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金色の草原

作者: やまもも

ある土曜の朝です。いつものように山からうまれたての朝陽がゆっくりと窓にたどりつき、部屋のカーテンを金色に染めはじめました。階下の台所から、コトコトと朝ごはんの用意をする物音がしています。


森田さんは目を覚ますと、布団の中でひとつ大きな伸びをしました。今は五月。この小さな町がいっぱいの柔らかな緑や金の色に覆われて静かに華やぐ、美しい季節です。


やがて、階段を伝って、紅茶とマーマレードつきトーストの、暖かい金色の香りのもやが漂ってきました。森田さんは、そのもやを揺らしながら階段を降りて、ぼんやりと顔を洗い、服を着ます。


この古い家の飴色の木材と朝陽の中で、その動きはまるで、蜜色の光の降る海の底を、ゆらゆらと泳ぐように見えました。彼が子供だったときからずっと、晴れた朝にはいつも出現していた、静かな永遠へとつながっているような、その海の風景。


「おはよう。」

「うん、おはよう。」


父さんと母さんは、いつも早起きです。


このうちでは、夫婦が紅茶とマーマレード、目玉焼きとサラダの朝食を片付けはじめるころ、息子の森田さんがごろごろと自分の珈琲豆を挽き、濃い珈琲を淹れはじめるので、朝の香りは順番に切り替わる法則になっています。彼に言わせると、紅茶とマーマレードで目を覚まし、甘くて苦い珈琲の残り香が、頭のてっぺんからふわんと立ちのぼってから靴紐を結ぶのでないと。きちんと一日が始まらないような気がするんだそうですよ。




さて、そんな風に、今、玄関でキュッキュッと黒いドタ靴の紐を結んでいる森田さんは、高校の英語の先生です。三年前に、都会の大学を卒業して、母校であるこの町の小さな高校に戻ってきました。少し気弱で、ぼんやりとした風貌で、彼の授業のときはつい眠り込んでしまうという生徒は、実はかなりいます。けれども「森ちゃん」と、まるでともだちのように皆に呼ばれて、毎日教室で真面目に英語を教えておりました。


この町は、神社のある、まるく小高い丘を背にいただき、その三方をまたぐるりと山に囲まれた、小さな盆地になっています。しかし決して寂しいところという訳ではなく、山ひとつ向こうの、古くからの大きな街のベッドタウンとして栄え、日溜まりの住宅街がこじんまりとまとまったような印象を持っています。


何かに護られているようなその平和な町並みは、住民に愛され、独特のゆったりとした空気を醸し出していました。


学生たちも、そんな風景の中では、ひどく世をすねてみたりしゃかりきに勉強ばかりしてみたりすることもなかったのでしょうか。彼らは、街の真ん中を流れる、この春の小川のようにさらさらとさざめく若い緑金の時間を過ごしていました。その風景は、森田さんが高校生だった頃とまったく変わっていません。


今日も森田さんは頭のてっぺんからたちのぼるほのかな珈琲の香を感じながら、いつものようにうららかな朝の住宅街を横切って学校へと向かっていきます。こんなとき、彼はふと今自分が高校生で、今まで過ぎた何年かの時間がみな今朝見た夢であったかのような気がするのです。それは、身体の芯がほんのりと温かくなるような、切なくなるような、不思議な幸福感でした。…少し甘い、五月の花と緑の匂いの流れる道を行くと、セーラー服や学生服が、時折自転車ですらりと追い越していきます。


「先生おはようございまーす。」


今、声だけ残していった後姿は、森田さんが顧問をしている器楽部の生徒です。(あのおさげ頭は…谷口か。)


「お、おう、おはよおう。」


先生はワンテンポ遅れて、あわてて挨拶を返しました。


谷口ひろみは受け持ちのクラスの生徒ではありませんでしたが、器楽部で部長も務めているチェロ奏者で、やはり高校のときからコントラバスを弾いていた森田さんとは結構仲良しです。彼女は、森田さんの所属している町の素人楽団の練習にも、週末や夕方、部員を引き連れてよく遊びにやってきます。騒がしい生徒ではありませんでしたが、いい加減なことを言ったりすると、眉をきゅっと引き締めた独特の表情でまともにくってかかるようなところもありました。




さて、高校も五月になると、新入生や新しいクラスの授業でも次第にぎごちなさがとれ、ようやくスムーズに流れだしたような状況を迎えます。この日も穏やかに午前中は流れてゆきました。土曜日は、それでもどこかしら少しそわそわとした気配をひそめてはいるのですけどね。


そして、授業が終わるとその雰囲気はやおらあからさまな最高潮に達します。あっちこっちの教室や屋上、校庭の前の花壇のところにまで、わいわいと騒ぐ生徒たちがあふれ、お弁当やお茶を広げたり、菓子パンやアイスを買いに行ったり、楽しい午後の相談をしたりして、何しろ俄然賑やかです。まるで教室にぎゅうぎゅうに詰め込まれていたたくさんの物語が一気にあふれだしてきたようです。森田さんと先生方みんなは、そんな生徒たちの豹変ぶりを土曜日のびんっくり箱と呼んで笑っています。


でも、それは生徒たちばかりではなくて、実は部活動に熱心な先生方だって同じなのです。


土曜のお昼ごろになると、いきなり少年のように目をきらきらさせはじめる野球部の小川先生や、ひょろりと背の高い天文部の佐々木先生も、普段そんなに仲良しという訳ではないのに、ぴかぴかの青空を確かめ合っては、いやに生き生きと楽しそうになって、二人で無駄話をして大笑いしていたりします。


森田さんがお弁当を食べてから音楽室へ行くと、器楽部の連中は、もうそれぞれの楽器を出して、好き勝手に練習を始めていました。いつもながら、ものすごい無秩序な騒音が耳をつつみます。それでも部員たちは慣れたもので、平然としてひたすら自分のメロディを追ったり、互いにどなり声でおしゃべりをしたりしています。窓の外のグラウンドでも、そろそろ野球部やテニス部、サッカー部といった運動部の連中が、トレーニングの準備を始めています。廊下や教室ではまだおしゃべりやどたどた走る音が残ってはいますが、それぞれの部活動が始まると、また別の秩序がうまれ、次第に学校は、授業の時とは全く別の表情を見せてきます。


