級ワインの名前! なんでそんなことも知らないの!」
テストで悪い点数を取ってきた子どもにキレた母親のような顔で彼女はそう言った。
有紀美が母親になったらこんな顔しをて子どもに怒るんだ。怒った顔も可愛いな。二百五十万の話など遠くに消えていた。
「あ、で、その……」
有紀美は何かを思い出したように話し出すが、言葉になっていない。
「どうしたの?」
ぼくがそう言うと、彼女は下を向く。何か隠し事でもしているかのように。
「有紀美? どうしたの?」
「うん。あの……さ。今日、私を家まで自転車で送るつもりしてるよね?」
「うん。そのつもりだけど……それがどうしたの?」
「私を送った後、たっちゃんは自転車で富士見に帰っちゃうよね?」
そう言って彼女の顔は曇る。
ぼくはニヤリとした。ぼくのことを帰らせたくないんだ。自然とぼくの体の一部が元気になる。
「お、おう。まあ、帰るつもりしてるけど……」
「でもね……帰らないで」
来た。お誘いが来た。ぼくは心の中で、甲子園以来のガッツポーズをした。
「今日ね……たっちゃん……死んじゃうの」
ぼくの一部がおとなしくなる。
「……」
しばらくの間、静寂と寒気が身をつつむ。凍った湖のように時間と空気が固まり始めた。