0046:江戸川ジェットスライダー
日常で意識することは少ないが、二足歩行生物である人間は、地面という途方もなく大きな支えの上に立って生きている。
そして、ひとたびその支えが無くなれば、平衡感覚を無くし、上も下も分からなくなり、自分がどちらを向いて、何を見ているのかも分からなくなってしまう。
重力と、上下。それも全て、地面という絶対的な指標があってこそ、人間は認識する事が出来るのだ。
空中での無重力体験の次に魔法少女の黒アリスが味わったのが、冷たさ、息苦しさ、身体の重さ、暗さだった。
少しの間気を失っていたのか、目が覚めた途端にそんな感じ。
息が出来ず、凍えるほどに冷たく、目の前は薄暗く、何が見えているのかまるで識別出来ない。
苦しさあまり黒アリスは暴れるが、どれだけ手足を動かしても空を切るばかりで、手応えと言うものが無く。
やがてはその動きも鈍くなり、黒アリスの意識が再び遠くなってきた。
息苦しさも徐々になくなり、脱力感と痺れのようなモノに全身が支配される。
ぼんやりとした微かな光さえ消え始め、五感が閉ざされる一方で、意識は自分の内に向いていた。
唐突に脳裏に浮かぶのは、自分の家の台所。母親と父親がいて、自分は何かを話しかけているが、内容が分からない。
家を出ると小さな頃の友人がいて、自分はリードを持ち子犬を散歩させている。
幼稚園で友達と喧嘩になり、誕生日に買ってもらったオモチャの銃を「これじゃない!」と言って父をへこませ、トイレで血を流して死ぬほどビビり、脚の多い虫を触ってトラウマを刻み、クルマに轢かれて骨折し、幽霊を見たと暗闇に怯え、仲良しグループからハブられても気にせずを装い、塾帰りに痴漢に追い掛けられ、海でトンビにハンバーガーを持って行かれ、クラゲに刺されて痕が残り、タヌキを追い掛け道に迷い、何故かクラスメイトの女子にバレンタインチョコを貰い、高校の合格発表で静かにガッツポーズを決め、クリオネの本性にもう何も信じねぇとカワイイ物不信になり、ペンギンの着ぐるみを着て子供に張り付かれ、子犬の様に抱き付いて来る小柄な金髪のクラスメイトに良い笑顔を向けられ、
「――――――――――――――ガボフッッ!?」
現実に復帰した黒アリスが、エプロンポケットから魔法の杖を引っこ抜き、何でもいいので目の前に乱射した。
放たれる50口径の魔法の弾丸は爆発する勢いで膨張し、AC-130U局地攻撃機、イージスシステム搭載ミサイル駆逐艦、M1A2エイブラム主力戦車、M249空挺仕様軽機関銃、軽装甲機動車に変化。
イージス艦を除きほとんど水に浮く物ではなかったが、とにかくその勢いにより、黒アリスは水上へと吹き飛ばされていた。
(ッ……! これは!? 海!!?)
