星をみるひと
「今日の……地方は……吹雪で……ご注意ください」
酷いノイズ交じりのラジオが、今日の天気を告げる。
それ以上は全く聞き取れず、僕は諦めてイヤホンを外した。明日はどうなるかと外の景色を見るが、真っ暗でほとんど何も見えなかった。こんなところでは星も見えない。
誰かがロビーのピアノを弾いている。なかなかの腕前だ。どこかで聞いたことのあるクラシックの曲だが、曲名も作者も思い出せなかった。
しばらく耳を傾けていると、このペンションのオーナーの声が響き渡った。切羽詰まった様子で、自分の娘の名前を呼んでいる。
「一体どうされたんです?」
甲高い声の女性が聞く。
「ええ、娘がどこにもいないんです……。」
娘、と言っても、20代後半だ。なかなかの美人で、ペンションの看板娘でもあった。
「ワインセラーに向かうのを見ましたよ。」
さっきとは別の、少し鼻にかかった声の女性が言った。
「ワインセラーに?しかし鍵はまだここに……。いや、とにかく行ってみます。ありがとうございます。」
オーナーがガチャガチャとワインセラーのドアノブをひねる。しかしやはりドアには鍵がかかっており、開かなかった。オーナーは一度戻り、鍵を持ってくると、慌てた様子で開錠した。思ったより重厚な音が聞こえた。
ゆっくりとドアを開ける。暗いワインセラーに、ロビーの明かりが少しずつ流れ入る。そこにあった何かを見て、オーナーは悲鳴を上げた。宿泊客が何事かと集まる。僕もそれと目が合った。誰かがヒッと息を呑んだ。
そこにあったのは、オーナーの娘の死体だった。
うつぶせに倒れた死体の背中には、深々と斧が刺さっていた。手斧と呼ばれるもので、片手で持てるサイズだ。ペンションで使う薪を割るためのものだろう。それが今は、一人の女性の命を奪っていた。
「あ、ああ……」
娘の名を呼びながら、オーナーがヨロヨロと近づく。誰が見ても他殺だ。僕も含め、他の客は一歩も動けずにいた。
「は、早く警察を!」
呪縛から解き放たれたかのように、皆が一斉に動き出そうとする。携帯電話で連絡を取ろうとする者、一刻も早くその場から逃げようとする者。
「待ってください!」
その中の一人が声を上げた。男子高校生だろうか。後ろには彼のガールフレンドらしき人物が、怯えた様子で隠れていた。男子の方は、どこかで見たことがある気がする。
「みなさん、その場から動かないでください!」
そうだ、思い出した。最近噂の高校生探偵だ。名前は忘れたが、確か苗字か名前に"一"という漢字が入っていた。とにかく、彼の一声でまた全員が動きを止める。
「オーナー、少しそこで止まってください。娘さんの近くに何かが書いてあります。」
探偵が娘の左手付近で屈み込む。僕からは何が書いてあるかは見えなかったが、書いてある内容を見た探偵はニヤリと笑った、ような気がした。
「みなさん、これを見てください。『犯人はこの中にいる』、そう書いてあります」
そんな、それはまるで……
「ダイイングメッセージ……?」
それからの探偵の指示は早かった。とにかく3人一組で行動すること。絶対に一人にならないこと。部屋のドアは開けておくこと。そして、探偵の権限で今から全員の聴取を行うこと。
現場保全の名のもと、娘の死体はワインセラーに残された。わが娘を思うオーナーの反対は押し切られた。再びワインセラーは闇に包まれた。
聴取の時間は思ったほど長くはなかった。一通りの聴取が終わると、探偵はガールフレンドとともにペンション内を捜査しているらしかった。
ちなみに、電話線が切られていたため、警察への連絡は出来なかった。携帯電話も通じなかった。ラジオですらあの様子だから当然だろう。つまり、明日吹雪が収まるのを期待するしか選択肢がなくなった。