さらさらとやわらかい緑を揺らせる靴箱の前のしだれ桜が、下校ラッシュの喧騒を見終えてひといきつくころ、その、もうひとつの午後が始まりました。グラウンドで、体育館で、そしてもちろん音楽室でも。


部活の始まりのミーティング、今日の練習予定、注意事項。森田さんは顧問なので教室の前の方のピアノの椅子に控えていますが、実際に物事を動かすのはすべて生徒たちです。それはこの学校の伝統で、すべての部は分科委員会と体育委員会に統括され、生徒会と関わりながらの委員会を開き、二年生の「幹部」が中心となって予算申請や活動内容報告など、殆ど先生抜きの自治活動を行っているのです。特にこの器楽部では、技術的な面でも、熱心なOBやOG(音大に進んでプロの音楽家になった卒業生も結構いるのです。)が教えにきます。ですから、顧問とはいっても何をするわけではありません。合宿のときや、課外活動の許可をとるときなんかに必要な、事務的な顧問です。特にいつもいなければならない、ということもありません。


でも、森田さんはこの音楽室が好きでした。


ここは、自分が高校生だったとき、やはり器楽部に所属して、毎日のように練習したり友達としゃべったり喧嘩をしたりしていたところなのです。時代は移り、学生たちの気質も自分たちの頃のものとはずいぶん違うなあ、と、少し切ないような気持ちになることもあるのですが、やはり変わらない青春の日々を「現在」として生きている者たちと一緒にいるのは、こころよいものでした。昔演奏したことのある曲を、その同じ音楽室で、今の生徒たちが合奏したときなど、その鳴り渡る音楽の中に、あのころの自分や皆があのころの光ごと存在していてその演奏に加わっているような気がして、思わず腕が見えない楽器を操るように動いてしまうのです。


あのころ、憑かれたようになって毎日弾いて磨いていたコントラバス。今も町の小さな楽団で、夕方や週末に仲間と集まって練習はしていますが、あの情熱に比べれば、少し貧しいもののような気がします。


さて、どうやら今日のメニューはまず「個人練」ではじまるようです。ミーティングとあいさつを終えて、部員たちは割り振られた練習場所へ、ばらばらと散ってゆきました。


「先生、森ちゃん。ちょっと見て。」

ちょっとぼんやりしていた森田さんに、ぼろぼろに黄ばんだ髪きれの束を突き出してきたのは谷口ひろみです。

「ねえ先生、私のチェロとと先生のコントラバスで、ここのパート合わせてみようよ。楽器倉庫の奥で、こんな古い楽譜見つけたんだ。ほら、全部手書きで、なんか風変わりなんだけど、かわいい感じの音符でしょ。」

「どれどれ…うん、そんなに難しくないみたいだな。楽器を出してこよう。」


少しの音出し、音合わせ。そしてやがて、低くて太い響き。古い地層からお腹に優しく響いてくるようなコントラバスと、その上でゆったりと歩く中低音部、澄んだ瞳の恐竜のようにのびやかな、谷口ひろみのチェロがすべりだすように流れ出しました。


その、どこか古めかしい音楽が耳に届くと、一瞬、部員たちはぽかんとして練習の手を止めました。凄まじい程の騒々しい音の乱舞の中で、その穏やかなメロディは、不思議にしいんと身体の内部へと沁みこむひとすじの流れだったのです。


ひとり、またひとり、と自分の音をやめ、お互いに顔を見合わせました。陽気な騒音に満ちていた音楽室に、懐かしい、鈍い琥珀色の陽だまりのような、ひとつのハーモニーが静かに広がり、みちわたってゆきます。


音楽室の窓の外では、老桜が明るい若葉を金の光にひるがえし、その向こうの遠いグラウンドの喚声が、途切れ途切れに伝わってきます。けれども、はるかに遠い、巨大な、、懐かしいものの気配が、それよりも濃厚にここに繋がってきているような、時空のねじれてゆく不思議な感覚が、そこには確かにうまれていました。


森田さんも、演奏しながら、頭の芯が痺れてゆくその感覚を味わっていました。頭の先から足の先まで、その音楽の見えない輝きがぴんと貫きわたり、その力の先が、どこか巨きな空間に繋がっているような、そんな感じです。譜面を読み、弦を操る自分の動きが、その音楽を通して、音楽のやってくる源泉からの力に逆に操られていくようです。まるでメロディとリズムに、操り人形が踊るようにして後からついて演奏している自分を遠くから見つめているような、そんなおかしな感じなのです。側頭部がじんと痺れ、どこか懐かしい思い出の風景の中に沈み込んでゆく。


…甘やかな気持ちでした。音楽室とだぶってゆくその風景のイメージは、白く輝く海と空、いえ、あるいはそれは金色の草原なのでしょうか…その空を泳ぐようにすべってゆくのです…。わずかな時間が永遠のようにしんとして続きます。そして、…



曲は少し中途半端な感じで終わりました。最後のワンフレーズの響きがすうっと消えてゆくと、やがて圧倒的な静けさだけが残りました。


「…なんだ、それ。不思議な曲だねえ。」


その濃い光の空気の中で、誰からともなく、森田さんと谷口ひろみのまわりにゆらゆらと皆が集まってきます。まだあたりに漂う違和感を最初に口にしたには、いつも大人しいホルンの関でした。


「なんかおれ、周りが粉っぽくて、白っぽくて、膜がかかってるみたいに見えるよ。」

「そういえば、私も…。」

「うん。光が変にゆっくり動くのがみえるみたいだ。」


なるほど、室内の日の光は、重たそうにゆらゆらと揺れ、木洩れ日は木の床にゆったりとメロディを流し続けているように見えました。今出した声も別のところから聞こえてくるようになんだかおかしな具合に響き、グラウンドから聞こえる運動部のひとたちの気配も、ひどく遠い世の出来事のようです。外の日の光と、部屋の中の空気の色や濃度が微妙に違っていて、この部屋だけカプセルの中に閉じ込められているようなのです。


皆は少し黙ってしまいました。


…しばらく漂っていたその仄かな違和感は、やがてゆっくりと消えてゆきます。…いつもの教室です。


「なんか、おれ。今すごい幸せな感じだったよ。」

ほうっとひとつため息をついてから、森田さんが口を開きました。


部屋に満ちていたその違和感は、遠くからやってきたその音楽の残り香であり、にぶく暖かい光、古くて懐かしい琥珀の粉のようなイメージでした。ーーー「ジュラ紀(真昼)」譜面の端に鉛筆で小さく書きつけてあります。いつもの調子を取り戻して、俄然にぎやかになった部員たちが、件の譜面を争うように覗き込んでそのメモを発見したのです。


