争奪
著者:ツンヤン
紅葉が見頃を迎えた日、彼女は小さな公園から見える景色を眺めていた。
そこから見える景色は街を一望できてしまうほどで、そのためか公園には子供はまったくおらず、人っ子一人もいない。
彼女は今も死んでしまった男の子の事を思っている。
彼氏・彼女の関係ではなかったものの、お互いにそれに近い感情を持っていた。だか、彼はこの世を去ってしまったのである。
「大夢君……」
大夢はスポーツよりも勉強のほうが出来るタイプである。
大夢は彼女を「紅葉ちゃん」と最初は恥ずかしがって呼んでいたが、彼の死ぬ間際には自然に呼んでいた。
彼の死は突然ではなく、必然の死だった。
一家心中。
警察の実況見分によると、子供達には睡眠薬を服用させ意識のないまま車を海に向かって発進させた。と、記述されていた。
父親と母親は自ら手錠を施し、服には大量の錘まで入れていたとも記述されている。どうしてこういう事態になったのか、事は簡単なことで大夢の父親が経営していた会社が倒産したのである。
負債を抱えての倒産なので、負債は当たり前のように彼の父親と降り注いだ。
金額にして三億も負債を抱え込んでいたので、どうするにも首が回らない状態。そこで大人の二人が考えたのが一家心中。
そんな馬鹿な考えに大夢と弟は巻き込まれ、短い生涯を終わらせた。
紅葉の心には大夢の存在が八割も占めていた。だけど彼女は『告白』をしていなかった。と、言えば言い方がおかしい。『告白できなかった』のである。
「どうしてよ!」
どうして大人はここまで自分勝手なのよ!?
涙を止め処なく溢れてくる。涙と一緒で苛立ちも一緒に溢れ出してくる。
なんで?
どうして?
彼の家を襲ったのだろうか。
彼がこの世から居なくなってから、紅葉はずっと考えては涙を流した。
紅葉の家族も心配して精神カウンセリングなどにも連れて行っては見たものの、『失恋』の傷はあまり深くはないものの、切れ味のいいナイフではなくて逆に刃こぼれしたナイフで無理やり傷つけられたのだ。
痛みという点では、刃こぼれしたほうが痛くて治りにくく、たちが悪い。
大学受験を控えている高校三年。どうしてもこの時期に自分の気持ちを伝えておきたかった。
大夢と紅葉は違う大学を受験することが決まっていた。
二人の向かう未来が違ったのである。
大夢は学校の先生という夢があった。
紅葉はスポーツ系の大学に行くと決めていた。
体育会系と文化系の二人が初めて出会ったのは、高校一年の春で、クラスが一緒で席も隣同士でもなければ接点など存在しない。
最初はナヨナヨして病気的な白い肌をしていたので、紅葉は「この子とは気が合わない」と決め付けていた。
逆に大夢は「この子のように活発になってみたい」と思っていた。
だからと言って、すぐには仲良くなったりはしなかった。
紅葉はすぐにバレーボール部に所属して、大夢は図書委員をすることになって、距離が離れたと思ったがこれがきっかけで大夢と紅葉は距離を縮めることに。
どうして縮めることになったか、それは時間である。バレーボール部の部員は彼女しか電車通学をしておらず、ほとんどの部員が自転車か徒歩で帰宅する。なので、自然と帰宅時間が重なると、下駄箱での出会いがしら、一緒に帰る展開がその頃の二人だった。
「秋月さんだったよね。もしよかったら途中まで一緒に帰らない?」
教室でも「おはよう」ぐらいの挨拶しかしていないのに、紅葉は突然の誘いに面を食らった。「えっ?」とか「わ、わたし?」と二人しかいないのに、他の誰かがいるのかとキョロキョロしたり見ているだけで面白い。
「というか、木場君って電車通学なの?」
「そうだよ。知らなかった? 電車の中でよく見かけるのに」
紅葉は電車の中では小説をよく読んでいる。ほとんどが恋愛小説だが、ブックカバーをしているのでタイトルまでは周囲にバレていない。だが、感情が表に出やすいのでラストシーンなどは良く涙ぐんでいる。
「ごめんなさい! 小説読んでることが多いから気づかないの」
彼女自身も気づいているのだが、なにかに集中すると周りが見えなくなるタイプ。なので、大夢は視界に入っていなかった。
「そうだろうと思ってたよ。だって少し前、電車の中で涙ぐんでたよね」
一気に顔が真っ赤になったのは言うまでもない。
「どどどうして、そのこと知ってるの!」
そのことは紅葉自信もやらかした……とヘコんだのに、今ここでぶり返されるとは思ってもいなかったようで、大慌てしてしまい
「なんでもするから絶対に誰にも言わないでね!」
咄嗟に出た言葉だった。
「なんでもしてくれるの?」
墓穴を掘る。穴があったら入りたい。彼女の性格からすれば撤回はない。頑固で一途な性格のおてんば娘。
「女に二言はないわ」
「だったらそろそろ帰ろう。もう下校時間過ぎちゃってるよ」
時計はすでに7時を回ろうとしていた。
大夢は靴も履き替えていて帰る準備は整っており、後は紅葉が靴を履きかえるだけなのだが、さっきのやりとりが気に食わないようだ。
なんでも言う事を聞く。その願いが『一緒に帰る』では、願いになっていない。
だからと言ってこのまま言い争いをしても埒が明かないので、こうすることにした。
「今度、どこかに遊びにいかない? あ、無理にとは言わないよ。私みたいなのが隣を歩くのが嫌だったりすると思うし」
などと謙遜しているが、紅葉は学校の中でも1、2を争うほどの人気を誇っている。
一度も染めたことのない綺麗な漆黒の髪をしており、身長は女の子にして大きいほうだが、そうでないとパーツのバランスがおかしくなる。小さな顔に二重のぱっちりとした大きな瞳がチャームポイントで、スポーツをしているからかほどよく引き締まったボディに少し小ぶりの胸が、ボディラインをより引き締めて見せていた。
そんな彼女を大夢ごときが拒否することなど到底出来るはずがない。
「そんなことない! 僕だったらいつでも予定は空いているから秋月さんの予定に合わせるよ」
一心不乱というのは、今の彼のような慌てっぷりを言うのかもしれない。
背筋が伸びて、声のボリュームの調整が壊れたように大きな声が向かいにいる彼女へと振動を運んでいく。
それを見て、笑い出す。
第一印象が大人しい子だなぁ。それが紅葉から見た大夢の感想だ。だからここまでテンパっているのがおかしくて笑いを堪えることができなかった。
「なにか変なこと言った……かな……?」
両手でお腹に押さえ込んで、笑いのツボを見事に捕らえたようで、なかなか笑いが収まらない中「な……なにも……あははは……言ってないよ」と失礼にも限度があるだろ。もしこの場に第三者が居たらそう思っていたに違いない。
なぜか大夢も一緒に笑い出した。
彼女が笑っていると自分も笑いたくなった。ただそれだけの理由で笑い始めたのだから、この時から二人の距離はものすごく近かったのかもしれない。
その後、二人は下校した。
他愛もない話に花を咲かせ、それが終わると二人の共通である小説の話などになれば、二人して熱くして語っていく。
そして、別れの時間だ。
先に降りるのは紅葉。
「それじゃぁね」
「うん。さよなら」
電車から降りて、すぐに振り返る。
降りる人の少ない駅なので、すぐに電車の扉は閉められていく。だから小さな手で小さく手を振った。
電車の中から小さく手を振り返してくれる。
彼氏が居ればこんな感じなのかな?