水中から打ち上げられた黒アリスは、そこでようやく自分が墜落直前の航空機から海に飛び降りたのを思い出す。と言っても、水中に沈む前には、海面を何十回転もした為に気を失っていたのだが。
今度は空中で錐揉み大回転する黒アリスだったが、復活した魔法少女の頭の回転はそれ以上に早い。
僅かな滞空時間、不安定極まる姿勢の中で、再びエプロンポケットに手を突っ込んだ黒アリスは主砲の弾を再装填。
黒アリスが再び海中に突入する前に放たれた弾丸は、水面でゾディアックボート――――――M134付きゴムボート――――――に変化する。
そして、海中からゾディアックにしがみ付いた黒アリスは、
「…………ゴホゴホゴグゴホゴフォッッ!!? ま、まだ生ぎてるわよコンチクショー……! ゴファッ!!」
ズブ濡れの上に涙と鼻水を垂らし、大量の海水を吐きながらも、生命力に溢れた眼光でもって独りごちていた。
◇
そうして、黒アリスの旋崎雨音はズブ濡れのボロボロになりながらも、気合で航空機の墜落から生き残った。雨音自身、自分にここまでの根性があるとは思っていなかった。
ゾディアックボートから周囲を見回すと、炎上する海面と、煙を上げる羽田空港の風景がある。
改めて、よくもまぁ生き残ったものだと雨音自身呆れる思い。そう言えば走馬灯とかも見えた気がしたが、良く覚えていない。
今気になるのはジャックの事だ。
自分と一緒に飛行機から投げ出された筈だが、周囲にはそれらしい水死体は見えない。
以前ジャックの言っていた、マスコット・アシスタントは魔法少女の能力故に、リロードされれば元通り、という言葉を信じるしかなかった。
とにかく酷く疲れており、雨音はいちばん近い陸地を目指してゴムボートを走らせる。
魔法少女として操縦する知識はあるが、慣れたモノではないのでどうしても手探りにならざるを得ず、こんな時にジャックがいたらな、と思うと、少しホロリと来た。
後で知る事になるが、黒アリスのAC-130Uは巨大生物の攻撃を受けた後、東京湾の北部に墜落。黒アリスの目指した陸地は東京都の江戸川区に当たり、そこの東京湾側に面した葛西海浜公園に上陸する事となった。
月曜日の、午後6時。
夕陽を背景に東京の街がシルエットを作る美しい時間という事もあり、また海開きも近い時期だったので、公園内には多くのヒトが訪れていた。
そして、今は騒然とした空気に満ちている。
羽田の方から上がる煙を見るヒト、間近に落ちた飛行機を見て大騒ぎするヒト、そして、東京湾を泳ぐ巨大な何かから始まる一連の事象に、危機感を持って逃げるヒト。
逃げる人々は、情報が鮮明になるにつれて多くなって行く。
また、公園内や東京湾に面した区域では行政が街灯スピーカーで警告を出し、自主避難を勧告する所も多くなって来ていた。
その為か、黒アリスが威圧的な武装ゴムボートで砂浜に乗りつけても気にする人間はほとんどおらず、多くのヒトの視線は、その向こうへと注がれていた。
海浜公園は細長い島の様になった人口の干潟であり、橋によって岸壁で海と隔てられる臨海公園に繋がっている。
公園と一口に言っても、海浜公園、臨海公園共に広大な敷地面積を持っている。巨大な公園だ。
どこか休める所がないか、と考えながら黒アリスは干潟の公園から橋を渡って内陸の公園へ。
そこで思い立ち、黒アリスはエプロンポケットから携帯電話を取り出すが、持ち主ごと水没したので当然使えず。無い物は取り出せても、有る物を消したりも出来ないのだった。
「…………機種変(更)か」
地味な追加ダメージに、ただでさえ消耗しきった黒アリスの身体が一層重くなる。
一方で、本当に死ぬ所だったのだから、この程度は許容範囲内、という変な諦観の気持ちもあったが。
しかし、カティに連絡が取れなくなってしまったのは痛い。別れ方が別れ方だったので、本人の気性もあって物凄く心配である。
家の電話番号は分かるが、友人知人の携帯番号など普通覚えていられない。番号登録機能という物の便利さの弊害と捉えるべきか、覚えようという行為自体が不要な時代だと断じるべきか、難しい問題だった。
もう何を考えているのか自分でも分からなかったが。