「これ、きっと曲のタイトルなんだよ。」

「うん。なんかぴったりだな。」


その土曜日は、何となく、文化祭の翌日の様な空気、不思議に寂しく閑かな、一種の新しさに似た表情を残したまま終わりました。譜面はそのまま谷口が持って帰ったようです。グラウンドの向こうに、遥かに広がる黄昏が、美しい薔薇色や珊瑚色のまだらに彩られているのを眺めながら、森田さんはゆっくりと家路を辿りました。その夕空を光を受けて歩く自分が、地面に薄く長い影を曳いているのを見ていると、午後演奏したあのメロディが、あの巨大な古い真昼のイメージが、そのまま胸の中に疼いていることを、ふと感じました。そしてそれは甘く切ないだけではなく、誰かが何かを訴えているような、細い一筋の不協和音を含んでいるものでもあったのです。


翌日の日曜日は町の楽団の練習日でした。

その日は、夏のコンサートの曲選びのための話し合いがありました。それは、毎年町の夏祭りのフィナーレを飾って、広場の野外ステージで行われるもので、この小さな楽団にとっては年に一度の大イベントなのです。


大きな曲はもう決まっていて、練習を始めていたのですが、まだアンコールの曲が決まっていません。いつもはあまり発言しない森田さんでしたが、今回、あの曲だけはどうしてもきちんとした形で演奏してみたいと思い、思い切って皆に提案してみました。

「作曲者とか、全然わかんないんですけど…パートも欠けてるのが多くて、おそらく編曲しなおさなきゃいけないんですけど、まあそれは指揮者のドンさんに手伝ってもらえれば、僕ができるとこはやりますから…とにかく一度曲を聴いてみてください。」


そのいきさつを説明すると、皆はちょっと騒然とした感じになりました。

「何だか茫洋とした話だなあ。」

「でも誰も知らないようなのがひとつあってもおもしろいんじゃないか。」

「著作権とかどうなるんだあ。」

賛否両論で、ひとしきりわあわあと話し合った後、その日は楽団長が最後にこう言って終わりました。

「いろいろ意見がありましたが、とにかく提案のあった曲は、それぞれの提案者が、今度の練習のときまでに譜面とテープを持ってきて、それを皆で検討してから決定するということにしましょう。」


次の週、早速森田さんは楽器倉庫でごそごそと譜面の残りを捜しだし、暇を見つけては薄くなってしまったところや欠けた所を書き直したり敗れたのを貼り合わせたりの作業を始めました。谷口をはじめ、器楽部の生徒たちも、交代でやってきては手伝ってくれます。あの土曜日、譜面を持って帰った谷口は、自宅のパソコンで音を作ってCDに焼いて持ってきました。


「一応、あの曲の風変わりな感じは出てるんだけど、どうしても、最初先生と私で音楽室で演奏した時の、あのすごい圧倒的な空気の感じにはならないの。こんな機械の音じゃだめみたい。私、あのとき、何か強烈な力みたいなもの感じたんだ。先生もそうでしょ。音が、手や眼を勝手に動かして、自分が楽器ごと踊りだしていくような、泣きたいみたいに懐かしい光がわあって押し寄せてくるみたいな、あの感じ…。ねえ先生、絶対これ、先生んとこの夏のコンサートでやってよ!あの野外音楽堂で、夜、あれをどーんと演奏したら、絶対もっとすごい何かが起こりそうな気がする。宇宙人が来るとかさ。ねえ、考えただけでぞくぞくしちゃうよね!」

「宇宙人はちょっとテレビの見すぎってやつだろう。まったく近頃の高校生は発想がイージーだな。」

「先生、そんな昭和の小学生的発想は谷口くらいですよ。」

「テレビの見過ぎって死語~!」


みんなで他愛なく笑いながらも、森田さんは、谷口のその感覚は、あながちばかにできないリアリティがあるような気がしていました。それに、ひどく怒った時や、わくわくすることを見つけて夢中になっているときの、谷口のいきいきとした目の輝きは、すぐにそれとわかります。それは、見ていて気持ちの良い表情であるというだけではなく、心に直接伝わってきてしまうエネルギーを持っていて、周りにいると、こっちまでわくわくしてきてしまう、強くてシンプルな輝きだったのです。


森田さんは、久しぶりになんだかぴりっと張り切った気持ちになってきました。あの不思議な曲を、楽団の皆と、夏の野外音楽堂で思いっきり演奏したら…。本当に、それだけで素晴らしい何かが起こるような気がしてきました。


譜面を丁寧に探すと、かなりの部分が揃っていることがわかりました。終わりの部分がずうっと繰り返しになっていて奇妙な構造になっていましたが、これはドンさんに編曲を頼めば大丈夫です。短い曲でしたし、アンコールで演奏するには丁度いいようにも思われます。森田さんは、にわかに忙しそうになりました。ドンさんと連絡を取り合ったり、遅くまでで灯火を点けて、譜面を整えたり。谷口や、部員たち皆の頼みであるとか、もちろんそれが理由でしたが、ぼんやりの森田さんを駆り立てたものは、それだけではありませんでした。


狭い楽器倉庫で、ぼろぼろになった譜面を、一枚、また一枚と見つけていったとき、そのクセのある音符の書き方に、何か、あの土曜日の帰り道に感じたものとおなじ、ひとすじ湧き上がってくる水脈にような過剰な和音を聴いたような気がしたのです。誰かの息遣い、過剰な想い、訴えてくるような力です。その昔、誰かが自分の思いを精一杯こめて作り上げた曲。その静かで激しい情熱が、永い眠りの後、時を経て再び発見されたとき、一気に吹き上げてきたのかもしれません。とても美しい、不思議な力として。


それはどうしても、今のこの時代に、きちんと演奏してあげなければならない、そんな風に思わせる力だったのです。


楽団の次の練習のときには、譜面はきっちりと揃い、テープも皆に聞かせることができました。谷口がシンセサイザーでつくってくれたテープです。そのメロディは、確かにあの同じメロディでしたが、やはり、あの、空間がねじ曲がっていくような強い力はない模造品で、森田さんは、レンジで温めるコンビニ冷凍食品の味のようだな、と思いました。