彼女が出来たら今のようなことをするのかな?
無常にも電車は走り出していく。
さっきまで暖かかったのに、一人になると南極か北極のように凍えるような冷たさを覚えた。
二人が恋をした瞬間であり、これが二人を近づけるきっかけとなったエピソードである。
居なくなってから気づいてはもう遅い。だからと言って運命を変えることが、一、高校生に出来たか。と言われれば定かではないのは確かだ。
それに本人から家庭の事情など聞いていなかったのに、それを知るには紅葉には到底無理だったことはわかる。
それが余計に悔しい。
相談するに値する人間ではなかった。言葉にして言われた訳ではないが、そう思っても仕方がない。
木枯らしが紅葉に襲い掛かる。
制服姿でこんな辺鄙な公園にいるのは、彼との思い出を巡っていて、最後に来たのがここだった。駅から正反対で学校からここに来るには、結構な上り坂が待ち構えている。今の紅葉に『坂があるから』最後にしたなどと考える余裕は到底ない。
ただ言えるのは、『大夢と一番一緒に来た場所』であるから、最後にここに来たのだ。
それから二人は遊びに行くことが出来ないでいた。
紅葉の所属しているバレーボールが県大会へ出場することになったのが原因で、毎日、休むことが許されないほどの熱の入れようだった。
この学校は部活動も進学率も並レベルで、冴えない学校だったのだが、地区大会をストレートで勝ち抜いて、優勝候補の一角として注目を浴びていた。
学校側はそれをうまく利用して、学校の評判を高めようとバレーボール部にコーチまで呼ぶほどの力の入れようだ。
そうなっては「デートなどで休みます」と言える余地は絶対になかった。しかも、紅葉は一年生ながらレギュラーに抜擢されては、先輩達の目もあって余計に言えない状況にいた。
「ごめんね……」
週に一度は一緒に帰るようになっていた二人は、真夏の暑い中を駅まで歩く、残虐的な季節の暴挙に汗を流しながら戦っている最中である。せめてもの救いがもうすぐ日が暮れることぐらいだろう。
「構わないよ。それにしてもすごいね。地区大会でストレート勝ちって」
「でしょ! ものすごく調子が良くってさ、もうスパイクがバシバシ! 気持ちがいいぐらい決まって、打ってるこっちがびっくりって感じだったの」
自分の功績を聞いてもらえて嬉しい子供のようで、笑う姿がさらに彼女の可愛らしさを引き立てている。さらにスパイクの打つマネなども追加されては、その凄さは言葉の十倍に達する。というのに大夢は素直に喜べないでいた。
「ホントすごいね……僕とは大違いだ」
「素直に喜べないなぁ。なにかあったの?」
女の子に弱い自分を見せるのは、男として情けなく言ってしまってもいいのだろうか。と自問自答していると大夢のじれったさに紅葉から行動に出た。
腕を掴んでいきなり逆走したのである。
「ちょっと秋月さん!」
呼び止める声を気にする事もなく、下り坂だった坂を上っていく。学校の正門を超えても止まることなく上っていく。
大夢は学校より上には行ったことがなく、ただわかるのは山林に昔ながらの家がポツポツあるぐらいだという事だ。それに引き換え、紅葉は部活の練習でよくスタミナトレーニングと称して、山頂にある展望台までダッシュさせられているので、上までなにがあるか知っている。
ただ、スポーツの苦手な男の子はすでに肩を振るわせるほどの呼吸で、女の子のほうが涼しい顔で上っていく姿は、とてもシュールだ。
そんなことを気にする様子もなく彼女は進んでいく。
正門を越えて十分ぐらいは経っただろうか、掴まれていた腕が解かれ、両手を膝に置いて息を整える。
「こっちおいでよ」
小さな公園の中に数日は使われていないブランコがあり、ブランコの前には安全のために鉄の柵が設けられているが、ブランコをしている子がいるときは、ここより中に入ってはあぶないですよ程度の物である。
そこに紅葉は座っている。
大夢も隣へと歩みを進める。だが、簡単に座ることができなかった。なぜか? 彼の視界を捉えたのは、オレンジ色に輝く夕陽に、街がオレンジに染まっている風景だった。
「どう? 気持ち良いでしょ」
グラウンドを十週した後に、山頂までのダッシュなんて、どこの軍人だ。彼女達はそう言いながらもコーチの指示に従っては、黙々とダッシュをするのである。
紅葉は誰より先に山頂へ行って、ここで休憩してから、体育館へと再度ダッシュする。
先輩達が必死に登っているのに、彼女だけは優雅にこの景色を堪能し、この地獄を謳歌し、また別の地獄へと進んでいくのだ。
夏の生ぬるい風が二人の体にまとわり付いているが、なにも気にする事なくこの景色に見とれ、言葉を無くす。
「コぉおおおおおおおおおチのばっっっっっかやろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
突然の絶叫に、近くにいたどこからどう見ても体育会系には見えない人はたじろいだ。逆に雄叫びを上げてすっきりした少女はクスクスと笑い出す。
おかしな光景が広がっている公園の一角。今日は誰の目もなかったのが、せめてもの救いだ。
だが、彼女はそれも気にした様子はない。
「突然、叫びだすからびっくりしたよ」
ゆっくりと隣に行くと、大夢も柵に座り隣にいる紅葉の顔を覗き見る。クスクス笑っていたのが今度は押さえきれないとばかりに、大笑いを始めた。
「も……もうね……ポカーンってなった顔が……」
「そ、それは秋月さんがいきなり叫ぶから!」
笑いのツボが自分だったことに否定をするが、時すでに遅しでこの後、十分は笑い続けることになった。
ここに初めて来たときのことを思い出して、さらに胸が苦しんでいくのが見て取れる。涙は枯れることはなく止め処なく溢れ出していく。今、彼女にハンカチを差し出せる人間はいない。それは知っている。だけど、彼女は納得していない、納得できない。後者のほうが正しいだろう。
時は無常にも過ぎていく。それに伴って大夢が死んだと言う実感を与えてくる。拒否することが出来ないのは人生というゲームの汚点なのかもしれない。
こんな時にオレンジ色に輝く町並みが姿を現す。
神のいたずらは加減を知らず、彼女の記憶を抉り取る。
「ごめんって」
公園からの帰り道、さすがに笑いすぎて大夢は機嫌を悪くしたようで、紅葉が謝罪しているワンシーンである。それでも機嫌は戻ってこない……ふりをしているのは、彼女に少しお灸を据えないと大夢の気がすまなかった。