疲れていたのだろうか。少しウトウトしていた僕は、ドアの鍵を弄る音で目が覚めた。じっと息を潜める。ゴトリという音が聞こえた。誰かの息遣いを感じる。フッとその誰かが笑ったような気がした。しばらく待ったが、その後何も動きはなかった。いつの間にか握りしめていた手は、汗でじっとりと濡れていた。
探偵が全員をワインセラーに集めたのは、それからすぐのことだった。
「一体、何を始めるつもりなんや?」
宿泊客の一人、関西弁の男が探偵に聞く。
「オーナーの娘さんを殺した犯人が分かったんですよ。」
探偵の自信満々な言葉を聞き、全員がざわつく。
「この事件の犯人……、それはあなただ。」
探偵が指をつきつける。
指の先にいたのは……
「僕……?」
「ええ、この事件の犯人はあなたです。」
「そ、そんな!僕じゃない!大体この部屋は密室だったじゃないか!そうでしょう、オーナー!?」
「あ、ああ。鍵はずっとバックヤードにあった。それは間違いない。」
オーナーは、本当にこいつが犯人なのかという不安と、こいつが犯人だったのかという怒りが混ざった様子で答えた。
「ええ、確かに鍵はバックヤードにずっとありました。しかし、このドアの鍵を開ける方法は、実はそれだけではなかったんですよ。」
「な、なんだって!?」
「これを見てください。」
探偵がらせん状の何かを、皆に見えるように取り出した。
「それは……、ワインのコルク抜き?」
「はい。このドアは、このコルク抜きで開くんですよ。しかし、そんなことを知らずに試そうとする人はいません。つまり、犯人はその事実を知っている人物ということになる。」
「待ってくれ!そんなのオーナーだって知ってるんじゃないのか!」
「いいえ、先代のオーナーの日記を読みました。この事実を知っているのは、ペンションの"正統な跡継ぎ"のみ。オーナー、あなたは"正統な後継ぎ"ではないはずだ。」
「……ええ、私は婿養子ですから。」
「そう、オーナーにはもう一人、跡継ぎがいた。先代にとっては正統だが、世間はそう見てくれない跡継ぎがね。今頃は大学生になっているそうですよ。」
「そ、それが僕だっていうのか……。そんな証拠がどこにある!」
「ワインに詳しかったのがその証拠です。」
「ふざけるな!ワインなんか、詳しい人はいっぱいいるだろう! 」
「ええ、普通はそうでしょうね。しかし、あなたは少し違う。このワインセラーにあるワインについて、詳し過ぎたんですよ。このワインセラーには、世に出ていないオリジナルワインもあります。それを知っていることが、他ならぬ証拠です。」
僕は探偵の推理を黙って聞いていた。
「それともう一つ。あなたはオーナーの奥さんの死体を見たときにこう言った。『警察を呼べ』と。それはおかしい。普通なら『救急車を呼べ』のはずだ。それなのにそんなことを言ったのはなぜか。簡単なことだ。あなたは奥さんが死んでいるのを知っていた。だから救急車を呼んでも仕方ないと、そういうわけだったんですよ。」
がっくりとうなだれ、膝から崩れ落ちる。
こうして悲劇の幕は閉じた。
閉じた悲劇の幕を押し上げるように、僕は隠れていた箱の蓋を開けて外に出た。ワインセラーにはもはや誰もいない。
名探偵くん、君の推理は大はずれだ。
あの青年の行動は正しい。背中に斧が刺さっているなんて異常だ。
まだどこかに犯人がいるかもしれない。だから警察を呼ばせたんだ。
オーナーの娘の死体に近寄り、書かれた文字を見る。なんだ。彼女は正確に僕を告発していたんじゃないか。箱の中の僕をずっと見ながら、まさかこんなものを残していたとは。
―――はんにん はこの中にいる
床に残された文字を足で消す。死体から斧を引き抜くと、僕は悲劇の第二幕を開くために外に出た。