Happy Birthday
三月八日の卒業式を一週間後に控えた月曜日の夜七時、ぼくは舞浜駅まで自転車を飛ばした。
定期演奏会の練習を五時半に終え、有紀美は京葉線の舞浜駅に降りてくる。ぼくを見つけた彼女は笑顔でぼくに手を振り走って近付いてきた。
「ごめんね。待った?」
「ううん。俺も今着いたとこ。家を出ようとしたら家電に電話が掛かってきてさ。お母さんは揚げ物してて出られなくて俺が出たんだけど、不動産の営業電話だったんだよ。何度も持ち家だからいりませんって断ったんだけど、そいつしつこくてさ。無理やり電話切ってきちゃった」
「そうだったんだ」
今日は有紀美の誕生日である。厳密に言うと誕生日ではないのだけれど、二月二十九日生まれの彼女を祝うのは自動的に三月一日になってしまう。三月一日は妹の誕生日でもあるが、友達に呼ばれてどうしても行かなきゃなんないと嘘をついて出てきたのだ。
四日前にお給料をもらったので今日は奮発してイクスピアリで食事をすることにした。
料理の鉄人というテレビ番組でフレンチの鉄人役をしていたシェフのお店らしい。その情報は父から仕入れた。十八歳のぼくにとってはかなりの背伸びであるが、彼女の喜ぶ顔が見たかったのだ。
昨日の夜、父がぼくの部屋にきた。
「明日、彼女の誕生日祝いでフレンチ食べに行くんやろ。ほれ」
父は五千円札をぼくに付き出した。
「食事の足しにせい。お母さんには内緒やで」
「うん。お父さんありがとう」
ぼくは遠慮なく父の気持ちを受け取った。
「予約した成願です」
「成願様、お待ち申し上げておりました」
父ほどの歳の店員さんがぼくに敬語を使い、頭を下げる。ぼくは彼女の腰に手をやり、彼女を先に歩かせる。レディーファーストである。この技は誠に教えてもらった。
お勧めのコースを二つ注文した。前菜、スープ、メイン、デザート、コーヒー又は紅茶。サラダとパンも付く。五千円のコースである。一度の食事に五千円出すのは人生初体験だった。二人分で一万円もかかるのだけれど、なぜかその一万円がもったいないなんて思わなかった。
父から援助された五千円札もぼくの財布に入っている。しかしそれが理由ではない。有紀美の笑顔が見られるのだ。一万円なんて惜しくもなかった――浮気をしてしまった後ろめたさもあったのかも知れないけれど。
「こんな高そうなお店……大丈夫?」
彼女は周りの人に聞かれないよう小さな声でそう言った。そして心配そうにぼくの目を見た。
「大丈夫。心配してるとせっかくの料理が美味しく感じられなくなるよ」
「うん。今日はありがとう。料理、楽しみだね」
不安そうだった彼女の顔は笑顔に変わった。そんな彼女の笑顔はぼくを癒してくれた。
コースとは別会計のジュースがテーブルに置かれた。
「誕生日おめでとう。かんぱーい」
「ありがとう。たっちゃんも大学合格おめでとう。かんぱーい」
ぼくたちはグラスを合わせた。
ぼくは弁護士を目指し、中央大学法学部に合格した。弁護士を目指すというのは親に対する建前であり、本当はまだ野球に未練があった。高校通算で二十八本のホームランを打ったぼくは、もう少し頑張ればプロでもやっていけるような気がした。その世界がそんなに甘いものではないことは充分に分かっているのだけれど。
兵庫の報拓学園で四番を張った父は高校通算三十本のアーチを掛け、プロ野球の志願届けを提出したがドラフトで父の名前は呼ばれなかったらしい。
すると、さっきぼく達を席まで案内してくれた店員さんが花束を持ってぼく達のテーブルの前に立った。
「成願様、お連れの方のお誕生日おめでとうございます。当店のオーナーシェフからの気持ちでございます」
店員さんは真っ赤な薔薇の周りにたくさんのカスミ草を散りばめた花束を有紀美に渡した。
「えっ? あっ、ありがとうございます」
彼女は何度もその店員さんに頭を下げた。
隣の席に座っているおばさんが有紀美に向かって小さく拍手をしていた。
「おめでとう」
おばさんは声には出さなかったが、口の動きは間違いなくそう言っていた。
有紀美は笑顔でおばさんに頭を下げた。
お店を予約した時、電話の向こうの店員さんは、
「何かのお祝いでいらっしゃいますか? 何かのお祝いで当店をご利用いただく場合は、お店からささやかなプレゼントをさせていただいております」そう言っていた。
「あ、はい。彼女の誕生日なんです」
ぼくはそう伝えた。
「何歳のお誕生日でいらっしゃいますか?」
「十七歳です」
そんな会話をしたことを思い出した。
薔薇の花は十七本あった。「やるな、このお店」ぼくはそう思い彼女の笑顔を見つめた。その薔薇はぼくからのプレゼントではない。でも彼女はぼくに感謝しているかのように、ぼくに向かって微笑んだ。
可愛かった。浮気なんてするもんじゃない。一時の快楽の為、こんなに可愛い彼女を失うのは割に合わない。ぼくは猛反省した。「ごめん、有紀美。もう浮気なんてしないから許して下さい」ぼくは有紀美のきらきら輝く瞳を見つめながら心の中でそう呟いた。