紅葉の表情を横目で盗み見ると「さすがにやりすぎた」というしょぼくれた顔をしていた。それを見て「さすがにやりすぎた」と二人して気持ちが一つになる。
「「ごめん」」
そして、行動も息ピッタリに二人して、頭を下げた。
またしても、二人は一緒に頭を上げて、視線がぶつかり合う。数秒の間が空いた。
あははははは
似たもの同士とは程遠く性別さえ違う二人だというのに、彼女と彼は合わせ鏡のように動きを共にする。
「僕のほうこそごめん」
紅葉は首を横に振り「私が悪かったんだもの」と、大夢の謝罪を否定した。
どちらともなく、自分達の向かう最寄り駅へと歩みを進める。
「今の図書委員ってさ、ただ図書室を管理するだけの立場でしかないんだよ」
大夢の言葉を受け止めるよう、そっと彼のそばを歩く。
「僕は本が好きだ。絵本には作者が子供の頃に描いた希望が描かれていて、小説には読み手を物語の世界へと導いてくれる。だけど、みんなは本が好きではない。押し付けられただけなんだ」
好きでもないのに、どうして……
はっきり言えば、部活動をしている人間以外(例外もいる)で構成される委員会活動で一番楽なのが図書委員なだけで、高校生で小説など読書を趣味している人間は1割居ればいいほうだ。
「ホントに本が好きなんだね」
小学生が歩くぐらいの速度を保ちつつ、坂道を下るのも実は苦労なのだが、それを苦にすることもなく言葉にしたのは彼へと厳しい言葉だった。
「だからって押し付けるのは間違っていると思うし、木場君がいくら「読め」と言って読んでも、本を好きにはならないよ。ただの作業でしかない」
「それだったらやらなかったらいい!」
学生ならではの考えである。
嫌ならやるな。
「それで社会が回っているならどれだけ幸せなんだろうね」
「学校の委員会と一緒」
「一緒だよ」
歩みを止めて、隣を歩く男の子も一歩先に進む形で止まる。
「やりたくないけど、やらなくちゃいけない。それはこの世界の秩序で人間に課せられた使命でもあるのかも」
だからさ
「木場君は自分にできる仕事すればいい。もっと多くの人に本を読んで欲しい。私もそう思う。だから、あなたが出来ることをすればいいよ」
紅葉が笑顔を作る。それを見て大夢はなぜか苛立ちが体から開放された。
「部活でもあるんだよ。私はバレーボールが好きだけど他の子は違ったりね」
「あんなに厳しい練習を好きでもないのに出来るって凄いね」
ホントに心から関心する。
学校で一番厳しく、活動時間もどこの部活動よりも長い。だが、バレーボールが好きじゃない。だったらどんな理由なのか。
「でしょ! 理由がさ「ダイエット」だからもっと凄いよ。ダイエットで死に物狂いで走って、飛んで、怪我をして、結果を求められる。それでも辞めないのは、素直に凄いって褒めれちゃうの」
彼女は歩き出す。
大夢も歩き出す。
「好きになってもらえるように頑張ってみようよ」
その言葉は誰に向けたものだったのか、もしかしたら自分に向かって言った言葉だったのかもしれない。
もっと早く気づくべきだった。
もっと早く言っておくべきだった。
だった。過去形の意味は言わなくてもわかるだろう。
後悔はすべて過去形でなりたっている。未来予知・正夢といったように先がわかっていたら、過去形など存在しない。
彼女がもし、そのような類であったら、どれだけ嬉しかっただろうか。いや……どちらを選んだのだろうか。
過ぎ日が流れ、二人は高校二年生となった。
なにかの因果なのか、大夢と紅葉はまた一緒のクラスになった。
ん? それから二人はどうなったか?
なにも変わっていない。二人で遊びに行くと決めた約束は今も健在しているのに、時間がとにかく合わない。噛み合わない歯車は男女の三大イベントのクリスマス・お正月・バレンタインデー。クリスマスは紅葉が家族でディナーをすることとなり、父親に異議申し立てをしたが見事に玉砕された。
お小遣いを引き合いに出すなんて卑怯ではあるが、学生でアルバイトをしていないのに、お小遣いを減らされるのは死活問題でもある。
お正月は大夢が家族旅行で家にいない。ということだ。
父親が自営業ということもあり、長期的な休みが取りづらく、お正月などの長期OFFは父親として、家族団欒を楽しむのが恒例であったがためだ。
そしてバレンタインデーである。
製菓会社が作り上げた伝統もクソもないイベントである。女の子が男の子にチョコレートを渡すときに、愛の告白の言葉を告げ、そこで愛が成就すれば幸せになる。などとデタラメを謳い文句に売り上げを狙った罠だとわかっていても、女の子にとっては負けられない勝負行事となっている。
大夢は至って普通で、バレンタインデーという行事は母親と近所の小学生の子達がチョコをくれるだけの日に過ぎない。
毎年、気にもしない女の子。
今年は違っていた。
朝から渡そうと狙っている男の子が「おはよう」といつものように挨拶をしてくる。女の子も「お、おはよう」と、いつもより時間をかけてヘアメイクをしたにも関わらず、男の子は気づいてもくれない。
ヘアメイクだけ変えても気づかないよね。
女の子の作戦は見事に『失敗』していた。
時間は刻々と過ぎ去って、授業もいくつ終わったのか。お弁当食べたっけ? あれ? 数学なのに現代社会の教科書が出ている。
初めて送るチョコレートが入っているカバンを見る。
……ハァ。
深々とため息を付いた瞬間に教科書で頭を軽くコツかれる。
「カバンの中にいっぱいのチョコが入っているのかしら?」
教室中から笑い声が四方八方飛び交う始末なった。
いつもの紅葉なら、こんな失敗はしないのだ、今日に限っては失敗が多かった。数学なのに現代社会の教科書を出していたり、お昼休みだというのにお弁当も用意せず、ずっとノートを眺めていたり。
大夢はそれをずっと見ていた。そして、みんなが笑っているのを尻目に笑いのネタにされている紅葉を見つめていた。
今日の授業が終わって、部活動に所属している生徒、どこにも所属せず委員会もない生徒は家に帰るため立ち上がる。だか、今日はそれだけではない。
「あの……真田君……ちょっといいかな」
紅葉の隣の席の真田という男の子が、チョコレートを持った生徒に呼び出されているのを紅葉は見ていた。
真田も照れながら「お、おう」と立ち上がって二人で教室の外へと歩いていく。その最中、クラスメイトから小さな声で「がんばれ」など、真田を呼び出した女の子にエールを送っている。
「秋月さん。体調悪そうだけど大丈夫?」
「ヒャウ!」
