赤き血と穿つ鉄
著者:エピリン
「おっす」
「あっ、ヒロキじゃん。どうしたのよ、今日はこんなに早く」
「えっ? あー……今日はセンコーに呼ばれてよ。朝来なかったら留年確定って言われて仕方なくだ」
「フフッ、まっヒロキが自分から起きてくるなんてこと、あるわけないわね」
「お、おい! そんな言い方はないだろ。俺だって、たまには早起きすることだってある」
「あーら、そうだったかしら? せっかくならその日を教えてほしいわ」
「…………う、うるせえ! そんな細かいことよりも、あれはどうなったんだ?」
「あれ? ……あーウリエちゃんのことね。ってヒロキ、あれ呼ばわりはないでしょ」
「じゃあ、なんって呼べばいいんだよ」
「ウリエちゃんって言えばいいじゃない。いやならあの子とかでもいいけど」
「どっちもこっ恥ずかしくて言えるか! それに、俺はあんなガキの名前なんて覚えている暇はねぇんだよ」
「へぇーそう。ヒロキは胸のおっきな女の子が好きだからねー」
「そんなこといってねぇだろ! ただ、あんなただのチビには興味がないってだけだ」
「そのわりには、ユキコちゃんの事好きみたいじゃない? あの子は胸大きいからねー」
「だからそういうんじゃねーって!」
「じゃあなに? 背が低い所が好きなの? 嫌よ嫌よも好きの内って?」
「だから違うって言ってるだろ! さっさとガッコーに行くぞ」
「はいはい、わかりましたよ」
**********
「それで、なんでこいつが居るんだよ」
「アンさんが食べていいって言ったから」
「で、そのアンはどこ行った? あいつがいないと俺の晩飯がなくなるんだが」
「今日の晩御飯はケーキって聞いた。冷蔵庫に入っているって」
「それが晩飯なのかよ……って、なんで出さないんだ?」
「あの箱怖い。冷たくて、光る」
「そりゃ冷蔵庫なんだから当たり前だろ……」
「絶対悪い魔物が入っている。だから行かない」
「はいはい……これだからガキは」
「私はガキじゃない。私はウリエ」
「分かってますよーっと。そんなことより、アンはどこ行ってるんだ? ……お、これか」
「アンさんはアルバイトだって。七時には帰ってくるって言ってた」
「七時か……あと二時間くらいはあるな」
「その半分はいらないの? なら私食べる」
「ちげーって、これはアンの分だ。早く食うにしてもあいつの分は残してやらねーとだろ?」
「……わかった。我慢する」
「ったく、お守なんて簡便してくれよ……ほれ、お前の分だ」
「む、そっちの方が大きい」
「変んねーよ。それに、居候なんだから文句言うな」
「あんたも食事だけ食べに来ている。私と変わらない」
「全然ちげーよ! 俺は、あれだよ、カーチャンの作った物をおそそわけしてるからトーゼンの権利つーの? お前とは立場が違うわけ」
「でも、あんたが何かをしてあげているわけじゃない」
「…………」
「じゃあ、これは私が貰うから」
「って待て! 交換ならともかく、両方は駄目だ!」
「でも両方に口付けちゃった」
「っこぉの……こいつわざと一口ずつ食いやがった!」
「これ、両方私のだから」
「もういい、その食った部分はやるから他は渡せ」
「その包丁で何する気なの?」
「襲ったりはしねーよ。ただ斬るだけだ」
「私を?」
「だから襲ったりしないって言ったろ! ケーキの方だよ、ケーキの」
「なんだ。でも、ケーキは渡したくない」
「俺の方も晩飯が掛ってるんだよ。大人しく渡せって」
「やだ」
「渡せよオラア」
「痛い。掴まないでよ」
「お前こそ俺の頬をつねってるんじゃねーよ。そっちから離すのが筋ってもんだろ」
「こらっ! ヒロキなにやってんのよ!」
「げ、アン……なにって、ケーキ分けてただけだよ」
「その喧嘩が?」
「喧嘩って、こいつが先に……」
「アンさん、私この男に襲われました」
「おっ、おい、そんな根も葉もない事──」
「ヒーローキー! ウリエちゃんになんってことを、ヒロキは今日晩御飯抜き!」
「げげ! それは許してくれ! そんなことされたら明後日にシャイニングチョコパンが買えなくなる!」
「なら、おばさんに借りればいいじゃない? いつまでも意地張ってないでさ」