それでも、楽団の皆には、結構好評だったのです。

そんなに難しいパートもなく、長さもアレンジできて、ちょうどいいだろうということになり、とんとんとアンコール曲は決定しました。


さあ、これから暑い夏にかけてひたすら練習するばかりです。


さわやかな五月が過ぎ、梅雨の雨を型どおりに過ぎてやってきたその夏は、実に暑い夏になりました。毎日激しい陽射しが容赦なく照り付け、冷房装置のないところでは、いくら窓を開け放っても、時悪露熱い空気がちょっっぴりうごいてくるくらいです。



楽団の練習は、あちこちの音楽室を借りて行っているのですが、場所によっては、設備の悪いところも結構ありました。森田さんの高校の音楽室も時々使わせてもらっていましたが、ここにも冷房装置はありません。団員たちは首から手拭いをぶらさげて、汗を拭いては「暑いなあ、うんざりだなあ。」とぼやきながら練習しました。


森田さんもみんなも、こんな風に連日の暑さにぶつぶつ文句を言ったり、頭がぼんやりして棒付アイスばかり食べたりしていましたが、それでも都合をつけてはよく練習にやってきました。週末ごとには全員が集まっての合奏を繰り返しました。もちろんアンコール曲にきまったあの曲もです。


初めて皆で合奏した時、指揮者のドンさが驚くほど、その曲は初めから完成されたまとまりのようなものを感じさせました。いえ、驚いたのはむしろ演奏していた楽団員たちの方だったのです。そのとき、自分の身体が、ハーモニーに、逆に操られている奇妙な力、その感覚を、全員が共有していました。その初めての合奏の後、紅潮した頬をして、全員が一体となった感覚を、顔を見合わせて皆で確認したのです。


そのときは、それについて多くは語られませんでした。ただ、その日の夕方、やっとひとすじの涼しい風が吹いてくる頃、ひとり、またひとりと森田さんのところにやってきては、それぞれのもどかしい言葉で、ぽつぽつと音楽の喜びについて言葉を残していったのです。


ーーーその夜、森田さんは部屋の窓の外に、ぽっかりと柔らかい色の月が出ているのを見て、ほんのりとした気持ちで缶ビールを開けました。



そして、練習を重ねるたびに、ひとつの生き物が勝手に成長していくようにして、その曲の成熟ぶりは深まっていったのです。その演奏は、演奏者みなにとって素晴らしい体験でした。ですから、何かというと皆その曲をやりたがったのですが、結局、なぜかそう何回も練習はしませんでした。ドンさんが、他のできていない曲の方を優先するからなのですが、おかしなもので、やらないよと言われると、なんとなくほっとしたような雰囲気にもなりました。皆、その音楽に軽々しく触れるのが、ちょっと恐ろしいような気がしていたのです。もちろん森田さんも同じで、その強烈な感覚を愛し、同時に恐れました。自分が自分でなくなって、魂が音楽にさらわれっていってしまうような恐怖と同時に存在する、恍惚と懐かしさの、広大で輝かしい感覚。


…けれど、恐れよりも憧れの方が、少し強かったようです。森田さんは、一人でも、憑かれたようにその曲を幾度も幾度もさらいました。その曲の、金色の力が、身体の中に沁みこんでいくほどに。


そして森田さんは、めっきりと腕をあげたのです。


周囲が驚くほどの上達ぶりでした。


そんなに迫力があるとか上手とか、テクニックがあるとかいう、ぴりぴりした言葉があてはまるというわけではなかったけれど、彼と楽器の醸し出す音は深く広く、すべてを包み込むような優しさを帯びて、中高音部にわたるチェロやヴィオラ、ヴァイオリンのしなやかな旋律のダンスをしっかりと支えました。


*****


「あんたんとこの先生、最近随分腕をあげたねえ。」

ある暑い八月の夕方、窓辺でアイスをなめながら団員の練習ぶりを眺めていた谷口に、顔見知りのチェロ弾きが話しかけてきました。


谷口は、自分たちの、器楽部の夏休み練習のあと、そのまま森田さんたちの練習に付き合って音楽室に残っていたのです。このチェロ弾きも同じ高校の器楽部OBでした。何しろ小さな町なので、団員たちにはOB、OGが多い、狭い世界なのです。彼らは、現役の器楽部員が、部の練習の後、こうして遊んでいると、よくジュースやアイスをおごってくれる頼もしい存在でもあります。

「あ、やっぱり先輩もそう思いますか。なんか先生、最近、なんていうか、凄味があるんですよね。別にどこが変わったっていうとそんなことなくて、相変わらずのんびり優しい感じではあるんだけど…楽器を持ってると、それが怖いくらいひどいぼやああああ~っとした表情になって、それで、前よりずっと深あああい音出すんですよ。すごいんだけど、だけど何となく心配になるような感じじゃありませんか。」


チェロ弾きは二人して、教室の隅で一心に練習している森田さんを眺めました。


彼は唇をぎゅっと引き結んで、まっすぐに譜面を見つめ、ごうごうと大きな楽器を鳴らしています。額には汗がにじんでいます。


実際、森田さんは最近、特にあのジュラ紀の曲に対して、少し熱意が過ぎていました。彼は、演奏するたびに深まってゆく曲の表情、上達してゆくごとに深まってゆく曲のイメージに取り憑かれていたのです。いえ、正確には、あの曲の持つ夢の魔力に。


練習を繰り返すたびに、少しずつ、最初に現れた古めかしい金色の草原のイメージはクリアになってゆきました。その懐かしさ、輝かしさの甘やかな感覚は、森田さんを虜にする力を持っていました。のっそりと、巨大な恐竜が歩いてきそうな、ゆるやかに起伏する草原。はろばろと突き抜けた空。そして、大昔に滅びてしまったものたちを、優しく包み込む風景。それは、世界全体に琥珀の粉のかかったような、鈍く懐かしい金色のトーンでした。


譜面を調え楽器を抱え、姿勢を正して弦を構える。目を閉じ、ひとつ深く息をついてからゆっくりと目を開け、音符を見つめる。そして自分の身体の動きから旋律が生まれ、きらきらとすべりだすようにして現れはじめる、その瞬間。その度に森田さんは、大切な、忘れていた記憶の彼方を探り当てたような気持ちになるのです。幼いときの、断片的な数々のシーンの記憶、そしてそれよりも遥か以前、生まれる前の記憶。