二人の背中を追いかけていたので、背後から声をかけられて驚いて、背筋が伸び硬直していた。
そっと振り返り声の主を確認するまでもないのに確認するのは、テンパっている証しで、動きがまるで最初の頃のアシモみたいであった。
「だ、大丈夫だよ。いつも通りじゃない?」
どこがだよ。
クラスメイトは次々に教室を後にしていくので、時間の経過と共に、二人っきりの状況が自然と作られていく。
やばい。
紅葉はこの精神状態で二人っきりになると言うのは、なにか墓穴を掘るような気がして「部活があるから行くね」と逃げるように教室を飛び出した。
部活はすべてを忘れさせてくれた。走って、転んで、飛んだ。ただそれだけなのに、すっかりカバンの中で異質を放っている物を忘れさせてくれた。
部活動が終わったのは18時30分。
一年生である紅葉達は後片付けが待っている。ネットを畳んで、ポールを引き抜き、コートのモップがけと終わったら、そこから15分もプラスされる。
みんなで部室に戻っても、紅葉だけは着替える素振りを見せていない。
「紅葉ちゃん。どうしたの?」
下校時間を過ぎているので、早く帰り支度しないと顧問の先生のお叱りが待っている。だが、県大会三位とこの高校始まって以来の好成績があったので、少々の時間の遅れは咎められることはない。
「ううん。なんでもないから、みんな先に帰って」
「それじゃぁね」と地元組は先に帰宅していくと、部室は彼女一人の空間に変わり、沈静がお出迎えしてくれる。部屋の真ん中に置かれた長いす。一番奥には机が一つだけ置かれているだけの殺風景な部室が、今日はとても落ち着く。
「今日はこのまま羽織って帰っちゃおう」
その選択が間違いだったと後悔するのは数分後のことで、紅葉はなんの躊躇いもなく、体操服の上から制服を着込んでいくのであった。
外では大夢が部室の前で待機している。いわゆる『出待ち』の状態である。学園のアイドルと言えば間違いないが、普通の女子高生を部室の前で待ち伏せしているのは、一種のストーカーなのではないだろうか。
さすがに、他の部員がいるときは別の場所に隠れて、帰るのを見計らってから出待ちしているので、他の部員には気づかれていない。
待ち続けて十分は経っただろう。二月の外はとても冷たい風が暴風警報発令しているかのように、暴れ狂って襲い掛かってくる。それを知ってたか知らずか、壁に寄り添って心配の少女が現れるのを待つ。
ガチャン
部室の扉が開いて目的の少女が姿を現す。
「お疲れ様、秋月さん」
「ヒャウ!」
驚いたときの口癖らしい。
でも、今回に関しては誰でも驚くと思う。胸に手を当てて「木場君かぁ……」と落ち着きを取り戻す。そして、思い出すのだ。
制服の下が汗まみれの体操服を着込んでいることを瞬時に後悔する。しても遅いのだが。
紅葉の脳内では選択肢が二つほど浮かび上がっている。
一つはこのまま部室に戻って着替え直す。もう一つはこのまま乗り切る。ここで逃げる選択肢を選ばなかったのは、二人の仲の良さと言えるのでないだろうか。
「大丈夫? 今日は調子悪そうだったから気になって」
「私は大丈夫だけど、木場君って今日は委員会なかったよね?」
「図書室で借りた本を返しに行ったら、委員会の子が一人しかいないくて、手伝っていたんだよ」
ダウト。
平日の図書委員の仕事は、貸し出しの受付と戻ってきた本を指定の本棚に戻すことである。だが、一人の場合は貸し出しの受付さえしていればことは済むのである。
ジト目で大夢を見ると薄笑いをしてその場をやり過ごそうとする。まぁいいか。
「ありがと。もう下校時間過ぎちゃってるし帰ろうか」
先に歩き出したのは紅葉だった。確かに時間の関係もあっただろう。だけど、一番は自分の顔が熱く火照っているからだ。
顔が真っ赤になっているのはわかっている。だって嬉しかったから……。
昇降口に向かい下駄箱から下靴を取り出す。未だにどちらともなく喋り出すことはない。靴を履き替えて昇降口を後にし、校門を抜け、駅へ続く下り坂を下っていく。そこでも無言であった。
駅の改札に着いて、定期を取り出すのだが「あれ?」紅葉はポケットを漁るが、肝心の定期が見つからない。そして、カバンのチャックを開けて、中を確認してやっと思い出した。
いつ渡そうか。
渡すなら今しかないと紅葉の心が言っている。だが、体が反応しないのでは、渡すことさえできない。
「秋月さん?」
大夢は心配そうにカバンの中身を見て、固まっている少女を見やる。
「な、なんでもないよ。ちょっと待って」
チョコレートの入った包みを押しのけ、定期を探すが見当たらない。焦りは焦りを招き、ポケットをもう一度、探してみるがやっぱり見つからない。
「定期見つからない?」
「カバンに入れたつもりなんだけど……」
確かにカバンに入っている。いつもは一番大きなチャックのほうに入れるのだが、今日に限っては一番小さなチャックのほうに入れたのである。
それを忘れているので、もしかしたらロッカーかも……。などと考えたり。ホント、今日は運が良くないのかもしれない。
「木場君、定期を学校に忘れたみたいだから、先に帰ってて」
情けないなぁ。
チョコレートも渡せてないし。
踵を返すため、ホームに背中を向けるのだが、横から紅葉の物とは違う、カードケースが渡される。
「使っていいよ」
牛の革を使っている少し高級そうなカードケース。使っていいって大夢はどうやって帰るつもりなのだろうか。と、思っていたらすでに切符を購入していた。それも紅葉が降りる駅までの。
無理やり押し付けて渡すとすぐに改札を通り抜ける。もうすぐ一年の付き合いとなれば、彼女の性格もある程度はわかっているので、拒否させない行動を取ったに過ぎない。
卑怯なやり方に少し不快感を感じるが、自分の失敗を大夢に当たるのは筋違い甚だしい。情けないが従うしかないのが……。
そして、帰宅ラッシュと重なり電車は満員御礼、押し競饅頭し放題で車内はポカポカで、お仕事で疲れたおじさま達の加齢臭の中に乗り込むしかなかった。
入り口にしか入れず、電車が少し揺れるだけで圧縮される始末。だが、紅葉はその圧縮攻撃をあまり受けないでいる。大夢が満員の中、紅葉を懐に入れるように守っているので、攻撃を受けないでいたのだ。
「ありがと」
「ううん。大丈夫だよ」
小さな声でお礼を言うだけでも、吐息が二人の顔に届くほどの近かったりするので、二人して緊張している。
