仕切り直し
彼女――サムの彼女ではなく、ぼくの天使の方ですよ――は流した涙をティッシュで拭いていた。
泣き顔も可愛かった。ぼくはそんな天使を抱きしめた。
そしてどちらからともなく、自然に唇を合わせた。
ぼくは彼女の大きな膨らみに……とうとう触れてしまった。やわらかい。なんなんだこの感触は。
そして彼女の太ももに手を伸ばす。「こんなに細いのに、なんで『太もも』って言うんだろう」こんな状況であるにも関わらず、どうでもいいことを考えた。案外、冷静に事を進めようとしているようだ。
「ちょっと待って。心の準備はできてるんだけど……」
「あっ、ごめん。有紀美が嫌なら今じゃなくてもいいよ。有紀美がいいって言うまで待つから」
すると彼女はぼくに抱きついてきた。
「ううん。大丈夫。私のお部屋……いこ」
彼女はぼくを抱きしめながら、ぼくの耳元でそう囁いた。
そしてぼくの手を取り、立ち上がる。ぼくは彼女の後をついて行く。「ゆきのへや」部屋のとびらには手作りのような表札が掛けられていた。その表札はところどころに綺麗な貝殻が飾られている。有紀美らしい、可愛いネームプレードだった。
ところで、部屋に入って仕切り直しする時って、どうすればいいのだろう。女性経験皆無のぼくはふとそんなことを考えた。
どうしよう。部屋に入っていきなり服を脱ぎだすか? それとも彼女の服を脱がせるのが先なのか? いや、そんなことをすればさすがに彼女も興ざめするだろう。
どうしよう。とりあえずもう一度抱きしめてからキスをして……。いや、待て。焦るな――俺。
そうだ。まず、また映画の感想とかを言い合って普通に会話をしながら自然とそういう雰囲気に持って行こう。ん? 彼女は「心の準備はできている」と言ったよな。普通の会話を始めてしまうと「尻込みしている」そんな風に思われないだろうか。
どうする? 俺、しっかりしろ。一瞬の間にいろんなことを考えた。もう時間がない。とびらが開いてしまう。
――開いた。
彼女の部屋のとびらはすうっと開いた。ぼくの決断を待ってはくれなかったのだ。
ぼくは彼女に手を引かれながら部屋に入った。
――どうしよう。
すると彼女は振り向き、ぼくの唇を引きよせた。そのままベッドに倒れ込む。しばらくして、彼女の上半身が露わになった。つんと上を向いた彼女のそれは、白く綺麗な形をしていた。綺麗な形なのかどうかなんて、母の胸しか見たことのないぼくが判断できるものではないだろう。でもぼくは綺麗だと思った。
彼女の右胸の下に小さなほくろがあるのを見つけた。神秘的なその体はぼくの目に焼き付いた。
――そしてぼくたちは結ばれた。
小さな出窓に掛けられた可愛らしいピンクのカーテンが目に入る。その出窓のところにディズニーシーで自撮りしたぼくと彼女の写真が飾られていた。
彼女は恥ずかしそうにシーツにくるまっている。
「この写真、飾ってくれたんだね」
ぼくがそう言うと彼女はひょこりと顔を半分だけだした。
「うん。二人ともいい顔してるでしょ? ベストショットだよね」
「そうだね。この写真って有紀美のスマホで撮ったんだよね? 俺にも後で送ってね」
「うん」
有紀美はそう言って、またシーツの中に隠れた。
「ばあ」
ぼくは彼女のシーツをはがして驚かせた。また彼女の胸が露わになる。
「もう、恥ずかしいでしょ?」
彼女は頬を膨らませながらシーツを奪い返そうとする。
ぼくもシーツを奪い返されないように力を入れる。そしてぼくはシーツを握った手を緩めた。彼女はベッドの上でくるんと回りミイラのようにシーツが体に巻き付いた。
ぼくはミイラさんに抱きつく。
「有紀美、愛してるよ」
「私も。たっちゃんのこと、愛してる」
彼女の顔を包んでいたシーツ。おそらく彼女の目があるだろうと思われる場所が少しずつ濡れてきた。
ぼくはこのまま彼女を離したくなかった。
出窓に掛けられたカーテンの隙間から西日が細い光を放ち、有紀美のシーツを照らしだした。真っ白なシーツがオレンジ色に染まる。差し込んだ細い光線のところだけ、埃がふわふわ宙を泳いでいた。
「そういえばさあ、有紀美って誕生日いつ?」
「二月の二十九日」
「へえそうなんだ……えっ? 四年に一度のあの日?」
「うん。その日。だから私、まだ四歳なの」
西日も消え去り、窓の外に立ち並ぶ高層マンションの窓は徐々に灯りの数が増えていく。そろそろ彼女のマンションを出ることにした。
基本、ぼくの瞼は一重である。しかし瞼に少し力を入れると二重にできる。そんな特技は主に証明写真を撮る時などに発揮する――もちろん長時間はもたない。
初めて彼女とひとつになれた直後ということもあり、瞼に力を入れ、少しきりっとした表情を頑張って作ってみた。きりっ!!
玄関へ向かうぼくの後ろを彼女が付いてきている。そしてぼくは二重のまま彼女のほうへ振り向く。きりっ!!
玄関でぼくは彼女をやさしく抱きしめ、もう一度キスをした。キスの間、彼女は目を閉じていた。ぼくが瞼を緩めると同時に一重に戻る――瞼が疲れるのでちょっと休憩。
そして再度瞼に力を込めたあと、唇を放した。そしていつもより少しだけ低い声をだす。
「じゃあまた。愛してるよ」
我ながら「決まった」と思った。
「わたしも、愛してる」
彼女のその言葉に、ついにやけそうになる。でもぼくは頑張った。きりっ!!
ぼくはすっと彼女に背中を向け、玄関のドアを開けようと……。
――ガン。
「いてっ」
玄関にある三段どびらの背の高い靴箱。その一番上のとびらが開いていたのだ。そのとびらの角で頭を打った。ひたいを触ったぼくの指には血が付いていた。もちろん瞼は一重に戻っている。
「たっちゃん、大丈夫?」
彼女は笑いながら心配してくれる振りをしていた。普段見たことのないぼくのきりっとした顔とのギャップが可笑しかったのだろう。
格好つけなきゃよかった。ぼくは苦笑いで応えるしかなかった。
「うん。大丈夫。じゃあ……ね」
そして僕は彼女のマンションを後にした。