この頃にはもう、自分が自分でなかったときの記憶、というような奇妙な感覚が、森田さんの胸の中には定着してきていたのです。上達すればするほど、森田さんを取り込む、その夢の力は強烈になってゆくようでした。


そして、その暑い夏も半ばを過ぎ、とうとう八月の終わりの夏祭りがやってきました。


宿題のできていない学生も、夏バテ気味のお父さんも、町の皆が楽しみにしている、年に一度の盛大なお祭りです。商店街は競っておみこしを出し、神社の周りには賑やかに屋台が並びます。夕方から夜には、提灯の列が明るく灯って、浴衣姿の娘らや綿菓子をねだる子供らを、夢のような陰影で彩ります。森田さんの楽団のコンサートは、例年のようにその三日間の祭の最終日の夜、町の中心の野外音楽堂で行われました。


長い、暑い夏じゅう、練習を繰り返していた少し難しい曲も、緊張した団員の結束の力で見事に乗り切りました。夏の終わりの茜色の夕空に響きわたる素晴らしい演奏です。コンサートは、喜んだ観客たちの盛んな拍手に促されて、いよいよアンコールに入ります。短い、軽やかなワルツをひとつ、ふたつ。そして、最後に森田さんのあの曲を演奏して終わる予定になっていました。


あのメロディが静かに流れ出すと、いつものように不思議な金色のイメージが漂い始めました。観客も皆、微かにその気配を感じ、少し驚いたような顔で、しんとして聴き入っています。そして今夜の演奏は、やはり特別に素晴らしかったのです。金色の光のイメージはうねるように力強い渦を巻き、たちまち森田さんをすっぽりと覆い尽くしていったのです。




ああ、音の中で夢を見ているんだな。森田さんはそう思いました。相変わらず、半ば暗記した譜面の音符を追い、弦を操っている自分の目や腕、身体の感覚はありました。しかしそれは、眠って夢を見て、眠っている自分の身体をどこかに感じているような、奇妙に淡く遠い確信であり、しかもたいていの夢がそうであるように、時間の感覚も大分歪んでいるようでした。


ワンフレーズの短い時間が永遠のように繰り返されていたり、スローモーションになったり、一瞬で、宇宙全体が稲妻のように演奏されていたりするような感覚を、同時にそして幾度も味わいました。自分の身体が巨大に膨れ上がっていったり、蟻のように小さく縮んでいったりするような、目くるめく感覚です。


それでいて、確かに今は、遠い自分の身体が、ひとつのきっちりとしたリズムとメロディを、その譜面を、皆とのハーモニーとして演奏しているのも感じていました。みんなの音が多数の一つになって森田さんの存在を支えていました。


ふうっと気が遠のいて、魂が半分、身体のある現実の世界からさまよい出てしまったようです。


たくさんの風景が、シャボン玉のようにきれいに枠どられて目の前を流れ、通り過ぎてゆきました。そして、淡い金色に光るその中の一つが、不意に森田さんを包みます。


頭の芯が、一瞬ぱっと白く光りました。


…高校生の森田さんは、放課後の音楽室で、やはりコントラバスを弾いていました。土曜の午後の、金雀枝のような黄金色の光が、ほろほろと窓から降り注いでいます。


ああ、あのときも、僕はひとりでむきになって練習していたのだ。あれは何の曲だったろうか。文化祭で初めてソロを演ることになったものだから、緊張して、毎日部活のないときでもひとりでごうごうとさらっていた。ああ、そうだ。ここんとこがどうしてもうまくいかなくて…どうしてだろう。こんなに何べんもさらっているのに…ワンツースリー、もぅ一回、もう少しで感覚がつかめる。


…窓の外ではやはりあの老いた見事な枝垂れ桜が、ゆらゆらと木洩れ日をこぼし、その向こうのグラウンドからは、運動部の練習する声が聞こえていました。…それから、不意に廊下をかけてくる音がしました。あれは、森田さんを呼びに来たのです。そう、誰だったか、よく知っているはずの…。


そのとき、彼のコントラバスは低く、優しく響き、躓いていた箇所を、ふわりとクリアしました。そうだ、この感じだ!


頭がくらっとして、そのシャボン玉世界が、中にいる自分ごと飛び去っていくのを、眼の片隅にとらえたような気がしました。どうやら次のシャボン玉に飛び込んだようです。


森田さんは、だだっぴろい講堂のような大学の大教室の隅っこに座っています。教授が、遠くの教壇からマイクで何やらぶつぶつと呟いて、授業をしているようです。小さなその禿げ頭ともぐもぐ動く口は、もぐらの妖怪のようにも見えました。いったい何をしゃべっているのだ。さっぱりわからなくて、森田さんはいつもただ眠くて仕方がなかったのです。-妖怪のしゃべる言葉は、オレにゃわからないんだよーーーだけど、周りの友人や、居眠りをしている他の学生たちも皆、今後ろから全体を眺めてみると、結局全員が同じ穴のムジナで、何だかとても不気味な、妖怪大集会のようにも思えました。皆のがらんどうのクラゲのような眼、ぬめぬめとした皮膚のような教室の壁、ナマコのような質感の、息苦しい空気。


こんなところにいたら、自分まで妖怪の仲間になってしまう。脱出しなければ!