早く着け。それを願うもまだ五駅もあったりするから、ため息の一つぐらい吐き出したくなる。だけど、木場君の匂いがするのは、ちょっと嬉しいかも。などと考えているのは、能天気というか体を張っている大夢に失礼ではないかと思う。
時間にして十五分。だが、守ってもらえるのは、あと二駅しかない。と、紅葉は思っている。
渡せなかったなぁ。
後悔先に立たず。とはこういうことを言うのではないだろうか。
だから、あと少しだけこのままの状態で居させてください……。
時は過ぎて電車は無常にも別れの駅へと二人を導いていく。目が点になっている紅葉を除いては。
大夢が降りるはずの駅では降りず、紅葉が降りる駅で一緒に降りたのだから、ビックリマンもびっくりするはずである。
「ななななな……なんで一緒の駅で降りてるの!」
駅のホームに降りて第一声がこれだった。
「なんでって……今日の秋月さん、体調悪そうだったから駅まででも付き添ったほうがいいかなって思って」
笑顔で答える大夢だが、紅葉は落ち込んでホームの床を見つめるしかできなかった。
まただ。また心配させている。
「ごめんなさい」
何時にもなく低いトーンで謝った。何度目かわからない情けなさが込み上げてくる。
「なにかあった?」
「うん。誰か私に勇気をくれないかな」
踏み出す勇気さえあれば、私は私でいられるのに、その勇気がない。石橋を叩いて渡るのは勇気になるのだろうか? 戦争で殺し合いをするのは勇気になるのだろうか? 違う。現代にそんな勇気などいらない。
必要なのはチョコレートを渡す勇気。
ただそれだけだ。
「僕のちっぽけな勇気でよかったらいくらでも」
そういうと大夢は紅葉の手を両手で包み込んむ。
「僕の勇気が秋月さんに届きますように」
暖かくて、男の子にしては小さな手だけど、紅葉よりも大きな手は彼女の手を包み込むには十分だった。
ありがとう……。
「木場君、手……除けてくれる?」
優しく包み込んでいた手を除ける大夢。暖かかった手が急に冷たい風に晒される。だけど、彼女にそんなモノは通用しなかった。
カバンに手を突っ込んで、少し皺になってしまっているラッピングされた箱を取り出し、大夢の前に両手で差し出す。
「料理とかお菓子とか作ったことないから、おいしくないと思うけど、今までのお礼のつもりで作ったの! よかったら受け取ってもらえるかな!?」
顔が熱く、心臓がいつもの二倍以上の速さで動いている。バイクのエンジンだったら、レッドゾーンを超えてブラックゾーンと呼ばれる回転数にまで達していて焼き付いて使い物になっていない。
人間の心とは繊細でありながら、とても頑丈に出来ていて、とても小さい。
紅葉の手に握っているチョコレートの包みを、さっき感じた暖かい手が優しく受け取ってくれる。
「ありがとう」
やっと渡せた……。
安心すると涙が溢れ出してくる。
「これからもよろしくね」
情けない顔をしていたかもしれないけど、最高の笑顔で別れを告げたのだった。
話は長くなったが、このように周りから見れば「二人は付き合っているのか?」と疑われてもおかしくないほど、仲のいい友人という名の絆を育んでいる。
「また一緒のクラスだね」
「うん。よかったよかった」
二人は新しく通うことになる三階の教室で談笑している。四階建ての校舎が二棟あり、一つは特別棟で理科室や美術室、大夢が去年通っていた図書室も特別棟に配置されている。もう一つが生徒達の教室が用意されている一般棟となっている。あ、体育館も二つとは離れた場所に設置されている。
さすがに席は少し離れてしまっているが、新しいクラスになって新しい友人を見つけるためか、教室の中のあちこちで立ち話が繰り広げられていて、なかなか静かになる様子はない。二人はそれにあやかる形で気楽にお喋りが出来ている訳だ。
だが、大夢には気になっていることがあった。
「後ろにいる子……知り合い?」
ショートカットの黒い髪にめがねをかけているのが特徴だろう。至って真面目そうな子。
それが大夢の第一印象だった。
紅葉が振り返ると最高潮の笑顔で彼女を抱きしめた。
「鈴! 一緒のクラスだったりするの?」
「うん! 私も三組なの!?」
置いてけぼりを食らっている大夢だが、紅葉の友人であることから黙って見ていることにする。二人の邪魔をするのは無粋と言うものだ。
まだホームルームが始まるまでには時間がある。カバンから小説を取り出して、読みふけるのもいいかもしれない。二人の話が長引きそうだという判断からだ。
「鈴。紹介しておくね、友達の木場君。それでこっちが永瀬鈴小学校からの幼馴染なの」
紅葉が二人を紹介したが、大夢は椅子から立ち上がって「木場です」と小さく頭を下げる。鈴も同じように「永瀬です」と小さく頭を下げる。
人見知りの性格をしている鈴にしては、比較的、落ち着いて挨拶できている。その時は私の友人だから。という浅い考えで、紅葉は頭の疑問に解を唱えた。
それが後になって、どうなることかも予想できるはずもなく、まだ見ぬ未来へのドアの鍵は解き放たれたといえよう。
今日は始業式の後にホームルームがあるだけの、午前中だけで授業は終わる。これも学業を仕事にしている人間であればすぐに感づく。
「あぁ……委員会の役員を決めたいと思う」
もう何十年も同じことをしていると、覇気がなくなり、さっさと学級委員を選定して司会進行を任せよう。という魂胆は丸見え。ではなく見え見えが正しい。
「それでは学級委員」
……
…………
………………
一番めんどくさいと言われている役職を誰がやりたいと思うだろうか。だが、担任教師は次の役職を進めずにもうすぐ始める騒動を待っている。
「去年、お前やってたじゃん」
クラスメイトの一人が声をあげると、あっちからこっちからと声が飛び交って、役職の擦り付け合いが始まるのである。
担任教師はこれを待ってました。と言わんばかりに
「では多数決で決める。紙に名前を書いてすぐに前の箱に入れてくれ」
手っ取り早く決めるには民主主義に則り、多数決が最善である。すぐに全員から紙が集められ、集計して学級委員が決まった。
これからは学級委員に選ばれた二人が司会進行を勤めるので、担任は教室の端っこに置かれている椅子に腰をかけ、俺の務めは終わったかのように、この光景をめんどくさそうに眺める。
「では、次は図書委員。誰かやりたい人」
こちらは数秒で決まる。男子は言わなくてもわかると思うが大夢が挙手。そして、女子は鈴が挙手したのである。
学級委員の二人は黒板に木場・永瀬と書き込んでいく。
あれ? 鈴って本とか好きだったっけ?