「いまさらカーチャンに謝れっかよ」
「はぁ……ならやることがあるでしょ?」
「家事手伝いか?」
「違うわよ、ウリエちゃんに謝りなさいよ。土下座して」
「ど、どげざー? こんなガキにか」
「アンさん、私この男に襲われました」
「だからその嘘は止めろ! わかった、謝ればいいんだろ、ごめんなさい! ……これでいいか?」
「土下座」
「くっ……これで、どうだ!」
「許すわ。じゃあ、このケーキも……」
「待て! それじゃ本末転倒じゃねぇか!」
「あーそのケーキはウリエちゃんの為に買ってきてあげた奴だから、ヒロキの分はちゃんといまから作るわよ」
「な、なんだ……そうだったのか。それはそうと、バイト上がりで大丈夫か?」
「ヒロキに心配されるまでもないって」
「俺も多少は作れるから手伝うぞ?」
「へぇー良い心がけじゃない。でも、また炭料理だされるのはなぁ……」
「あれはこのガキ……ウ、ウリエが邪魔したからだ」
「どっちでもいいけど、今日は私が作るわ。おばさんに渡すのに変なのをもっていけないからね」
「おい、カーチャンに会いに行くつもりか?」
「ええ、ちゃんと元気でやってますよーって言ってくるだけ。あとは立ち話を少しだけかな」
「あんまガッコーでの事話すなよ?」
「大丈夫よ、ユキコちゃんのことは黙っておいてあげるから」
「そっちじゃねーよ! ……皮肉ってくるってことは分かってるよな?」
「はいはい、ちゃんとあの件は黙っておいてあげるから」
「おう……サンキュ」
*******
秋の夕暮れ、僅かに肌寒くなり、冬の到来を思わせる頃の出来事である。
一人の少年は、裏路地を睨んでいた。そこには、赤い髪の少女を囲う、数人の男達が居た。
なにも暴力を振るおうとしている様には見えないが、少女が嫌がっているのは明白だった。未だ幼い少女に、そんなことをする男達を、少年は許すことができなかった。
結局、少年は素手で裏路地に飛び込み、一人の男に怪我を負わせた時点で袋叩きにあった。
なにせ、彼は少年だったのだ。子供だったのだ。相手は彼よりも一回りも二回りも年上、そんな者達に勝てるはずなかったのだ。
偶然通りがかった幼馴染のおかげで、死に至ることや重症にならずには済んだが、少年は教師よりお灸を据えられた。父親からも出ていけと言われた。
反抗期の真っ最中だった少年は家を飛び出し、言葉の通りに家へと戻ることはなかった。そこで独立をしたい、そう感じていた少年だったが、それは叶わぬ夢だった。
結局、一時の宿を求め、向かった先は幼馴染の家だった。彼女は両親が他界し、叔父に引き取られるという所で、この家に残りたいという自分の意思を示した。
幸いながら、叔父は彼女の我儘を聞き入れ、自分の家へ呼び寄せることは諦めた。さらに、月に一度は仕送りまで行った。
それを申し訳ないと思ってか、彼女はバイトを始め、後々は渡してもらった分の代金を返すつもりでいる。良くも悪くも非現実的で、ある意味現実に生きている人間だった。
そんな彼女が赤い髪の少女を預かっているのも、全てはそんな境遇が関係していたのだろう。親も分からない、どこから来たのかもわからない。そんな天涯孤独の少女と、嘗て喪服に身を包み、落涙をした遠き日の自分の姿を、重ねていたのだろう。
だが、ある時全てが変わった。ただの日常、苦痛でしかないはずのそれが幸福だったと思えるくらいの、圧倒的絶望が現れたのだから。
*******
黒い龍が現れ、それまでの日常は根底から覆された。
ビルなどは無残に破壊され、町は焦土と化していく。それをテレビで見ていた二人は、危機感を覚えるよりも先に、混乱に陥っていた。
こんなことが現実に起きるはずがない、これは夢に違いない。自分の目の前で起きていないからこそ言える言葉。しかし、それが夢などではないことは、言うまでもなく明らかだった。
首都の壊滅、混迷を極める中、学校も休校となっていた。町を歩く人影も今はない。
その日、黒い飛行体が軍勢で現れたのだ。鴉のように夕焼けの空を黒く染め上げ、赤色の炎弾を放っていく。
唐突な襲来を予測してか、拳銃を持った警察などが郊外に居たのだが、その程度で抵抗できるとは誰一人として思っていなかった。