そのとき、隣席の、顔見知りの友人の顔をした妖怪が、くにゃりと口をまげて、何か話しかけてきました。意味の分からないその言葉が森田さんの腕にぶつかると、そこから身体がぬめぬめと妖怪化してきます。


うわああああーーー


森田さんは声にならない悲鳴を上げ、出口を探して、がらんとした空気の中を夢中で走り出しました。そうだった、僕はあそこから逃げてこの町に戻ってきたのだった…。僕だって、もう半分は妖怪だったのだから。ああ、あのメロディが、繰り返し繰り返し、鳴り続けている。


また飛び去ってゆく感覚と、新たなシャボン玉の到来。めまぐるしい光と闇の流れとエネルギーの渦巻きの中、頭の芯が一点さってきらめいて、それが一気に眼前に広がり、もうなめらかな世界が現れています。


…涼しい風の吹きはじめた八月の終わりの夜です。天の川が、うっすらと天空を横切って流れ、砂粒のように星がちりばめられて、見渡す限り群青に澄み渡る、見事な夜空が広がっています。夏のコンサートは終わりました。素晴らしい演奏だったと、多くの人たちが口々に声をかけてきます。ほてった頬に夜風は快く、楽団の仲間の表情も満足げに輝いています。やあ、今夜の曲はやっぱりすごかったなあ。やっと終わったのかあ……、ああ、ドンさんが話しかけてきた。ーーービールでも一杯飲んでいこうぜ。あの曲は、しかし最高だったなあ!。ーーーあの曲…あの曲って、あれ?今演奏してる最中の、この曲じゃないか?僕は今、ほら、ここを弾いているんだよ…それにドンさん、口ひげなんてはやしてたっけ…。


目の前の風景が、やはりシャボン玉のようにふわりと現実感を離れ、まるごと流れ去ってゆきます。


次々にシャボン玉世界は現れ、流れ去ってゆきます。一体シャボン玉じゃない現実には、どうやって帰ればいいのでしょうか。曲が終われば、いつものように元に戻ると思っていたのですが、どうやら曲の持つ時間自体が、ここでは変質して、自在に伸び縮みしているようなのです。


あの繰り返しのフレーズは、もともと永遠におわらないものとしてつくられていたのでしょうか。


リフレイン、そしてリフレイン。




森田さんは、少し怖いような気がしてきました。

…大体、「げんじつ」なんて、そもそも、あったのでしょうか。


あれはもともとシャボン玉のひとつにすぎない世界だったのではないでしょうか。僕は今まで、ずうっとこうやって、いろんなシャボン玉の夢を渡り歩いてきただけなのかもしれない。何だかそんな気がしてきました。


それはしかし、既に恐怖感ではなく、不思議に軽やかで、寧ろほっとする感覚だったのです。そうだ、僕はもともとここにいたのだ。音楽の中、一瞬にしか見つけられない、ほんとうの永遠の場所。僕は音楽そのものの中に入り込んでしまっただけなのだ。いつもいつも、うっとり憧れて、もどかしい思いで探り続けていた、あの、光り輝く懐かしい永遠の側に。


…そして、それに気付いたとき、突然目の前に、あの巨大な懐かしい真昼のイメージが現れたのです。




*** *** *** 



森田さんは、自分が、くっきりとした輪郭と輝きをもった広い広い草原、遥かに高いつよい光の中に、ぽかんと突っ立っているのを発見しました。胸の中は軽く、少し切なく、けれど落ち着いた気持ちでした。そして、やはりここでは確かにあの真昼のメロディが風景いっぱいになりつづけているのです。


草のなびき方から空気の微粒子の流れ、太陽の輝きかたまで、まるでその世界全体が、すべてそのメロディに合わせて、生きて、ふるふるとふるえながら脈を打っているようでした。平和で幸福なその風景は、どのシャボン玉にもない、突き抜けた広さと、淡いけれどつよい意志を秘めた光、あざやかなリアリティを持って森田さんを迎えたのです。


感じられるすべての色や光、風の感触や草の香りまでもが、とても確かで、しかも音楽そのもののように軽やかで、変幻自在にいきいきと流れていました。森田さんは、しばらくうっとりとその風景の中で透き通って輝く風を浴び、そのメロディに全身をひたして、ゆらゆらと佇んでおりました。


そうやって、どれくらいの時間がたったのでしょうか。そこでは、時間の感覚が意味を成さないようです。繰り返されるフレーズの中で、永遠に続く真昼の中で、永遠と一瞬が、クラインの壺のように、ひとつのものとしてありました。揺れ動く風景を眺め、ゆったりと律動する土地の温かさを呼吸して、森田さんは、自分が何十年もそうやって揺らめいていたようにも思いました。


一瞬、ふと目を上げると、くらい金色に光る草原の向こうから、人影がひとつ、ゆっくりと歩いてきます。すうっと伸びた背格好や、軽やかな歩きぶりで、同じ歳くらいの若者かと思ったのですが、近くに来ると、その表情は、何だか老人のもののようにも思われました。その人は、まっすぐ森田さんを見つめ、そしてにっこりと微笑みました。それは、とても親しげな笑顔でした。まわりの光がゆらりと揺れて、つぶやくようなささやき声が伝わってきます。



ーーーあなたを、待っていたのです。


そのとき、突然沸き起こった既視感と、たまらない懐かしさの感覚が、森田さんを強く捉えました。このシーンを、この科白を、確かにいつか見て、知っていたような気がしました。あんまり思いがけない、その感情の本流で、びっくりしてあやうく涙がこぼれそうになりました。


ーーー僕も、この風景が、どこかずうっと心に引っかかっていました。それは、あなたのことだったんだと、今、わかったような気がします。あ、あの、僕は…


言葉はもどかしくて、この気持ちをどう言って伝えればいいのか分からず、森田さんはどもりました。けれどその人は、すっかりわかったように、静かに微笑んだような表情のまま答えました。


ーーーそう、私はいわばこの世界そのものですから。


森田さんは、このとき自分が、もうすっかり涙ぐんでしまっているのに気が付きました。とてもつよい光と色の、このシンプルな風景の中で、何だか例えようもなく懐かしい、古い巨きなものの中に、自分が還ってゆくような気持ちでした。自分のかたちが、この輝かしい空の粒子に、溶けていってしまいそうでした。実際、まるで半分溶けかかっているように、手足がじいんと痺れています。


ーーーここは…どこなんでしょう。僕は、…僕も、あの、何だかここが故郷のような気がして…


ーーー私は、あの楽譜を書いたものです。ここは、そう、この曲の中とでもいいましょうか…。もう遥か昔のことのようですが、私はあなたと同じ、あの高校にいて、将来は作曲家になろうなんて考えていた高校生でした。作曲のために楽器は主にピアノをやっていましたが、本当はやはりあなたのように、コントラバスが好きでしてね。ひとりで完成された和音ができてしまうものより、ひとりがひとつの音だけ、そのさまざまな個性と質感を持つ音がたくさん集まって、みんなでひとつの、複合されたハーモニーをつくりあげてゆく、あの合奏のときの方が私は好きでした。たとえ自分がひとつのリズムしか持てなくても、それが、あらゆる他のメロディと響きあい、曲全体が、ひとつの全体性をもつ世界を成し遂げている、ふわりと魂が飛翔するようなあの不思議なときが、大好きだったんです。顔も知らない昔々の異国の作曲家や編曲者の、複合された、抽象的な、あるひとつの思いのようなものが、そのとき私にはわかりました。それは、あらゆるのっぺりとした、断ち切られた時空を超えて、実際に演奏している楽団のみんなや、一生懸命をそれを聴いてくれている人たちと、確かに共有しているものでもありました。…そして、私自身も、私自身であるような、ある風景を込めて曲にしたいといつか思うようになりました。