紅葉の記憶では本を読んでいる彼女を目にしたことがなかったので、なんで図書委員なんかに。と疑問に思っている。
だが、引っ込み思案な鈴が自分から挙手するのは、いい傾向だと思ったので疑問は心の片隅へと置いて、クラスのみんなが拍手をして二人の就任を祝っているので、紅葉も一緒に拍手を送った。
委員会活動は明日からなのだが、図書室は学校がある日は開けるのが規則なので、大夢は先生にお願いされて図書室の受付をすることになっている。
「木場君は今日も図書委員?」
部活動に向かう紅葉だったが、今日は軽く流す程度の練習量だとコーチから聞いているので、時間が合えば一緒に帰ろうかと声をかけた。
「うん。四時ぐらいには閉める予定だけど」
「だったら、私のほうが早いから終わったら図書室行くね」
それを告げると紅葉は友人と共に教室から飛び出していく。大夢も図書に向かうために腰を上げ立ち上がる。
「木場君。私も一緒に行っていいですか?」
紅葉から紹介されていなければ断っていたと思う。鈴が一緒に図書室に行っていいですか? と聞いてきたのである。
「別にいいけど、永瀬さんは明日からだよ?」
「少しでも早く図書委員のお仕事、覚えたくて」
そういうことなら。と、断る理由もないので、二人で図書室に向かうことにした。向かっている最中はほとんど話をしなかった。
紅葉と違い、どんな話をすればいいのかわからない。それが大夢の理由だった。そして、二人の違いはもう一つあり、雰囲気が180度、違うのである。紅葉の雰囲気は明るくて暖かい秋の夕暮れ。それに引き換え、言葉に棘などはないし、逆に丁寧である。なのに彼女の背中からは、とても冷たくて1cm先も見通すことも出来ないほどどす黒い。
見た目とは裏腹に第一印象はあまりよくなかった。
図書室では貸し出しの記録の付け方や貸し出しから帰ってきた本の整理の仕方など、一度教えただけでいとも簡単に覚えていく。それほど覚えることもないので鈴は一日で図書委員のすべてを覚えたと言っても過言ではなかった。
「今日は始業式だから返却が多かったけど、平日はもっと暇だから本を読むか勉強するかしていていいよ」
と言っておきながら本を読んだりするのかしらないのに、数秒もかからなかったが
「私も本は好きなので、このような時間が作れるのはありがたいですね」
と本人から疑問に答えを出してくれたのはありがたい。さすがに「本とか読む?」などと聞くのは避けたかったので、内心ほっとした。
それにしても。と大夢は思う。
隣で図書委員の仕事をこなしてくれているのだが、彼女の第一印象があれだったために、気を許しすぎではないか? と疑問に思う。
「木場君。こちらの方が調べて欲しい本があるそうなのですが、どうすればいいですか」
特に変わったこともないので、疑問に思うだけで言葉にすることはなく
「こっちのパソコンでタイトルか作者の名前を入れると、調べた事柄に関する本が表示されて、こっちが本棚番号になっているから、それを教えてあげて。貸し出し中だったらこっちに表示が出るから」
と図書委員の雑務を指導することだけしか言わなかった……。
翌日の放課後。
昨日でほとんどの仕事を覚えた鈴と大夢は委員会の会合に出向いている。一年生から三年生まで全員が顔合わせるのはこれが初めてだが、大夢は二年生と三年生とは面識がある。
図書委員は楽な委員なので、一度、楽を知れば誰も明け渡そうとはせずに、学年が上がっても別の委員会に属することはしないので、去年の図書委員が勢ぞろいだったりする。
そして、先生も変わらずなので去年と同じで、一学期は二年生が一年生を指導するのが、この先生の仕来りなので誰も異論は唱えたりしない。
「と、いうわけで一年生は先輩の下で教わりながらやっていってください。では親睦会でも」
と適当に話を切り上げて、先生は自分の仕事へと没頭していく。この先生……適当すぎる。
「こんな先生だけど、本の知識とかは凄いから、時間のあるときは話をしてみると面白いよ」
大夢はこの先生と話をするのが大好きなので、鈴にも先生を好きなって欲しかった。ただそれだけの気持ちに過ぎない。
「えぇ時間があればって、一年生がお出ましですよ」
ニコっと笑顔で迎える鈴。
一年生の男子と女子は「よろしくお願いします」と一礼して先輩に敬意を表する。二年生の二人も「よろしく」と気軽に接してもらえるように笑顔で返事をした。
自己紹介も終わらせ、鈴の意見で男女に分かれて、大まかな仕事内容の説明をしていくことにした。
「高い所にある本はこっちに梯子が用意されているから、無理せずに梯子を使うか、僕がいるときは僕を呼んでくれればいいからね」
「は……はい」
背丈は150cmほどのセミロングが似合う後輩の子は、顔を赤らめながら大夢の説明を受けている。説明している先輩はなにも気づいていないが。
昨日、同様に受付の書き方などを教えて、今日は解散とした。一気に詰め込むとパンクしてしまうだろうという配慮からだ。
鈴のほうも終わったようで、一年生の子に手を振って別れを告げていた。そしてため息一つ。
「なにか悩み事?」
「そんなものでしょうか」
誰も居ない図書室の扉を眺めて答える。
「僕でよければ相談に乗るけど……っていらないお節介だね」
大夢も誰も居ない扉に向かって声を振るわせる。
ホントいらないお節介だ。と彼女は思った。「お前が悩みの種なんだよ」と言ってやりたいが、黙ってお淑やかに、いい子ちゃんを演じることにする。
「もう少し悩んで解決しなかったらお願いしようかな。紅葉に相談できない悩みだから……私達も帰り支度しましょうか」
満面の笑み浮かべて
「もうすぐ紅葉も部活が終わります」
それから長い時間が流れる。
去年までは二人だったのが三人に変わっただけだが、二年生になって少しだけ二人の身の回りは変わっていく。一番の変化は後輩という存在が出来たこと。去年は自分達が後輩という立場だったのが、今年は先輩という立場に変わり、指導される側から指導する側の変化。
大夢も一学期だけであるが図書委員で一年生の面倒を見る事になっている。
紅葉も部活動で後輩が出来て、「先輩」「秋月先輩」など呼ばれ方も増え、高校生活を謳歌している。
修学旅行も終え、学生なら誰もが嫌いなテストも終えて、後は待望の夏休みを待つだけとなった。
夏休みはイベント事が多く、海水浴や夏祭りと言ったイベントが目白押し。それには一人ではなく二人、三人ではなく二人。男と女の二人で遊びに行く。これをデートという。
デートを行うにはどちらかが告白と言った心をすり減らすイベントをクリア。つまりカップルになる必要が出てくるのだ。別に好きと好きじゃなければいけない。というわけではなく、どちらかが好き。又はどちらも好きでなくても告白さえしてカップルにはなれる。はっきり言えば口約束に過ぎない。
セミの鳴き声が耳障り。
人間の存在が目障り。
私の邪魔をするのは排除する。
私の大切な人に近づく人間は……末端まで遠ざけるだけ。
図書室だってゴミは出る。
一般家庭では半透明のゴミ袋にゴミを入れ、指定の場所まで持っていく。だが、学校は未だに黒いゴミ袋にゴミを入れ、ゴミ焼却場まで運ばなければいけない。一日で二つもゴミ袋が満タンになるのは、極めて異例だったが、二人は気にすることもなく焼却場までゴミを運んでいる。
「手伝わせてごめんね」
大夢と図書委員の一年生はゴミを片手に校内を歩いていた。もちろん目的地はゴミ焼却場である。
「いえ! 本来は私の仕事でしたから」
「力仕事は男の仕事なんだけどね。やっぱりそっちのも持つよ」
一年生の少女はギュッとゴミを掴みなおし「大丈夫です」と虚勢を張る。見ているほうはヒヤヒヤもので、少しだけゴミ袋のお尻が擦れて破れかかっているからだ。
だが、神の助けでもあったのか、破れながらもゴミを散らかすことなく、焼却場まで運ぶことに成功。大夢はホッと小さく息を吐き、後は業者の方にお任せする。後はどうなっても知らない。とだけは付け加えておく。
ゴミ焼却場は体育館の裏にあり、体育館の準備倉庫から焼却場が向こうから知られることもなく見る。いや、覗き見ることができる。