家の中にいればどうにかなる。警告が来ていないのだからどうにかなる。そんな、不確定な情報に縋り、皆は息を潜めて隠れていた。結果から言えば、全て無駄だったのだが。
燃える住居、木霊する阿鼻叫喚、砕けた石材から染み出る鮮血。それらは日常など一片すら感じせない、非日常そのものだった。
恐れを抱きながらも、少年は自身の家を目指す。こんな状況で頑固になっても仕方がない、そう感じての行動だったのだが、全てが手遅れだった。
家、だったそれは焦土と化し、既に何も残ってはいなかった。屍すら見つけることができない、というのは一切の希望にならず、少年から生の気力を全て削ぎ取った。
項垂れる少年は、接近してくる黒い飛行体に気付きもせず、無気力に立ちつくしていた。
刹那、赤い剣閃が煌めき、黒の飛行体は粉微塵に消え去った。その呻きにはさすがの少年も驚きを隠せず、表を上げた。
なんと、そこには赤い髪の少女が居たのだ。それも、ただ生意気なだけの少女ではなく、目つきの鋭い少女が。
少女は何も答えず、羽織っていた黒いインバネスコートを少年に手渡し、手に持っていた脇差を構えた。
状況が理解できない少年は固まり、自身を守ってくれているはずの少女すら疑惑の目で見ていた。だが、それが分からないわけでもない。なぜならば、少女は人の身に在って、あのような怪物と対峙しているのだから。
黒い飛行体は次第に集まってくる。空を染め上げる黒の何割か、という程度だが、ただ一人の少女が命綱となっている今現在では、それですら絶望に至るには十二分だった。
狂気に取り付かれ、絶叫した少年は腰が抜けたまま這いずり、その場から逃げだそうとしていた。
至極当然な行動、だが迂闊でしかなかった。彼がこうして空気を吸えているのも、少女のおかげだったと気付いていなかったのだ。
刹那、黒い飛行体の一匹が鋭いフォルムへと変わり、弓から放たれた矢のように少年へと突き刺さった。
途轍もない激痛に、少年は叫ぶことすらできず、その場に倒れた。
なんども瞬き、赤い髪の少女が近づいてくる光景が、少年の瞳には映っていた。だが、それだけ。声はもとより、音すら彼には届いていなかった。
静寂の中、少年は死を覚悟していた。痛く、そして何もできない。もう諦め、受け入れるしかなかったのだ。
しかし、波一つない静かな湖面に滴が落ちたかのような、僅かな波紋があった。それは音ではなく、視覚情報として少年の前に現れた。
次第にその波紋が広がっていくと、かなり小さいながらも音となっていった。
その音は、少年に世界の終わりを望むように言っていた。実際、日本語だったのか、英語だったのかもわからない。だが、少年にとって、そう言った解釈をできる音だったことは確定的だった。
波紋の広がり、その瞬きの間には、赤い髪の少女が戦っている姿が映っている。客観的にとらえれば、彼女が少年を守ろうとしてくれている様にも見える。
少年はそう思えなかった。自分が救われたい、それにあの少女が味方という証明もない。
ある意味心地よく、ある意味魅力的なその音の方が、少年の心を引き付けたのだ。
次の瞬間、世界はペンキを塗りたくられたように真っ白となり、終わった。
********
「(……夢?)」
「ヒロキ?」
「(嫌な夢だ。……最悪な夢だ)」
「ヒロキ!」
「……うるさいな、起きてるよ」
「ならさっさと起きなさいよ。遅刻するわよ?」
「……ウリエはどこに行った?」
「…………」
「おい」
「誰?」
「だからウリエだよ。あの赤いの」
「…………そんな子は居ないよ」
「いや、居ただろ。俺のケーキがかなり食われて──」
「ヒロキは夢の話をしているの?」
「いや……そんなはず……」
「早く行かないと先生に怒られちゃうよ」
「あ、ああ……そうだな」
「(本当に、夢だったのだろうか? もし夢だとしたら、どこから夢だったんだろうか)」
「早く!」
「そんな急かすなよ」
「……人生は短いんだから、楽しまないと」
アンは、そう言うと笑った。それは楽しいとか、嬉しいとかの笑いではなく、もっと違ったた、まるで子供が大人を騙した時のような笑みだった。
完