ーーー強い願いでした。


ーーー私は、時折ふっときれぎれに浮かんでくる、私の大切な風景の断片を感じ取ると、すぐに音符や言葉のメモをとるようになりました。おかしな奴だといって、友人たちには随分笑われましたよ。


その人は、一瞬、懐かしそうな、優しい遠い瞳を、その時空のどこかに向けました。森田さんはその視線の先に、優しい色がふわっと浮かび上がるのを見ました。


ーーーこの世界は、曲が流れ続けている間だけ、ほどけて開かれるところです。でも、それは、一瞬に感じることができる永遠、という場所でしょう?そう思いませんか。(森田さんは、いつもあの音楽の幸福感と同時にある、一種の矛盾に満ちたもどかしさについて思いだし、大きく頷きました。)私は、その世界の扉を開くキイを譜面の上に埋め込むようなつもりで、全身全霊を込めて、いわば私自身をここに書き記したのです。


ーーーこの風景は、私が生まれて育ってくる間、何かを得たり、学んだり、それによって何かを忘れたり、あきらめたりする度に、私の中のどこかに押し込められていったもの。そしてまた、そのむこう、それ以前の何か、滅びてしまったものたちすべてに開かれてゆく場所なのです。私の造り上げたところであると同時に、私が私のかたちを得る以前から、ずうっとあったはずのところ……。私自身であると同時に、すべての私でないものに開かれていく場所…


私は、作曲家にはなれませんでした。いろいろな事情がありましてね。高校を卒業する日、譜面は楽器倉庫の奥深く隠しておきました。そのとき、私はおそらく、いつか若い魂によって、もうひとつの私が、もう一度新たに発見されることを願って、音楽を封印したのですね。…それから、私はもう二度と作曲はしませんでした。ある小さな事務所に勤めて、そこで優しい妻を得て、人並みに、一生をさまざまな出来事とともに過ごして、平和に、まずまずの幸福と不幸を味わい、そして老いて死にました。


ーーー!


ーーーそんな顔をしないでください。そう、わたしはもう死んだ者なんです。けれどもそのとき、ここで生きている自分に気が付いたのです。長いこと忘れていた、晴れ晴れと軽やかな気持ちでした。どうして今まで気付かなかったのだろうか、とさえ思いました。死ぬということは、こういうことだったんだと。…いえ、意識の深いところでは、ずうっと知っていたのです。だから、私はここからは、人生の何処へでも繋がってゆけるのです。あなたも見たでしょう。世界は、あのたくさんのシャボン玉のようなものです。…子供のとき、明け方見た夢は、ここでした。だから、そのシャボン玉に飛び込むと、ここは夢になって、その時の現実の、二段ベッドにの上で、私は母に起こされて、窓の外の燦々と降る朝の光を浴びているということになるのです。小学校の午後の授業のとき、ぼんやりと窓を眺めていたときも、私はここの風景を見ていたのですし、妻と出会ったときの気持ちの、あのあたたかなエネルギーも、確かにここの風景の、この光と律動から無限にやってくるものでした。---ねえ、いつどこに生きていても、ここにはいられるんですよ。私はやっとそのことに気が付きました。いくつもいくつも、数限りなく漂ってくる世界の泡を、あなた自身のものとして、さっきご覧になったはずです。あなたが今「現実」で演奏している曲の中がこの場所だけれど、あなたがいた世界だって、ここではひとつのシャボン玉です。どっちが現実でどっちが夢かなんてことじゃなくてね。


…どちらも本当なんですよ。私が死んでしまったことも本当だけれど、生きていたこともいつだって本当であるようにね。


ーーー何だかこれじゃなるで禅問答だな!


その人は、ただ何だか嬉しいんだというように笑いました。その顔は老人というよりも、小さな子供のように見えました。


ーーーいつどの瞬間も、かけがえのないたったひとつのもので、しかも永遠に存在しているのです。素敵な音楽のように。


ーーーさあ、けれどもあなたは、今あまり長いことここにいると、もう元にもどれなくなってしまうかもしれません。私はあなたを必要としていました。誰かに演奏され、感じられていなければ、ここはこことして成り立たないのです。今、ここはこんなに豊かで美しい。これはあなたのおかげです。…曲の終わる場所を教えましょう。ついてきてください。


森田さんは、ずっとここにいても構わないんだけどな、と思いました。が、そのひとの歩いて行く先、そのずうっと向こうに、今朝、家の玄関で靴紐を結んでいるいつもの自分のかたちを感じ、何だか黙ってふらふらとついていったのです。


金色に光る草は穏やかになびき、その人の影は、行く手を示す矢印となって、暖かく揺らぎます。


ゆるやかに起伏する草地をいくつか越えた後、その人は立ち止まって、こちらを振り返りました。指差すのを見ると、古い小さな井戸があります。目の前にあるのに遠くに見えるような、とても目立たないひっそりとした石造りの井戸でした。



ーーーここです。


その井戸の中を覗き込むと、目の奥がしんしんと痛むような濃い闇が広がっていました。ちょっとひやっとした気持ちになった森田さんはしり込みしました。


ーーーえっ!この中ですか。もしかして飛び込むんですか。


ーーーもちろんそうですよ。


その人の目が笑いました。


ーーー怖いですか?…大丈夫。あの虚無の闇に見えるものは、実は一瞬通り過ぎるだけの一枚のヴェールにすぎません。偽物ってわけじゃないんですけど…まあ、本当の闇の映像のようなものです。でも怖いと思う心の隙間からは、ちょっと不愉快な思いをするかもしれませんね。念のため、護符のようなものを渡しておきましょうか。


その人は、ゆるやかに踊るようなしぐさで空に両腕を伸ばしました。不思議なことに、手はそのまま遥かに高いはずの空に確かに届き、その透明な光の中にひたされたように見えました。