体育館を使っている部活動の生徒は『愛の覗き窓』と称して、愛の告白を見守るのである。
「最近は多いですね」
一年生の一人が練習前のちょっとした時間に覗き窓を覗いていた。意外と涼しいこの場所は女子バレーボール部の溜まり場となっていた。
ゴミ焼却場はまったくと言っていいほど人通りがなく、ゴミを捨てに来る以外は無人地帯。犬や猫はたまに見かけるぐらいの殺風景な場所なのである。
「夏休みが近くなると多くなるのよ」
体操用の白くて少し硬いマットに横になっている二年生の先輩が興味なさそうに答えて、天井を見据える。
いつになったら二人で遊びに行くことが出来るんだろ。
マットに横になっている少女は一年前の約束を思い出していた。時間が合わないのが理由なのだが、このままでは人生が終わってしまうのではないかと不安になってくる。
「あ、千夏じゃない?」
「そうだね。今日、告るって言ってたしね」
「図書委員の先輩だっけ? 成功するといいね」
図書委員。
興味のなかった先輩だったが、その単語を聞いただけで覗き窓を覗くだけの興味が沸いてきた。そして、覗き込んだ少女が目にしたのは大夢と一年生の可愛らしい女の子が向かい合っている場面だった。
「先輩……好き……です」
大夢は驚きを隠せなかった。だって、今の今まで好意を持たれていたとは思ってもいなかったからだ。嫌がらせなどはしていないから嫌われているとは思っていなかったが……。
いつも真っ赤な顔がさらに真っ赤になっている後輩の少女を見て、本気なのだと察するほど大夢は心の余裕を保っていた。
告白をされている驚いているのにおのずと答えが導き出される。考えるまでもなかったが、すぐに返事をするのは悪い気がするので少しだけ深呼吸。
そして……。
「私、用事思い出したからちょっと出てくる」
「あ、はい」
「わかりました」
居ても経っても居られなくなった。
紅葉は二人の間に割って入ろうとしていたが、最後の砦がその行為を阻止していた。
「私は木場君の……」
なんだろう。親友? 友人? クラスメイト? どれも当てはまるだけど『恋人』にはどうやっても当てはまらない。まるで別の箱から持ってきたジクソーパズルの一ピースのように、絵柄も違えば形も違っていた。
二人の前に出てなんて言えばいいのだろうか。ゴクり。喉を唾が通る。
「私は木場君のなにになりたいんだろう」
一年生の少女が涙を流しながら走り去っていくのを見て「チッ」と舌打ちをした。それは紅葉にも大夢にも聞こえていない。
愛の覗き窓のほかにも覗ける場所はいくつかある。体育館の二階の屋根が二人の声も聞けて、絶好の覗き見場所である。
使えない後輩だ。
声を出せば大夢に気づかれる可能性があるので、心の奥で叫び散らす。あれほど世話を焼いてやったというのに、この様では私の計画が水の泡、時間の無駄にしかならないではないか。
キスしろよ。
押し倒せよ。
処女を散らせよ。
私達の前から消えろよ。
ゴミ焼却場にはもう大夢の姿はない。もう隠れることはなくなった、立ち上がり計画を練り直す。生半可なことではダメだ……。
「そうか……そうよ!」
鈴の顔がニヤリと微笑む。
悪魔のように微笑む。
ドライアイスのように冷たくなった心にブラックライトで心を見渡す。なにも見えるはずがないのに彼女は暗闇へと手を伸ばす。
「あいつを消さばいいんだ」
七月の二十一時は半袖のシャツを着ているだけで、快適な生活をさせてくれるのはありがたい。
大夢はスマホに届いたメールの指示に従い、学校より高い小さな公園でメールの差出人を待っている。時間の指定はなかったので、家に帰って着替えだけ済ませて、すぐここで待っている。
かれこれ二時間はここにいる。大夢は差出人が現れるまで本でも読んでいようと、小さな外灯の光を頼りに読みふけっていたが、やっと差出人が到着したようだ。
ぜぇぜぇ……。
ノースリーブに太腿が丸見えの短パンで現れたのは、ボレーボール部のエースで、この場所が誰よりも大好きで、この場所を教えてくれた人。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」
「大丈夫だよ。僕も着いたばっかりだから」
恋愛小説では定番のセリフだが、性別が逆なのは言わなくても本人達にはわかっているだろう。
『一緒に星空を見ませんか? もしよければあの場所まで来てください』
差出人は紅葉だった。突然の申し出だったが大夢は断る理由がないので、彼女より先に待っていようとの作戦だったが見事に成功した。あっけなく。
七月はみずがめ座流星群とやぎ座流星群がやってくるので、このような光の少ない場所だと、とても綺麗に星の輝きを観測することが出来る。
「こっちにおいでよ」
大夢が落ち込んでいた時と逆のことをしてみせた。それを見て「あの時と間逆だね」と呼吸を整えるために大きく深呼吸して隣に座る。
紅葉の汗の匂いが鼻孔を捕らえ、隣に紅葉がいる。と、再認識させられる。視覚と嗅覚の二つの感覚で紅葉を感じられるのが、大夢にとって嬉しいという感情のほかに、愛おしいという感情が芽生えていた。
さらに……大夢の手の上に紅葉の手が置かれる。
これで三つ。
星空を見上げる紅葉とは違い、隣で彼女の横顔を眺める大夢。だが、すぐに視線を星空へと向ける。意識しすぎると唐突に恥ずかしくなって、意識しすぎないようにするには星空に集中するしかなかった。
「今日、告白されたんだって?」
女の子の噂の早さには関心する。今日のお昼の出来事を、今日、聞かれるとは思っていなかったが、驚くことはなかった。だって、紅葉には今日の出来事を伝えようと思っていたから。
「うん。でも断っちゃった」
「そっか。そっか……」
奇跡ってどういうのを奇跡というのか。交通事故で心肺停止の状態から一命を取り留めたら奇跡なのだろうか。それともテストの問題を適当に書いて○をもらったら奇跡だろうか。
紅葉には『大夢が告白を断った』それが奇跡に違いないと思った。奇跡は起きないから奇跡である。と考えている人には紅葉の奇跡は、とても安い奇跡だな。と、言われてもおかしくない。
だが、紅葉はそれでもいいと言うだろう。それで大夢との関係を断ち切る必要がなくなったのだから。
「もしかしてそれを聞くためだけに呼び出したの?」
うん。そうだよ。
「それもあるけど、最近さ二人でお喋りする機会がなかったでしょ? 鈴は本を読まないし。で、読んで欲しい本が増えちゃってて、私の脳みそがパンク寸前」
笑顔で星を見ながら
「だから、今日はいっぱいお喋りしようって! 流れ星だよ!?」
急いで指を指すが大夢の視線が紅葉の指先に到達したときにはすでに流れ去ったあとで、「こんどはこっち!」とあっちこっちで流れ星のバーゲンセールをするので、大夢は指先を追うだけで必死。それを面白そうに紅葉は笑いながら「ずっとこんな関係が続けばいいね」と隣で流れ星を追う『大切な人』さえも聞こえない声でつぶやいた。
失敗した。
暗闇に同化して二人を見つめる少女はここで一番してはいけない失敗を仕出かしていた。
「あの女が失敗するから」
せっかく私が作戦を立ててやったというのに、最後に作戦にない行動に出て自滅とは、ホントにやられた。しかも紅葉が見ている前で告白するとは想定外にもほどがある。
もうあの女は使えない。
それに期限が短くなったと考えるべきだろう。紅葉が家に着いたのを見計らって電話して、少しでも期限を延ばすようにしなければいけない。
ああ見えて、紅葉は恋を知らない。中学生のときだって告白をすべて断っている。高校生になってもそれは変わっていない。
もしかすれば、私の考えている期限は変わっていないかもしれない。だけど、出来る限り早く処分する必要がある。
焦りは好機を逃す。
二人に悟られないよう音を出さずに歩き出す。 手には中学時代に撮った写真が握られていて、その写真に誓いを立てるように
「待っててね。すぐに始末するからね……紅葉」
あいつのせいで紅葉は恋を知ってしまった。あいつのせいで愛を語りだした。すべてあいつのせいだ!