精も根も尽き果て、ミニスカエプロンドレスの金髪美少女が、脚を引き摺りながらフラフラと彷徨い歩く。
そのしばらく後、足早に、あるいは駆け足で人々が走り回る公園の中で、ズブ濡れの黒アリスが見付けたのが、都合よく改装工事中で無人だった、公園内のホテルだった、というワケだ。
◇
自衛隊が派手に巨大生物相手に攻撃を始め、23区中に轟く砲声に、いよいよ人々は本格的に逃げ出していた。
最も混乱が激しい時間だった。
我先にと逃げ出す群衆は狭い道路で揉み合いになり、渋滞やら混雑やらで動かないクルマは激しくクラクションを鳴らす。
電車には大量の人間が詰め込まれる一方で、踏切ではクルマが線路を塞ぎ運行が止まる。
真っ先に羽田空港が壊滅しているので成田を使うしかないが、そこまで道行が当然問題となる。
警察の避難誘導も完全に機能しているとは言えず、多くの人々が取るものも取り敢えず、徒歩ででも逃げ出そうとしていた。
そして、暴徒と化した人々、混乱に拍車をかける小型の怪生物、逃げ場の無い状況などで、取り残される人間、留まるという選択をせざるを得ない人間もまた、少なくなかったのだ。
24時間後。
有る理由で保護され、警察署から解放された女子高生が、ヒトのいなくなった街中を走っていた。
警察署から家族に連絡しようとしたが、固定電話は長蛇の列で、携帯電話は全く繋がらない。加えて、親はメールをしないヒト達だった。
仲が良いとも悪いとも言えない家族だが、こんな状況では安否が気になるのは当然。
遠くからはボヤけた意味不明のざわめきや騒音が聞こえる一方で、動くモノが何も無い街中では、ヒトの気配すら皆無。
普段は気にさえしない自動販売機の作動音や、電柱の上の変換機から出る微かな音まで、今は聞き取る事が出来た。
フと、薄ら寒い物を感じ、再び脚を動かす少女。
家に向かっても誰も居ないかも。
あるいは、と嫌な考えを振り払い、胸中に不安を渦巻かせ、息が上がるのも構わず小走りで進み、大通りから住宅地への道を折れた所で、彼女は遭遇してしまう。
立ち並ぶ街路樹に齧りつき、植え込みを咀嚼している、4腕4脚、全長2メートルを超える怪生物達と、だ。
「……え」
「グググ……ググ……」
見た瞬間、少女は足を止めていた。
恐い、という気持ちもある。
だが、それが自分の命の危機であるという意識は生まれず、どうして良いか行動に迷う。
家は、怪生物達のいる向こうだ。
どこか他人事で、自分は大丈夫だという根拠の無い思いを捨てられず、邪魔だなぁ、と眉を顰める少女は、ソロソロと怪生物を迂回し、飽くまでも自分の道を進もうとする。
それが大きな勘違いだと思い知らされたのは、怪生物が一斉に少女の方を向き、無造作に距離を詰めて来た時だった。
「え? ちょ、ヤダ、来ないでよ! 恐い!!」
「ンググ……グググググ…………」
「ア゛――――――――――!?」
言ったところで通じるワケも無く、喉を鳴らし、細かい歯の並ぶ大口を開けて威嚇してくる怪生物に、少女は三方から追い詰められてしまう。
ようやく死の危険を自覚し始めるも、手遅れだという事にまで思い至らないのが救われない。
少女は背後にある駐車場の金網によじ登ろうとし、背を向けた途端、怪生物の一匹が走り寄って来る。
鋭い四指の付いた腕が少女を制服の上から引っ掻き、腕や脚を掴むと、自分達の方に引っ張り込んだ。
「いっ! 痛い!! ヤダ痛いぃ!!? 離してよ! 離してったら!!」
この期に及んで自分本位に言えば効くと思ってしまうのは、そういう社会に生まれ付いた故か。
そんな彼女を襲うのは、複数の強者が一人ぼっちの弱者を捕食するという揺るぎない現実。
もはや彼女は怪生物にされるがまま、命尽きるのも時間の問題、と思われた。
たが、
「くたばれクソどもがッッ!!」
少女の上に圧し掛かっていた怪生物が、真横から蹴りを喰らって跳ばされた。
怪生物の注意が、少女から一斉に敵の方へと向く。
その時、怪生物達が見たモノは、
「おらブッ殺せー!」
「うらぁあああああ!!」
ヒゲ面、バンダナ、上半身裸に、揃って筋肉質で日焼けしているという、まるで海賊のような集団が、手に手に曲刀やサーベルを持って突っ込んで来る光景だった。