森田さんはそれを見ていたら一瞬くらっとして、目の前の空間も頭の中もくしゃくしゃになったような気がして、どうなっているのかわからなくなってしまったのです。はっとした時には、その人の両手は森田さんに向かって差し出されていました。手の中には、空のかけらのような、小さな、いびつなお椀のかたちをしたものが、透き通って輝いていました。まるで手の中にもう一つの別の空間、小さなシャボン玉が閉じ込められているようでした。


ーーーあなたがいつどんなところにいても、ここの空のかけらを持っておけば、この場所を失うことはありません。これは、この場所の標本です。いつでもここと繋がる力をもっています。願ったときにはすぐにこの旋律の中に戻ってこられるでしょう。


そおかけらをそっと受け取ると、小さな生き物のような柔らかなぬくもりのようでもあり、ひいやりと手のひらに沁みてゆくようでもある快いエネルギーを感じました。手のひらから、身体の奥まで沁みとおり、ほのかだけれど確かな波動が森田さんを包みます。…けれどもやっぱり、その井戸からは冷ややかに暗いものの気配がたちのぼってきていて、森田さんはためらいました。そして、ーーー僕は、例えぼくのかたちが溶けてしまってあなたのような、いやあなたになってしまってもいいから、ここにいる方がいい、と言おうかと、その人の顔を見たのです。するとそこには、戸惑っているような、怒っているような、どこか喜んでいるような、よくわからない表情が浮かべられていました。世界全体が俄かに黙り込んでしまったようです。


そして、少しの時間の後、彼はいきなり森田さんの背を押したのです。


気が付くと、森田さんは井戸の中の暗がりを果てしなく落ちてゆきながら、上方の、まるく切り取られた明るい窓を眺めていました。彼の優しい顔のシルエットが、その光の淵にぽつんと見えたような気がしました。




****** ****** ******



その闇を通り抜けたときのことは、実はよく覚えていないのです。それは、永い時間であるようにも思われました。果てしなく落ちてゆくうちに、一体、落ちているのか上っているのかも次第にわからなくなってきて、ただぐるぐると廻っているようでもありました。けれどもよく考えてみると、それは一瞬のブラックアウトであったようにも思えるのです。それは、後からいくら考えてもよく思い出せない、記憶に靄がかかたところになっていて、考えようとすると、ただもやりとした、少し冷やっこくて暗い質感を持った空気のような感覚が、胸の中に広がるのです。それは、何とも静かで恐ろしい、虚無への恐怖感であったようにも思えます。世界が、もともと始まらなかったのではないか、という疑いのリアリティ。あの曲のメロディも、自分が誰で、どうやって生きてきたかすらもすべて思い出すこともできず、その存在の確信ももてず、何もかもが頼りない夢であり、ないものだったと言い聞かされているようでした。


そして最後に、強烈なその観念に取り込まれた森田さんは、耐えきれず、思わず叫びだしていたのです。


そのとき、自分の中に、あの空のかけらが浮かび上がってきました。ふわり、としたやわらかなぬくもり。ふと暖かく響いてくる音と光の気配が現れました。懐かしい、音と光。なにかのかたち。そして、小さくなった赤ん坊のような自分が、そこへ飛び込んでゆくのを見たような気がしました。


そしてーーー。




****** ****** ******




曲が終わりました。ドンさんの編曲で、さらりとした素敵なフィニッシュに仕上がっています。


…一瞬の深い静けさが訪れました。野外音楽堂の広場の上には、流れ星がきらきらと降りこぼれてきそうなものすごい星空が広がっています。


次の瞬間、いきなり嵐のような轟音が耳を包みました。町中の人たちが、今夜の演奏を聴きに来てきれていたのです。歓声と拍手。森田さんが慌ててあたりを見回すと、すぐ近くには紅潮した顔をしたいつもの楽団の仲間がいて、観客と一緒になって手をたたいたり足を踏み鳴らしたり叫んだりして陽気に大騒ぎしています。森田さんは、自分が今まで自分のパートを一つも外さずきちんと演奏し続けていたことに、やっと気が付きました。身体中が、激しい緊張と労働のあとの感覚でいっぱいで、胸がどきどきしています。


夏の祭りの最後の夜、このコンサートはどうやら大成功をおさめたようです。町の人々も楽団の仲間たちも、興奮して抱き合ったり笑ったり小突きあったりして、大変な喜びようです。



あれは、森田さんだけのただの夢だったのでしょうか。彼に尋ねたら、多分きっとそうだろうねと言って、笑ってみせることでしょう。けれども、くすんだ古めかしい金色に輝く果てしない草原から、あの人が、この素晴らしい夜の中でみんなと一緒に笑っている自分の姿を、ひとつのシャボン玉のようにして眺めているのを、森田さんは遥かなどこかに確かに感じていたのです。メロディやリズムの記憶のように、つかまえることのできない儚いもののようでいて確かなものである存在を信じられるように。


この夜の祭りの中には、みんながいました。

谷口をはじめ、高校の器楽部の生徒たちも、森田さんが授業を担当しているクラスの生徒たちも、森田さんの記憶の中に住む人たちも、そして金色の草原に住む作曲家のあのひとも…。


その夜はみんな遅くまで、麦酒や葡萄酒、シャンパンやなんかをたくさん飲んで、わいわいしゃべって笑っていました。森田さんも調子に乗って大分飲み過ぎてしまいました。どうも、何が現実で、どこからが夢だったのか、すっかりどうでもよくなってしまったようです。どうやって家にたどり着いてベッドにもぐりこんだのか、さっぱり記憶が定まりません。どにかくその夜は、夢も見ないでぐっすり眠ったのです。



****** ****** ******



翌朝、森田さんが布団の中で目をさますと、部屋にあふれるまぶしい夏の光の中に、さらりとひとすじの秋風が流れていました。


「もう明日から、新学期なんだな。」


少し疲労感の残ったような、心地よい気怠さと爽やかさの混じったような気持ちで、森田さんは身体を大きく伸ばしてひとつ欠伸をしました。


今日も暑くなりそうです。朝の金色の光に、先生の古い珈琲沸かしからたちのぼる香りがふわふわとまとわりついて、部屋いっぱいに広がります。その光は、いつものように始まった森田さんの一日を、懐かしい、柔らかな草原からのまなざしでくるみこむように笑ったような気がしました。





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