鈴の作戦は無常にも一年生の独断専行により粉砕されてしまったが、あれは鈴の甘さが引き起こした偶発的な事故に過ぎない。遠ざけるのは甘い考えで、もしかしたら困難極まりなかったのかもしれない。そう考えた鈴は遠ざけるのでなく、手の届かない場所に捨てるしかない。
だが、すぐに行動はできなかった。
紅葉がもし『告白』してしまえば、二人は付き合ってしまってカップルになる。それだけは阻止しなけばいけない最重要課題だ。しかし、どんな言葉を紡げば紅葉は止まるのだろうかと色々、試みてみたけど止まることはなく、逆にウザがられたのでは……と夜も眠れない日々を送る鈴だったが、呪いの言葉を思いついた。
「もし、受け入れられなかったら今までの関係は崩れちゃうよ」
そういえば紅葉は簡単に躊躇い、現状維持を保つようになったのは、高校三年の春だった。
鈴はここから精力的に作戦を遂行していく。
一番最初に有益な情報をもたらしたのは父親だった。日本でも有名企業の社長令嬢である鈴は父親のパソコンを奪った。父親など、どうでもよかった。逆にあいつと一緒にどこかに行ってくれないか。とすら思うほど嫌いな父親だ。パソコンを盗んだからと言って罪悪感など微塵も感じない。
紅葉に聞いたことがある。
「木場君のお父さんって社長さんなんだって」
もしかしたら、父親と繋がっているのではないか? 何万分の一の確立かもしれないが、それにすがってみるのもいいかもしれないと、仕事用のパソコンのバックアップが入っているかも。奪ったパソコンのデータを閲覧していく。
父親は几帳面な性格なのか、きちんとフォルダにはどんなファイルが入っているかわかるようになっている。パソコンが苦手な鈴にはありがたい。
「あった」
関連企業の情報が入っているデータを見つけることに成功すると、なにも躊躇することなくズンズン進んでいく。
鈴の顔がニヤついて笑い声が漏れてくる。
今まで神様などを信じたことのない彼女だが、今回だけは神を信じてもいいと思った。
『木場透』
木場という苗字だけでも珍しい。まだ確証ではないが、ほぼ間違いないだろう。
社長令嬢の鈴にとってお金とは紙に過ぎない。紙なら何枚でも消費してもいい。すぐに電話を手に取り、とある所に連絡を入れる。
「木場透の周りを調べていただけるかしら」
探偵が調べ上げるのに数週間を要したが、結果が満足の行くものだったので良しとした。
業績は安定しているが、不倫をしていた。まずはそこを揺さぶる……いや、まずは安定している業績から潰してから不倫の証拠を叩きつけたほうが得策か。
気持ちが安定しているときよりも不安定なほうが動揺も大きくなる。さぁ……ラストスパート。
業績を悪化させるのには苦労していたが、なんとか倒産寸前にまでやりこむことが出来た。そして、喫茶店で木場透と鈴は合間見えている。
証拠も十分に集めているので、滑落させるのは十分もかからなかった。「妻にだけは」言わないでくれ。か……
コイツモクズダ。
冷静さを欠くな。
落ち着け。
「他に隠していることを言ってもらえますか? でしたら黙っておきますよ」
こいつのことはすべて調べつくした。聞かなくてもわかっている。業績低下により借金をしていることも……。そうだ、私が鉄槌を振り落とすことなどしなくていいじゃない。
ベラベラと喋っている中年男の言葉など耳に入っていないかのように呟いた。
「安心してください。私の言う事を聞いて頂ければ、あなただけは助けましょう」
大夢は母と父が夜な夜な、言い争いをしているのを知っている。父親の会社が倒産の危機だと知って、母がこの先はどうするのか。というので言い争いが発生している。
「大夢は私が引き取ります。だから早く判子を押してちょうだい」
母親は我慢できずに離婚を選択した。だが父親は拒否し続ける。それを何回見たことか。と大夢は思った。もうこの家族は壊れていた。
もうここまで来れば鈴のやりたい放題だ。
すでに父親を手玉に取っている。後は自分に疑いがかからないように始末するだけだったが、少し状況が変わったが問題ない。
「私からの最後のプレゼント……」
日曜日の午前中。
二人はやっとデートへと漕ぎつけたのは、大夢が死ぬ日だ。大夢から誘ってのデートなので紅葉の浮かれっぷりは、初めての修学旅行に向かう小学生のようだ。
朝の九時に待ち合わせしているのに、八時に来て大夢を待っている紅葉は恋する少女丸出しで、引っ切り無しに鏡でメイクや髪型を気にしている。
「ごめん待った?」
「ううん。全然!」
恋愛小説ではお決まりの展開を繰り広げていることにも二人は気がついていない。それよりも私服でどこかに行くことが新鮮なので、そんなことを考える余裕は二人にはなかった。
「それじゃぁ行こうか」
今日は大夢が率先して紅葉をエスコートしていくと決めていた。だって……母親の実家に引越しが決まっていたから。
初めてのデートで遊園地を選んだのは、少し前に紅葉が行きたいと言っていたのを大夢が覚えていた。小さな気遣いが出来る男は好感を持てた。紅葉にはそのような気遣いなどなくても、嫌いになることはないが。
ジェットコースター、急流すべり、お化け屋敷……。
二人は遊園地の乗り物を完全制覇するには時間に余裕があった。時刻は十六時を少し過ぎていた。
残すは観覧車というカップルには外せない乗り物だったが、
「もう、帰ろう」
大夢は乗っていくものだと思っていたので、少し驚いて「えっ」と声を出していた。
「観覧車には彼氏と乗るって決めてるの。子供のときの決まりごとなんだけど、ここまで来たら最後まで守ってみてもいいかなって」
「バカみたいでしょ」と笑う紅葉に
「ううん。秋月さんらしくていいじゃないかな」
僕にはその資格を持ち合わせていないのが悔しいが、それでも紅葉を幸せにしてあげられる人間が現れるのを、願いつつ、紅葉と大夢は帰路についた。
「紅葉ちゃん、ここにいたんだね」
あたかも、たった今来ましたよ。という素振りで紅葉の前に姿を現す。
「すずぅ……」
もう数時間も涙を流したのに、いつになれば止まるのだろうかと不思議なほど流れ出てくる。目が周りが腫れて、服の袖は涙で濡れていた。
そっと隣にまで行くと、一気に紅葉を抱きしめる。
シナリオ通り……。
もう私を邪魔する者はいない。
「私はずっと一緒にいるからね」
声は泣いているのに、顔だけは笑って勝利の美酒を味わった。