彼女の正体
夏休みも終わり、ぼくは彼女の家にきた。二人で「ゴースト」という昔ヒットした映画をDVDで観た。そしてその後、ぼく達は結ばれたのだ。
今、彼女は恥ずかしそうに産まれたままの姿でシーツに包まっている。
ぼく達は少しの間、じゃれ合った。楽しかった。ほんとに楽しいひと時だった。
「そういえばさあ、有紀美って誕生日いつ?」
「二月の二十九日」
「へえそうなんだ……えっ? 四年に一度のあの日?」
「うん。その日。だから私、まだ四歳なの」
彼女はシーツからひょっこりと顔を出す。
「たっちゃん、あのね」
人が何か重大なことを打ち明けるときにする目と同じだった。
「どうしたの? 有紀美、大丈夫か?」
「やっぱり下手くそだったのかな、俺」そんなことも頭をよぎる。なんだか少し不安になる。
「あのね、わたしのこと……変なやつだって思わないで最後まで聞いてね……大切な話があるの」
「変なやつだと思わないで聞いてほしい?」と、いうことは別れ話ではなさそうである。そう思ったことで少し安心はしたけれど、やはりドキドキした。
「俺が有紀美のことをそんな風に思うわけないだろ。有紀美? どうしたの?」
ぼくは冷静を装ってそう言ったのだけれど、鼓動は激しいままである。
「あのね、信じられない話だと思うんだけどね……」
彼女はそう言って窓の外へ目を移した。
「……わたし、未来から来たの」
ぼくは口を開けたまま彼女の顔を見つめた。ふと冷静になり周りを見渡す。「どっきり」と書かれた看板を持った人が近くにいるはずである。しかしどうみてもそんな気配はなさそうだ。もしかしたら彼女が何かのサプライズを企んでいるのか。今の状態でも充分サプライズは成功しているのだけれど。
「また、そんな」
そう言うのが精いっぱいだった。
「ほんとなの。信じてくれる?」
「無理」
「だよね。でも、本当なの。映画とかでよくやってるようなタイムトリップとはちょっと違うんだけど」
「言ってることが良く分かんない」
ぼくは彼女の真剣な眼差しを見ているうちに、「事実なのかも知れない」という感情が「嘘に決まっている」という感情を飛び越えてしまったような、なんとも言えない感覚に支配されていった。
「無理もないよね。普通じゃ考えられないことだし」
「ちゃんと説明してくれる? 俺、有紀美のこと信じたいからさ」
「うん。じゃあ、こんな格好もなんだし服着てリビングに行こうか」
彼女がすっと立ち上がると、シーツは彼女の体からひらりと落ちた。整った形をした真っ白な肌がまたぼくの目の前に現れた。
すでに陽も落ちている。彼女の体を照らす光は枕元の蛍光灯くらいしかない。それでもそれは綺麗に輝きを放っていた。
ぼくたちは服を着てリビングに戻りソファに座る。その時ぼくはテーブルの角で膝をこつんと打った。
「いてっ」
DVDを観始める前に彼女が淹れてくれた紅茶がカップの底でゆらゆら揺れている。ぼくは気持を落ち着かせるように、残り少ない冷めた紅茶を口の中に流し込む。
「温かいのを淹れ直そうか?」
ぼくは首を数回横に振る。早く真相が聞きたい。
「それで? どういうことなの?」
「わたし、二月二十九日生まれだって言ったでしょ?」
「うん」
「その日に生まれるのって、千四百人から千五百人に一人の割合よね? その中の約五千人に一人がわたしのように特別な能力をさずかるの」
「それがタイムトリップってわけ?」
「うん。まあ、人間界ではそう言ってるけど……まあ、そんなイメージを持っててね」
「人間界って……」
じゃあ有紀美は人間じゃないのか? ぼくがそう言おうとしたことに気付いた彼女は慌てて口を挟む。
「あ、いや。わたしも人間よ。ただそういう能力があるってだけ」
ぼくはなんだかほっとした。どうやら有紀美は魔界の生き物なんていうことでもなさそうだ。
「千四百人に一人が二月二十九日生まれで、その内の五千人に一人がその能力をもつってことは、日本には……ええっと」
冷静に考えれば決して難しい算数ではないのだろう。でもぼくの思考能力は停止していたのだ。答えをはじき出すことはできなかった。
「日本にはわたしを含めて二十人くらいいるの」
「結構たくさんいるもんなんだね」
「それでね、タイムトリップっていっても未来に行くことはできないの」
「過去にしか行けないってこどだね? それで?」
ぼくは身を乗り出した、彼女の目の前に顔を近づける。なんだかわくわくしているぼくがいた。
「近い!」
彼女は小さな手のひらをぱっと広げ、ぼくの顔を押し戻した。
「あ、ごねん。ごめん」
「過去に戻るっていっても映画みたいに日付や時間を設定して、行きたい過去を自由に選べるわけじゃないのね。四年に一度やってくる本当の誕生日がきたその日から、四年前や八年前の誕生日に戻ることしかできないの」
「うん、うん」
「例えば二十歳になったわたしは、十六歳や十二歳の世界に戻ることができるってことね」
「へー、すげっ」
「映画なんかでは二〇二〇の私が二〇一六年に行くと、『二〇二〇のわたしは不在』になるよね?」
「うん。そりゃそうだよね」
「そこが違うところなの」
「どういう……こと?」
「二〇二〇年にいる元わたしはそのまま二十歳の姿で生きているの。二〇一六に来たわたしは十六歳の時の容姿に戻って生活することもできれば、十二歳の姿で生活することもできるの。まあ、容姿は選べるってこと」
ぼくは少し頭がこんがらがってきた。
「じゃあさ、もともと二〇一六に生きていた十六歳の有紀美はどうなるの?」
「いるわよ。浦安でパパとママと一緒に暮らしてる。でもわたしの本家は二〇〇四年の生まれだから、二〇一六年の本家は十二歳なの。あ、過去に戻ると名前も変えなきゃなんないから。因みにわたしの本家の名前はやぐちれおな矢口玲央奈っていうの」
ぼくはますます意味が分からなくなってきた。
「じゃあさ、今、目のまえにいる十六歳の有紀美の戸籍ってどうなるの?」
ぼくが尋ねると彼女の顔が一気に曇った。
「そこに気付いちゃったんだ。戸籍はないの」
「え?」
ぼくの頭にひとつの不安がよぎる。
「じゃあもしだよ、もしもぼくたちがこのまま付き合い続けて大人になって、その……あれだ……け、結婚とか……」
「結婚はできないよ。戸籍がないんだもん」
ぼくは愕然とした。ゴールのない恋愛だと知ったうえでの恋愛だったのだ。
「そ……か」
「ごめんね……たっちゃん。悲しい思いさせちゃったね」
ぼくは項垂れたまま、首を振った。まあだからといって、今すぐ別れるわけでもないし別れる必要もない。ぼくは有紀美のことが好きなんだ。少し気を取り戻したが、胸の奥になにか重いものがあるのを感じていた。
彼女がぼくを抱き寄せた。ぼくの頭に彼女の唇が触れている。そしてぼくの頬をひと粒の涙が滑る。ぼくの涙ではない。ぼくもまぶたにあふれ出しそうな熱いものを感じているが、まだこぼしてはいなかった。しかしそれも時間の問題であり、ついにあふれ出た。
いつかは別れがやってくるんだ。こんなに愛しているのに、有紀美もぼくを愛してくれているはずなのに、いつかは……。そう思うと涙が止まらなかった。くそー! なんでなんだ!
どれほどの時間こうしていただろうか。そろそろ帰らなくてはならない。明日だって、その次の日だって逢える。でもぼくは、今ここにいる彼女を離したくなかった。そんな不思議な世界に住んでいる彼女。いつ消えていなくなるかと不安でたまらなかった。
「そろそろ、帰らなきゃ」
ぼくは力なくそう言った。
「このことは誰にも言っちゃだめだよ。もししゃべっちゃったら、たっちゃんが……」
「分かってる。誰にも言わないから」
「うん」
「じゃあ帰るね」
ぼくは玄関でもう一度彼女の唇に触れ、彼女に背を向け帰ろうとした。
「あ、そうだ。たっちゃん。頭、気をつけ……」
――ガン!
「いてっ」
三枚とびらの背の高い靴箱の上のとびらが開いていたらしく、そのとびらの角で頭を打ってしまったのだ。
「たっちゃん、ごめん。わたし、今日そこでたっちゃんが頭を打つの、知ってたんだけど言うのを忘れてた」
「いってー、そんなんだ。なんだか不思議だね。じゃあ帰るね」
「うん、バイバイ」
ぼくは狐か狸にでも騙されてしまったような気分であった。
そして彼女の話を整理しながらペダルを漕いだ。